見出し画像

父の終わらないペン先を辿る/七万五千字の家族史

冷え切った父の手は、思っていたよりも強かった。

脳の手術を終え、ストレッチャーで運ばれてきた父は、まだ麻酔の残る中で、私の手を強く握った。涙を流しながら、何かを言おうとしていたが、言葉にはならなかった。

そのとき私は、「ああ、この人は死ぬかもしれなかったのか」と、思った。

それから数年かけて、父は一冊の本を書いた。

灰色の厚い画用紙に綴じられた、地味な本だった。タイトルだけが印刷されていて、装丁と呼べるほどのものは何もない。それでもその本は、世界に三十冊ほどしかない、父が三年をかけて書き上げた七万五千字の家族史だった。

そのどれもが、私の知らない時間でできている。

父は、この本で何を書いたのか。それを辿りながら、私が受け取ったものを、ゆっくりと言葉にしていきたい。

※引用部分に登場する名前は、すべて仮名にしています。また、本文中の続柄は、父から見た呼称で記しています。


【蚕と懐古】

「塩見家(仮名)の人々、縁(ゆかり)の人々」は、父から五代前まで遡る家族史であり、鈴ケ山という相撲取りを起点に、縁のあった四つの家について記されている。塩見家はかつてキリシタン大名の家臣であったが、戦に敗れて山へ逃れ、その後は百姓として生きてきた家系である。ここであらかじめ記しておきたいのは、いわゆる由緒ある特別な家柄ではない、ということだ。家族史は、父自身の記憶を手がかりに、家族や親類について丁寧に綴られている。その中でも、とりわけ父の祖父母に関する記述が多いように感じた。父にとって、身近であり、強く影響を与えた存在だったのだろう。

以下、本文より引用する。

祖父が収入役、助役のときは給料のうえに金鵄勲章の年金が下りていたから、(生活するには)十分足りていけたと思う。しかし、村議になって本格的に政治家生活になると、経済的に苦しくなり、百姓仕事をしたことのなかった祖母が鍬を持って畑を耕し、蚕を飼って稼ぐようになった。納屋の一角を養蚕場にして、蚕を飼ってない間は子供達の居り屋になった。嫁に来て初めて蚕に触れた母は冷たい肌触りを気味が悪いと言っているが、重岡の朝晩の気温の差が激しい気候の中で飼育に気を抜くことが出来なかった分祖母は可愛くてならなかった様であった。しかし、戦時中の食糧増産で養蚕は止めて、桑畑はいも畑になった。根が張った桑の木を鍬で掘り起こすのは大変な作業であったと云う。
 戦後、思い出した様に養蚕を始めた農家があって私は桑畑を目にすることはあったが、養蚕の工程は見たことは無く、全て祖母から聞いたものである。祖母が養蚕の話をするときに出た繊維会社名の「旭化成ベンベルグ」や「群瀬(ぐんぜ)」、その他「絹糸」、「人絹」とか云った言葉が私の記憶に残っている。  

 
父は実際に蚕を育てる様子を見ていない。それでも、当時の暮らしぶりを窺い知ることができる。さらに、祖母については、こんな話も残されている。    
  

祖母は常々父親の曾祖父さんからは、山林を求めて空いた土地があれば木を一本でも植えるように言われていた。終戦前、山を2町5反、田は1町5反まで増やしている。父が宮﨑高等農林に受かって面接のとき、面接官が資産状況を見ながら「道理でおっとりとした顔をしている」と父に言ったと云う。祖母は米を炊く時には、その一握りを別に貯めて置いて、物売りが来れば交換していた。「耳付き土瓶」を買って味噌醤油は全て祖母の手で作って余分ができれば「遣い物」にしていた。五十人分の膳椀を揃え何事の時も自前で済ませることができる様にしていた。入ることと出ることを何時も頭に置いて、経済を細かくして苦労して得た財産を失わさせまいと、私は繰り返し聞かされた。

