相手の立場になって考える、とは何か
子どもの頃から、何度も聞かされてきた言葉がある。
「相手の立場になって考えなさい」。
親や教師が繰り返し口にする、ごく当たり前の道徳である。もちろん、その言葉自体を間違っていると思ったことはない。むしろ、正しいこととして素直に受け取っていた。
ただ、その教えは、少なくとも私には長いあいだ、「自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけない」という、きわめてわかりやすいかたちでしか入ってこなかったのだと思う。
わかりやすく、間違ってもいない。けれど、その理解はどこかでいつも、自分を基準にしていた。
つまり私は、「相手の立場になって考える」ということを、まずは自分を相手の場所へ置いてみることだと思っていたのだ。自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけない。これはわかりやすく、たしかに大きく間違ってもいない。
けれど、この教えは入口としてはあまりにも強く、「相手も自分と同じように感じるはずだ」という前提に寄りかかっている。そこでは、相手を想像しているようでいて、実際には自分の感覚を相手に重ねているにすぎない。言ってしまえば、それはかなり強い意味での自己の投影だったのだと思う。
若い頃の私は、たぶんそういう前提で人を見ていた。
同じような笑い方をする人に親しみを覚え、同じような正しさを信じる人に安心していた。
だから、それが通じない相手に出会うたびに腹が立ったのだと思う。
なぜそんなことを言うのか。どうしてそんな振る舞いができるのか。
相手を見ているつもりで、私はずっと鏡の中に自分と似た顔を探していたのかもしれない。
けれど、年齢も立場も違う人たちと話すことが増えてから、少しずつ別の面白さに気づくようになった。
同じような意味のことを話していても、自分なら選ばない熟語を使う人がいる。妙に静かな言い回しをする人もいれば、こちらにはない比喩で物事を切り取る人もいる。昔なら聞き流していたようなそういう差異が、いまはむしろ気になる。
この人はどんな本を読み、どんな時間を過ごし、何に傷つき、何に励まされて、こういう言葉の置き方にたどり着いたのだろう、と想像したくなるのだ。
相手の立場になって考えるとは、相手も自分と同じように感じるはずだと思うことではなく、自分とは違う地層の上でその人が世界を見ているのだと考え始めることなのかもしれない。
こういう見え方が少しずつ身についてくると、日常で理不尽な相手に出会ったときの反応も変わってくる。
以前なら、交通ルールを無視して危険な追い越しを繰り返す車を見れば、正義感を燃やして腹を立てていたかもしれない。ほんの数分しか到着時間は変わらないだろうに、なぜそこまでして前へ出たがるのか、と。
けれど今なら、「ああ、あの人は『負けたくない』というちっぽけな競争心(優越感の追求)や、自分の思い通りに状況を動かしたいというコントロール感の維持に必死なのだな」と、その状況下における人間の心理的メカニズムとして構造的に観察してしまう。
あるいは世間でよく言われるように、「よほどトイレを我慢していて限界なのだろう」と推測するほうが、よっぽど腑に落ちて一人で笑えたりもする。
もっと逃げ場のない対面のやりとりでも、それは似ている。
仕事柄、理不尽な要求をしてくる人や、同じことを少しずつ角度を変えながら何度も確認してくる人、自分が優位に立とうとするような態度を見せる人に出会うことがある。
まともに正面から受け止めれば、こちらも確実に消耗する。
けれど、一歩引いてその態度の奥を覗き込むと、そこには「損をしたくない」「騙されたくない」「主導権を失いたくない」といった強い不安や防衛本能が透けて見えることがある。そう思えた瞬間、相手の態度そのものは変わらなくても、こちらの内側の反応は変わる。
怒りが完全になくなるわけではない。ただ、それが少しずつ観察へと置き換わる。
理解することは、相手に同意することではない。むしろ、相手の土俵に不用意に上がらないために、その人の背後にある文脈を読むのだと言ったほうが近いのかもしれない。
相手の背景を想像し、認知の癖や恐れのありかを読み取り、真正面からぶつからないようにする。こう書くと、どこか処世術めいて聞こえるかもしれない。
けれど、私にとってそれは単なる世渡りではない。関係を育てるつもりもない場面で、わざわざ心を削らないための、ごく実際的な方法なのだと思う。
いちいち正しさをぶつけて消耗しなくて済むようになると、心の中に少しずつ余白が残る。その余白は、怒らないための技術というより、もっと大事なものを守るための空間なのだろう。
では、そうやって温存された精神的なエネルギーや、内面に生まれた静かな余白は、何のために使われるのか。
私にとって、その答えは案外はっきりしている。
一日の終わりに家に帰り、ぴーちゃんを撫でる、その時間のためである。
外の世界のノイズに必要以上に心を乱されずに済むぶん、私はその小さな存在に、まっすぐ注意を向けることができる。
人間の複雑な心理や他者の背景、言葉の奥にある影を読むこと。それらは何か高尚な理解のためというより、結局のところ、自分の心を無駄に摩耗させず、本当に大切なものへ静かに戻ってくるためにあったのかもしれない。
「相手の立場になって考えなさい」という、子どもの頃から聞かされてきた言葉を、私は長いあいだずいぶん単純に受け取っていた。
けれど今は、その言葉はもっと厄介で、もっと深く、そして少し面白いものに思える。相手を自分に似た存在として扱うのではなく、自分とは違う地層を生きてきた他者として受け取ること。
そうすることで、怒りは少し和らぎ、世界はわずかに複雑になり、そのぶん自分の中には余白が残る。
その余白の先で、ぴーちゃんが喉を鳴らしている。
そう思うと、若い頃の苛立ちも、回り道のように見えた時間も、すべてこの静かな手触りへたどり着くための過程だったのかもしれないと、いまは少しだけ思えるのである。
