恋人の夢:4月26日
4月26日、日曜日。
どんよりとした曇天の下、私は世田谷にある麻衣のアパートの前に立っていた。
昨夜の夢の記憶が、いまだに現実の首筋に重い痺れを焼き付けている。夢魔ライに喉を極められ、意識の縁を彷徨ったあの法悦。その残響が、私をこの場所へと引き寄せた。
(……怖い。けれど、それ以上に、彼女に触れられたい)
インターホンを鳴らす指が微かに震える。
ドアが開くと同時に、肺の中の空気が凍りついた。
「……入りなさい。鍵は開けておいたわ」
低く、湿り気を帯びた冷徹な声。そこにいたのは、かつての「法学部の良き友人」ではない。清楚な仮面を剥ぎ落とし、冷酷な女王としての本性を剥き出しにした麻衣だった。
短く切り揃えられたダークトーンのショートボブが、雪のように白い彼女の顔を鋭く、そして不吉なほど美しく引き立てている。深く開いたチャコールグレーのサテンシャツ。その襟元から覗く鎖骨は、陶器のように滑らかで、けれど触れれば指が凍りつくのではないかと思わせるほど冷淡な光を放っていた。
玄関でスニーカーを脱ぎ、彼女の後に続いて部屋へ入る。日本の生活習慣が維持された、靴を脱いで上がるフローリング。その「日常」の延長線上に、これから始まる「異常」が待ち構えているという事実に、下腹部が熱くなる。
「麻衣さん……」
私は、彼女の背中に向かって絞り出すように声をかけた。
「聞かせてほしい。なぜ、こんな……支配的なことをするんだ。あんなに優しかった君が、なぜ……」

麻衣はベッドに腰を下ろすと、冷たいフローリングを顎で指し、私を跪かせた。私は吸い込まれるように、彼女の足元に崩れ落ちた。
彼女はしばらく沈黙し、窓の外の鈍色の空を眺めていたが、やがて視線をゆっくりと私へ落とした。その瞳には、軽蔑ではなく、もっと深く、暗い「渇望」が宿っていた。
「……謙二朗くん。あなたはいつも、言葉で自分を守ろうとする。法律、論理、倫理……。そうやって積み上げた『綺麗な言葉』の鎧の中で、あなたの魂は死にかけているわ」
彼女の雪のように白い素足が、私の顎をゆっくりと、慈しむようにすくい上げる。
「私はね、もっとあなたの『中身』に触れたいの。文字や理屈じゃない、あなたの肉体が、痛みが、窒息の果てに漏らす魂の叫びを聞きたい。そして……あなたにも、私という実在を、言葉の介在しない『重み』として刻み込みたいのよ。……私たちは、こうして肉を合わせることでしか、本当の意味で理解し合えないの」
彼女の手が、私の後頭部の髪を乱暴に掴んだ。
「……議論は終わり。ここからは、私の『命』をその体で受け止めなさい」
「っ、あ……っ!!」
抗う間もなく、私は顔面をフローリングに叩きつけられた。ワックスの冷たい匂い。這いつくばる私の背中に、麻衣はソファから降り、跨るようにしてその細く、けれど恐ろしく強靭な両脚を私の首筋に絡ませた。
第一幕:雪白の万力、頸椎の告白
「……まずは、その無駄な思考を黙らせてあげる」
麻衣の雪のように白い太ももが、私の喉元を左右から容赦なく包み込む。
視界の端に入る彼女の肌は、神々しいほどに白く、滑らかだった。けれど、その内側に秘められた内転筋が私の頸動脈を捉えた瞬間、それは血の通った「万力」へと変貌した。
「がっ!?……ぁ、あ……っ、ぐうぅっ!!」
喉仏が彼女の柔らかな肉の中に深く、深くめり込んでいく。気道が物理的にひしゃげ、肺から吐き出されるはずの呼気が行き場を失って喉の奥で詰まった。頸動脈を遮断された脳内には、凄まじい轟音が響き、視界は瞬く間にチカチカとした火花のような光で埋め尽くされた。

