神殿からポケットへ
技術は「最強」ではなく「必要十分なサイズ」に分かれていく
昔、ゲームをするにはアーケード筐体が必要だった。
大きな画面。
専用のボタン。
専用のレバー。
店の奥で光る、あの妙な存在感。
ゲームを遊ぶためには、ある種の「場」が必要だった。
ゲームセンターという場所に行き、筐体の前に立ち、百円玉を入れる。
今から思えば、あれはゲームという神を降ろすための小さな神殿だったのかもしれない。
しかし今では、当時のアーケード筐体を上回るような処理が、スマホの中で動く。
もちろん、スマホが最新の据え置きゲーム機や高性能PCに勝つわけではない。
排熱、電源、画面、入力装置、チップの大きさ。
同じ時代の技術で比べるなら、基本的に大きい方が強い。
物理は容赦がない。
小型化ロマンに対しても、平気な顔で熱を出してくる。
まったく空気を読まない。いや、熱気は出すのに。
けれど、ここで大事なのは「最大性能」ではない。
多くの人にとって必要なのは、常に最強の機械ではなく、
自分がやりたいことを困らない程度にこなせる機械だ。
スマホゲームで満足する人がいる。
Switchで満足する人がいる。
携帯ゲーミングPCで「もうこれでいい」と感じる人がいる。
一方で、4K、高fps、MOD、配信、動画編集、VRまでやる人は、でかいPCへ向かう。
ここで分かれているのは、性能への愛ではなく、用途の違いだ。
コンピュータも同じことが起きている
この話は、ゲーム機だけに限らない。
コンピュータにも同じことが言える。
Googleのような巨大企業が、普通の個人用PCを一台ずつ並べて、ちまちま検索やYouTubeやAIを動かしているわけがない。
あれはもう「パソコンを使っている」というより、
地理的に分散した計算工場を持っている、という方が近い。
検索。
広告。
動画配信。
地図。
メール。
クラウド。
AI。
これらを支えるには、個人の机に置けるような機械では足りない。
発電、冷却、通信、保守。
もはや設備そのものが文明の内臓みたいな顔をしている。
一方で、僕ら個人がそこまでの計算資源を持つ必要はない。
文章を書く。
画像を作る。
動画を編集する。
ゲームを遊ぶ。
配信する。
AIと話す。
ファイルを探す。
創作物を管理する。
このくらいなら、現代の高性能PC一台でも相当なことができる。
もっと軽い用途なら、スマホやタブレットでも足りる。
巨大企業には巨大企業の計算機が要る。
個人には個人の計算機が要る。
発電所を建てる必要はない。
けれど、懐中電灯だけで夜の山を越える必要もない。
技術は用途ごとに枝分かれする
ここでもう一段、話を広げられる。
これはPCやゲームに限った話ではない。
技術は進歩すると、ただ強くなるだけではなく、使う人や場所に合わせて枝分かれしていく。
たとえば電力。
発電所。
工場用の高圧電源。
家庭用コンセント。
モバイルバッテリー。
ボタン電池。
全部「電気」を扱っている。
でも、姿はまるで違う。
発電所をポケットに入れる人はいない。
ボタン電池で製鉄所を動かそうとする人もいない。
そんな人がいたら、たぶん止めた方がいい。本人のためにも、近所のためにも。
移動手段もそうだ。
貨物船。
新幹線。
トラック。
自家用車。
自転車。
電動キックボード。
靴。
全部「移動」のためのものだ。
でも、運ぶ人数、距離、重さ、速度、費用によって形が変わる。
料理も同じだ。
食品工場。
レストランの厨房。
家庭用キッチン。
一人暮らしの電子レンジ。
コンビニ飯。
栄養ゼリー。
どれも食べるための仕組みだ。
けれど、それぞれが担う場面は違う。
技術は「一番強い形」だけに進むのではない。
巨大化するものは巨大化する。
小型化するものは小型化する。
その間にあるものは、生活や仕事や趣味に合わせて別の形を取る。
神殿は消えない。でもポケットにも祭壇ができる
アーケード筐体は消えたわけではない。
ゲームセンターも、家庭では味わえない体験の場所として残っている。
映画館も消えていない。
スマホで映画が見られるようになっても、大きなスクリーンと音響には別の価値がある。
データセンターも消えない。
むしろAIの時代になって、巨大な計算設備の重要性は増している。
ただ、それと同時に、かつて神殿に行かなければ使えなかった力が、机の上や、手の中や、鞄の中に降りてきている。
業務用コンピュータの一部が、個人PCになった。
業務用カメラの一部が、スマホカメラになった。
スタジオ録音の一部が、宅録環境になった。
出版社的な発信機能の一部が、ブログやnoteやSNSになった。
会社の知識管理の一部が、個人のNotionやAIメモになった。
巨大な場所でしか使えなかった力が、個人の生活の中に入り込んでいる。
神殿は消えない。
でも、ポケットにも小さな祭壇ができる。
重要なのは「誰の手に、どの大きさで渡すか」
技術の話をすると、どうしても最大性能の話になりやすい。
一番速い。
一番強い。
一番高性能。
一番新しい。
もちろん、それはそれで大事だ。