その時代は借銭のための保証倒れで財産を失う悲劇があった。具体的なことは知らないが、うちも祖父が他人の保証人になって家に差し押さえが入ったことがあったらしい。執行官は、毅然として応対する祖母に対して「箪笥に紙は貼りますが、中は自由に使っていいですよと」と温情を見せたと云う。こういった事があって、財産に対する執着は晩年まで些かも衰えることは無かった。経済観念を持ち実行した人だったと思う。

その箪笥について思い出すのは、祖母が亡くなった後、中を片付けていたら黒く煤けた「産婆婦」の免状が出てきたことである。そう云えば、祖母がボールを持った様に丸くした手を窄めながら「女子(おなご)が子をもったら子宮が元通りになるには一ヶ月掛かる」と産後の養生の大事なことを言ったのを聞いたことがあった。しかし私も母も、祖母が実際に誰々の子をとりあげたと言う話は聞いたことが無かったし、慎重な性格だったので恐らく何日か講習を受けて資格を持っていただけであろう。


【戦没者の伯父】

この本を執筆するにあたり、父にとって伯母のタエ子は欠かすことのできない存在だったと思う。執筆時、当時の様子を直接聞くことができる、数少ない語り手の一人だったからだ。伯母は、その時代には珍しく、小学校の教員を定年まで勤めあげた女性だった。頭の回転が速く、いつもきびきびとしており物言いが厳しい——そんな印象があった。子ども心には少し怖い存在でもあったが、同時に、情の深い人でもあった。そんな伯母と夫である伯父の話である。

祖母が「ヒデオさんは優しい人じゃった。トマトが好きで、学校から帰って来て冷やしたトマトを旨そうに食べよった」と言っていた。体が丈夫ではなかった伯父にも召集令状が来て、工兵で小倉の部隊に入った。山口に移動して終戦間際に疫痢を発病し、部隊長からの至急電で駆けつけた病院(寺を改造)に伯父は横たわっていた。伯母には看護しやすいようにと病室の近い所に部屋が宛てがわれ、伯父は最初のうちは話が出来たが、一ヶ月程後の未明に衛生兵から促されて行った時には、何遍か名前を呼んだらやっと一言「タエ子か」と返ってきた。そして、それが最後の言葉となった。次の日、衛生兵から呼ばれた時には伯父は事切れていた。伯父を火葬にして遺骨を胸に、市内各地で起こった朝鮮人達の暴動を避けながら下関の駅舎に入ると、汽車を待っていた兵隊達が一斉に立ち上がって挙手の礼で迎えてくれた。(一部省略)
伯母が帰って来た時の様子を、祖母は「あん気の強いタエ子が泣きながら戸を入ってきたじゃが」と炬燵で独り言を云っていた姿を思い出す。身内で只一人の戦没者となった伯父が、家を出発する日、気が動転していたのか家の者に碌々挨拶もせずに出て行ったことに悪い予感がしてならなかったと祖母は話を続けた。


 【たった一枚の写真】

 私が子どもの頃、父の実家に帰省すると、必ず水がいっぱい入ったやかんと、箒を持って近くのお墓まで歩いていき、掃除をした。彫られた文字がよく見えないようなお墓がいくつもあり、一つ一つに大切に水をかけて回ったことを覚えている。また、盆には送り火迎え火は欠かさず、茄子やキュウリで精霊馬を作るのも楽しみにしていた。