(……ああ、これだ。これなんだ……!)
麻衣の肌は、驚くほど熱い。外見の冷静さとは裏腹に、私を締め付けるその脚からは、彼女の激しい鼓動と、私を屈服させようとする意志の拍動がダイレクトに伝わってくる。
「んんん、ん、んーーっ!!」
逃げ場のない締め付け。私は反射的に、彼女の太ももを剥がそうと手を伸ばすが、指先は力が入らずにフローリングを虚しくかきむしる。爪が床を擦る嫌な音が部屋に響き、それが私の敗北を強調する。
「いいわ、謙二朗くん……。その必死な指先、酸素を求めてひくつく喉……。言葉を奪われたあなたの体は、今、これまでにないほど雄弁に私に語りかけているわ」
麻衣はさらに腰を沈め、内転筋を極限まで絞り上げた。私の顔は床に押し付けられたまま、左右から迫る肉の壁に押し潰される。
「はぁ、はぁ……っ、ん、んんっ!!」
喉の軟骨が軋む音が、直接脳に響く。肺が焼けるような痛みを訴え、意識が急速に白濁していく。だが、その死の淵に立つ恐怖の最中、私は強烈な恍惚感に包まれていた。彼女という絶対的な実在、雪のように白い檻の中に、私の生命維持装置が完全に掌握されているという、甘美なまでの絶望。
「……苦しい? 意識が遠のいていく? それはね、あなたが私に『同化』しようとしている証拠よ。あなたのプライドも、法学部のエリートとしての将来も、今、この私の脚の間で無残に形を失っている。……ねえ、気持ちいいでしょう? 何者でもなくなっていくのは」
麻衣の囁きが、酸素のない脳に甘く染み渡る。
彼女の太ももの裏側、膝の裏の柔らかな窪みが私の首筋に密着し、逃げ道をすべて塞いでいる。私は、彼女の肉体の一部として再構築されていくような錯覚に陥った。
指先の力が抜け、フローリングを掻く動きが止まる。
「あ……、あ……」
喉から漏れるのは、もはや言葉ではない。ただの、壊れた生き物の呻き。
麻衣はその呻きを愛おしむように、さらに数秒、私の意識を限界まで追い込んでから、ゆっくりと脚の力を緩めた。
「げほっ!……ごほっ、ごほぉっ!!」
途端に肺へと流れ込む、焼けるように熱い酸素。私は床に這いつくばったまま、激しく咳き込んだ。涙と涎がフローリングに滴り、エリートの面影は微塵もない。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
視界がゆっくりと戻ってくる。その中心に、見下ろす麻衣の、冷酷でいて慈愛に満ちた瞳があった。
「……今の感覚、忘れないで。それが『私』という存在の重みなの」
第二幕:白銀の重圧、埋没する自我
安息は許されなかった。麻衣は朦朧とする私を無理やり仰向けにひっくり返すと、サテンシャツの裾を翻した。
「……まだ、あなたの瞳の奥に『自分』が残っているわね。それを全部、私が塗りつぶしてあげる」
彼女は、酸素を求めてひくつく私の顔面の上に、その肉感的な臀部を一切の容赦なく、垂直に落とした。

顔面騎乗窒息。
「んぐっ……!?……ん、んんーーーっ!!」
視界が漆黒に染まった。
鼻と口が、彼女の肌のぬくもりによって完全に塞がれた。サテンの布地越しに伝わる、麻衣の圧倒的な肉の質量。
世界から、空気が消えた。
「……んん、んーーーっ!」
必死に首を振り、数ミリの隙間を探すが、麻衣は私の頭をその細い両手でしっかりと固定し、自らの体重をすべて私の顔面に預けている。
吸い込めるのは、彼女の肌の香りと、密閉された空間で急速に濃くなる二酸化炭素だけ。肺が爆発しそうなほど激しく胸板を叩き、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴走する。
先程の首絞めとは違う、これは「埋没」の苦しみだった。
彼女という実在に、自らの感覚器官をすべて塞がれる屈辱。
「そうよ……もっともがきなさい。私の下で、惨めに窒息して、あなたの残った理性をすべて私の中に吐き出しなさい」
彼女の臀部が私の顔面を押し潰すたびに、鼻筋がひしゃげ、唇が彼女の肉を吸い込むような形に歪む。
「んんんん、んんーーーっ!!」
私はもがき、彼女の腰に手をかける。けれど、それは抵抗というより、ただ一つの命綱に縋り付くような、卑屈な動きだった。
彼女の熱、彼女の重み、彼女の匂い。
それだけが、私の世界のすべてになる。
やがて、私の体から力が抜け、意識が真っ白な闇へと溶け落ちていった。
深夜。私は抜け殻のように、笹塚のマンションへ辿り着いた。
全身の筋肉が震え、階段を上がる一歩一歩が重い。鼻の奥には、いまだに彼女の肌の香りと、窒息の瞬間の熱気がこびり付いている。
私はベッドに崩れ落ち、即座に死のような眠りについた。
そこには、当然のようにライが待っていた。
今夜のライは、麻衣と同じショートボブの姿で、私を冷たく見下ろしていた。
「……現実の彼女に、ずいぶんと深くまで壊されたわね。でも、いいわ。その空っぽになった場所に、今夜は私が、もっと深い『刻印』を刻んであげる」
ライは私の首を軽く締め、顔面を一度だけ押し潰すと、そのまま私を深い無意識の淵へと沈めていった。
現実の麻衣に完膚なきまでに破壊された私の肉体は、夢の中のライの小さな暴力さえも、神聖な救済のように感じながら、深い眠りへと溶けていった。
……翌朝。
4月27日、月曜日。
鏡に映った自分の顔は、驚くほど透明だった。
首筋の赤黒い痕、顔面に残る彼女の重圧の記憶。
私は、神聖なまでの爽快感と共に、日常へと足を踏み出した。