最前線でしか生まれないものはある。
巨大な研究施設、工場、データセンター、スーパーコンピュータ。
そういう場所でしか扱えない規模の問題もある。
けれど、普及という点では、別の問いが出てくる。
それは、
その力を、誰が、何のために、どのサイズで使うのか
という問いだ。
企業には企業用の道具がある。
工場には工場用の道具がある。
研究所には研究所用の道具がある。
家庭には家庭用の道具がある。
個人には個人用の道具がある。
趣味人には趣味人用の道具がある。
創作者には創作者用の道具がある。
同じAIでもそうだ。
巨大データセンターで学習するAI。
企業内データを扱う業務AI。
工場で機械を制御するAI。
スマホに入る秘書AI。
創作者の横で壁打ちするAI。
ウェアラブル端末で健康や行動を支えるAI。
全部が同じ姿になる必要はない。
むしろ、同じ姿のままだと使いにくい。
大きすぎる力は、人間の手には余る。
小さすぎる力では、目的地まで届かない。
だから道具は、ちょうどいい器を探す。
「最強」より「必要十分」
僕は、技術を見る時に「最強かどうか」だけでは見ない方が面白いと思っている。
もちろん、最強はロマンだ。
巨大なPC、超高性能なGPU、発電所みたいなサーバー群。
そういうものには、問答無用の迫力がある。
でも、個人が毎日使う道具として考えた時、最強であることが必ずしも正解とは限らない。
重すぎる。
高すぎる。
電気を食いすぎる。
持ち運べない。
操作が複雑すぎる。
そもそも、そこまでの性能を使い切らない。
そうなると、最強の道具は、手元ではただの置物になる。
王者の剣も、封筒を開けるだけならペーパーナイフに負ける。
負けるというか、役が違う。
大事なのは、自分の目的に合った必要十分だ。
自分のやりたいことに届く。
生活の中に置ける。
無理なく扱える。
続けられる。
壊れた時に立て直せる。
使うたびに気力を削られない。
そういう道具は、派手ではなくても強い。
技術は「力の翻訳機」なのかもしれない
考えてみると、道具とは力そのものではなく、力を人間に扱える形へ変えるものなのかもしれない。
発電所の力を、家庭用コンセントに翻訳する。
工場の生産力を、家庭用家電に翻訳する。
スーパーコンピュータの思想を、ノートPCやスマホに翻訳する。
映画館の体験を、テレビやVRゴーグルに翻訳する。
会社規模の管理能力を、個人のメモアプリやAI補助に翻訳する。
大きな力を、そのまま渡されても困る。
逆に、小さすぎる力では役に立たない。
だから技術は、社会の中で何度も姿を変える。
巨大施設になったり、業務機器になったり、家庭用製品になったり、個人端末になったり、玩具になったりする。
同じ火でも、溶鉱炉とライターでは違う。
同じ水でも、ダムと水筒では違う。
同じ計算でも、データセンターとスマホでは違う。
違うけれど、根っこには同じ力が流れている。
これから先も、巨大化と小型化は同時に進む
未来の技術は、全部が小さくなるわけではない。
全部が巨大化するわけでもない。
おそらく両方が同時に進む。
AI用データセンターは、さらに巨大になる。
工場はさらに自動化される。
研究設備はさらに高価で複雑になる。
都市や国家単位でしか扱えない技術も増える。
その一方で、個人用の道具はもっと軽くなる。
スマホ、タブレット、ARグラス、ウェアラブル端末、携帯型PC、個人AI。
かつて会社や専門家だけが持っていた機能が、個人の生活に降りてくる。
巨大な怪獣を育てながら、豆粒も磨く。
技術文明というやつは、どうにも忙しい。
でも、その忙しさのおかげで、僕らは選べるようになっている。
神殿に行くこともできる。
家に祭壇を置くこともできる。
ポケットに小さな道具を入れて歩くこともできる。
そしてたぶん、これから大事になるのは、
「どの技術が一番すごいか」ではなく、
「自分のやりたいことに対して、どの大きさの力を持てばいいか」だ。
おわりに
アーケード筐体からスマホへ。
巨大コンピュータから個人PCへ。
企業用システムから個人用ツールへ。
この流れを見ていると、技術の進歩とは、単に性能が上がることではないのだと思う。
技術は、使う人に合わせて姿を変える。
企業の手には巨大な設備として渡る。
工場の手には生産機械として渡る。
家庭の手には家電として渡る。
個人の手にはスマホやPCやAIとして渡る。
創作者の手には、作品を始めるための道具として渡る。
最強である必要はない。
足りればいい。
ただし、その「足りる」は、人によって違う。
だから僕は、道具を見る時にこう考えたい。
これは、誰のための大きさなのか。
何をするための力なのか。
僕の手に持てる形になっているのか。
巨大な神殿も必要だ。
でも、ポケットの中の小さな祭壇も悪くない。
むしろ人間は、その小さな祭壇を持った瞬間に、急に何かを始めたりする。
百円玉を入れなくても、電源を入れれば世界が立ち上がる。
ずいぶん贅沢な時代になった。
その贅沢を、性能表の数字だけで見てしまうのは、少しもったいない気がする。
