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【エッセイ】 昔むかし、あるところに

今年の四月に、口承文芸学者の小澤俊夫さんが亡くなられた。もともとグリム童話の研究をされ、日本各地で昔話についての講座を行ってこられた方だ。現在も、かつての受講生の方々が再話に取り組まれているという。私の知人もその一人で、先月、完成した再話集を一冊いただいた。小澤俊夫さんが亡くなられたこともあり、西日本新聞でも、その本については取り上げられている。非売品だが、福岡県内の図書館には寄贈されているそうなので、興味のある方はぜひ手に取ってみてほしい。

この再話集の面白いところは、昔話を共通語と方言の二つのバージョンで載せている点だ。毎晩、娘たちが読んでとせがむのは、もちろん方言バージョンである。この方言バージョンは、今ではあまり使わないだろうというくらい強めの方言なのだが、それでも話は理解できるし、言葉一つひとつが耳で聞かせるための構造を持っているように感じる。そして、子どもが聞きたくなるのは分かるのだが、不思議とこちらも語りたくなる。目で読むのではなく、口で語りたくなる。どうにも、“言葉のリズム”が面白いように思う。 

小澤俊夫さんは『こんにちは、昔話です』のなかで、このように述べている。まず、昔話は、語られている時間のあいだにだけ存在する――つまり、時間に乗った文芸であり、「時間的文芸」である。小説や物語など、目で読む文学とは違い、音楽とよく似た性質を持っている。また、「耳で聞かれてきた文芸」であるため、語り口はシンプルでクリアなものである。

ふむ、昔話は、時間とともに存在し、耳で聞く音楽に近いものであるらしい。
これまでの私の記事を読んでいただいている方は、もうご存知かと思うが、私は怪異系の話が好きだ。しかし、厳密に言うと少し違う。昔話や、わらべうた、子守唄など、土地に根付いたものにどうにも魅力を感じてしまう。共通点は、人の声で立ち上がるという性質を持っていることだ。

思い返してみれば、『まんが日本昔ばなし』も、あの語り口がなにより好きだった。祖母が話す怖い昔話も、あの方言を聞きたかったからだ。そして先日、クリエイターの文具さんがコメント欄で教えてくださった半村良の『能登怪異譚』。これも語り手が能登弁で、つい口に出して読んでみたくなる。もちろんネイティブではないので上手には読めない。けれど、もしかすると口に出すことで完成するのではないだろうか、そんなことを思った。

昔話は、長い時間をかけて耳で聞くための話として研ぎ澄まされたものであり、語り手という体温を介して完成される。私は、人の温もりを感じられるからという理由で、子どもたちには積極的に読んできたのだが、小澤俊夫さんは、なぜそれが子どもにとって良いのかを平易な言葉で語りかけてくれる。特に、「人の声はあらゆる楽器を超えて心に訴える力をもっています」という言葉は、昔話とともに今後も残ってほしいと思う。

そして、昔話を読むことは、子どもに豊かな記憶が残るというだけでなく、語り手にとっても豊かな記憶として残るような気がする。毎晩、寝る前に娘たちに読みながら、じんわりと、そう感じている。タイパ、コスパが最優先の時代とは真逆の営みのようにも思えるが、時代とともに変わらなくてよいこともあるのではないだろうか。

どっぺんぱらりのぷっ。
                                                                     
                   mashiro

発端句(昔むかしあるところに…)と結末句(どっぺんぱらりのぷっ)を使っていますが、本記事は、うその話ではありません。


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あなたの記憶に残る誰かの声。
すこしだけ、思い出してみませんか。


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