子ども心に、父は信心深い人なのだと思っていた。けれど、父は、一人ひとり、その当時の人々に、言葉にならない思いを馳せていたのだろう。

一方、大正三年二月十七日次女として生まれたヤエ子伯母は成人しながら喜乏しく悲多き人生で終えた。外向きで勝気な姉のタエ子伯母とは正反対な性格であった。祖母はヤエ子伯母を岩田実科高女からタエ子伯母が出た中津の扇城女学校専修科に入れて小学校の教師にさせたかったが、タエ子伯母ほどの能力がないとみた祖父はそれを認めなかった。当然、教師の道に進めると思っていたヤエ子伯母は、進学するために手続きや扇城女学校の様子をタエ子伯母に事細かに聞いて準備をしていたところであった。
あの時期、タエ子伯母とヤエ子伯母と父の三人の子が学校が一度に重なって経済的に行き詰まったため、あれ程迄に上級学校に拘(こだわ)っていた祖父のぎりぎりの選択だったのだろう。翌々年にはタエ子伯母が教師になって稼ぐようになったとき、祖父が「こんな事になるなら、ヤエ子を無理をしてでも学校をさせとけばよかった」と自分の判断の誤りを悔いていたと祖母は話していた。
戦時中の厳しい世相の、厳しい両親の許(もと)、ヤエ子伯母は家事を一身に背負いながら、その合間に村の人達から頼まれて慶事や祭典の晴れ着を縫っていた。思い通りにならない運命への恨みから激しく祖母と衝突を繰り返し、間に入ったタエ子伯母は心を砕いたという。家に居り辛くなれば祖父方の子の無い親戚夫婦の許に身を寄せていた。ヤエ子伯母は破談を機に、病んで身の置き場の無い儘(まま)死んでいった。報(しら)せで帰ったタエ子伯母が遺体に泣き崩れていた。ヤエ子伯母の性格が内向的で優しすぎたが故になった病気を祖父母はそれを運命と言って諦めた。いつだったか父に、それまでしていた釣りをしなくなった訳を聞いたとき「姉御が死んでから、やらんことにした」と言った。その後同じように若くして死んだ私の弟のことを考えれば、恐らく、父には弟として伯母を庇いきれなかったことへの自責の思いがあったのだろう。(一部省略)
ヤエ子伯母は厭世(えんせい)故に女学校の卒業写真も自ら処分したのか、たった一枚の家族写真の中でしか見る事が出来ない。伯母が亡くなった昭和30年頃の田舎では普通に見られた女性の着物姿も、今では余り見られなくなったが、偶(たま)に街中で見ることがあれば写真の中の憂いを込めた和服姿の伯母を思ってしまう。
平成17年秋に、昭和三十二年七月二十二日に亡くなった伯母の五十回忌を祖母と父の二十五回忌に併せて済ませた。生きていればやがて百歳である。後10年も経(た)てば伯母の名を口にする者は無く、忘れ去られてしまうであろう。それを思えば哀れでならない。

この本の中で、不本意な最期を迎えたのは、ヤエ子伯母だけではない。父は、最も身近な存在である兄と弟を、それぞれ事故と病気で亡くしている。
父は、こうも述べている。

我が家に生まれ乍ら、人生を全う出来ずにその喜びを味わうことなく早死にした人達への憐憫の情は年と共に深まるばかりである。

ヤエ子伯母の“死”は、本当に仕方のないことだったのだろうか。時代が違えば、この命が消えることはなかったのではないか——そんな思いが、どうしても拭えない。たった一枚残された写真の穏やかな表情も、必死に生きた時間も、私の中から消えることはない。


【名前も知らない兵士の墓】

父方の実家の前の畑には茶株が植えられていて、墓参りに行く前には、必ずそこに立ち寄って水と線香を供えていた。そこで亡くなった“兵士さん”に、父と並んで座り、静かに手を合わせる。お盆になると迎え火を焚き、先祖とともに、その人も家へ連れて帰る。

その一連のことが、子ども心にはどこか嬉しく、強く印象に残っている。

一方、私には畑の中で祀っている西南戦争の戦死者が心に掛かっていた。明治10年、高祖父さんが六十歳前後、曽祖父さんが二十八歳の時の出来事であった。町史によれば重岡の長昌寺が官軍の陣営になって宮崎県側から北上して来た薩摩軍と争奪戦が繰り広げられた。塩見園村一帯も戦場となり村の外れの今城(いましろ)山の麓には砲台の跡が残っている。
兵士は前の畑の真ん中で息絶えて曽祖父さんがその場に埋葬したと伝わっている。曽祖父さんは目の前で起った生々しい事態を語ることもなく、戦争で討ち死にした薩摩軍兵士の墓としか祖父に話していなかった。墓といっても墓碑の代わりに茶株を植えたものである。昭和61年に寄せ墓にするとき、無縁仏として役場に預けることも考えたが、曽祖父さんと名前も分からない儘(まま)祀られている兵士の心の内を思うとそれも出来なかった。既に140年近く祀って来ており私が祖父から引き継いで40年以上経って今では私にとって先祖と同様守り仏となっている。



