改めて令和人文主義について
小峰さんが令和人文主義にについて問題提起してくれた。一応、僕もその中にくくられているので、何かしら応答する責任があるだろう。現時点での僕の考えを、示したい。
小峰さんの問いかけは、批評家の行動として正しいと思う。それは、谷川さんが提起した令和人文主義に対する応答でもあるし、それを現代の言説史の中に位置づける試みでもあった。「正社員様の哲学」という表現も、彼らしくて好きだ。
ただ、このように同時代の書き手の共通性のうちに、ある本質を見いだすことには、危惧を抱かざるをえない。僕の専門性は哲学にある。哲学は──その定義は様々あるけれども──こうした本質化に抗い、それとは別の見方を提示する営みである。
なるほど、「令和人文主義=正社員様の哲学」は共感を呼んでいるのかも知れない。しかしだからこそ、僕はそのような見方をすることで覆い隠されること、見えなくなることに、光を当てるべきだと思う。
僕は批評の専門家ではない。だから、令和人文主義が批評界隈で新たな論点になることに対して、なんの異論もない。そうやって議論が盛り上がり、多くの人々が新たな思考を触発されるなら、それはよいことだろう。しかし哲学はそれとは違った営みだ。哲学は、私たちが生きている時代を、単純に一枚の絵のように見せる図式に対して、常に「待った」をかけ、それを複雑化させる営みなのだ。少なくとも僕はそう思う。
自分自身について書こう。
僕は令和人文主義を自称したことはない。ただ、もしも外から評価されたとき、その中に数え入れられ、しかもそれが「正社員様の哲学」として捉えられ、既存の新自由主義的体制に加担するものであると理解されるなら、それは心外である。
なぜなら、僕は一貫して、技術と責任の概念を梃にしながら、新自由主義的なもの、もっといえば人間を単に交換可能な存在として扱うシステムなるものに対して、抵抗してきたからだ。
本によって、そのアプローチは違う。たとえば『スマートな悪』(2022)では、満員電車を一つのモチーフにした。そこでは、混雑する電車のなかで突き飛ばされ、息を詰まらせられる人々の苦しみを出発点にした。『親ガチャの哲学』(2023)では、恵まれない家庭環境に生まれ、「親ガチャ」とでも言わなければ生きていけないほど追い詰められている人々の生を分析した。『生きることは頼ること』(2024)では、シングルマザーを範例に置き、自己責任論が主流となった社会で、誰にも頼ることができないままに、苦境に取り残された人々への連帯を呼び掛けた。
正社員がより金儲けできるために、哲学を利用した記憶はない。
もちろん、どんなときでも首尾一貫できているかは分からない。こういう信念を持っているからこそ、それがぶれていることがあるなら、批判されるべきだろう。たとえば僕は企業の講演やオウンドメディアに寄稿することがしばしばある。そうした場所で、もしも金儲けのために哲学を利用したことがあるなら、そうした批判は甘んじて受け入れる。
しかし、気を付けているつもりではいる。たとえば、2025年には大阪・関西万博で講演の機会を得たが、その会場で万博の理念をはっきりと批判した(万博に対する評価はその後変わったのだが、それについてはまた別の機会に書こう)。そういう一線は保持しているつもりだ。
繰り返す。小峰さんの問いかけが間違っているとは思わない。批評界隈で令和人文主義が盛り上がるのはよいことだ。しかし僕は「正社員様の哲学」を志向したことはない。むしろその構図を崩すこと、それによって見えなくなっている問題を可視化するために、自分は仕事をしているとい思っている。