【父と荒肝】

 父は、とにかく真面目で慎重な男だ。石橋を、叩いて、叩いて、渡らない。

前にも書いたが、私が中学生時分「男は時には荒肝(あらぎも)を出さんと事が開けん場合があるぞ」と祖父に言われた言葉が記憶の隅に残っている。その言葉の意味は永らく私の性格を見ての言葉とばかり思ってきた。今回、祖父の遺品を整理していて中から麻布表紙の軍隊手帳が出てきた。軍隊手帳こそ金鵄勲章と共に祖父が肌身離さず持っていたものである。金鵄勲章の方は父が遺影写真を作るときに、祖父が漆塗りの箱から取り出して私にこれが「草薙(くさなぎ)の剣」「八咫(やた)の鏡」「八坂瓊(やさかにの)曲玉」と一つ一つ説明し乍ら房に吊(つる)した。金鵄勲章の箱に一緒に入れていた軍隊手帳はその時に確かに手に取って見たことは覚えている。しかし、内容は中学生だった私には難しく読むことさえ儘ならなかった。改めて手帳の軍人勅諭を精読すると軍人の心得として書かれた中の一節にそのことが書かれていた。祖父の「荒肝を出す」という事を、勅諭は事に当たる場合は「大勇を以て」と書かれている。
(一部省略)軍隊手帳には9年間の軍隊の現実が凝縮されて籠っている。軍人勅諭を読み終えて、能々祖父の日常生活を照らし合わせると軍人の心得通りに生きた様に思う。


【人間方、生き死にが一番大事】

 祖母の言葉には、今の時代にも通じるものがあるように思う。

祖母は私の先々を心配してか、

「気候によって脱ぎ着を上手くせよ」、
「咳がでるときに餅を食べると咳が酷くなる」、
「生水は飲むな、湯冷ましを飲め」、
「あえた(落ちた)柿は食べるな」、
「食べ物はよく噛んで粉にして腹に送れ」、 
「先を見通せ」、 
「何事をするにも積極的を心掛けよ」、
「生きた金を使え」、 
「人の考えは日に日に変わっていく」、
「人間方、生き死にが一番大事」、

といった経験則や人生訓を事有るごとに言うのであった。



【おわりに】

父は、生きることと死ぬことを、常に傍に置いてきた人だと思う。悪い意味ではないが、「家」に囚われ、それを途絶えさせないために、何事にも慎重に生きてきた。自身の兄と弟を亡くし、自分だけは何としてでも生き残らなければならない——そんな思いを抱えながら。

けれど、時代が変わったこともあるのだろう。兄や私に、“家”を強いるようなことは決して言わない。その代わりに、この本を書いたのかもしれない。自分が背負ってきたものを、そっと下ろすために。

父の文章には、当時の人たちの体温が滲んでいる。
文字から立ち上がる父の記憶は、遠い過去のものではなく、静かに、私と当時の人々とを繋いでくれた。

自分がここにいるのは、顔しか見たことのない誰か、顔すら見たことのない誰かの人生の上にあるのだと思う。それに気づいたとき、“今”の手触りを確かなものにしたくて、父のペン先を私なりに辿ってみようと思った。

父のフィルターを通して見た当時を、今度は“私”の側から、そっと覗いてみたくなったから。

いつか、父の記憶の断片たちは繋がり、一つの大きなうねりとなる。そして、やがて覗き込む私自身も、その一部になるのだろう。

そうだ、まだ伝えていなかったが、七万五千字に及ぶ父の本は【前編】だ。今年で77歳。元気なうちに【後編】を書き終えてくれることを願っている。


長生き、してね。


いいなと思ったら応援しよう!