「無言勢って人権ないよね」を、敢えて不満の意思表示として読んでみる

「無言勢って人権ないよね」

という投稿を見かけた。

前回はこれを文字通り受け取った。

人権とは何か。
誰から与えられるのか。
誰が取り上げられるのか。

結論としては、人権はそんなに気軽に生えたり消えたりするものではないし、まして一個人が他人を指差して、

「はい、今日から君、人権なし」

と決定できるものでもない。

そんな権限はない。

人権剥奪免許証は発行されていないし、人権判定士一級という国家資格も存在しない。

たぶん。

いや、たぶんでは困るのだけれど。

ともかく今回は、あの投稿を文字通りには受け取らない。

敢えて。

そう、敢えてだ。

「人権がない」という強烈な言葉を、単なる不満の意思表示として、最大限好意的に解釈してみよう。

投稿主は、こう言っていた。

会話がどうしても受け身にならざるを得ないから、どう頑張っても話の主導権を取れない

なるほど。

人権の話ではない。

話の主導権の話だった。

人権から主導権へ。

似ているようで一文字も似ていない。

いや、「権」は似ているか。

だから何だという話だが。

ところで「話の主導権」って何だろう

ここで一度止まりたい。

話の主導権を取る。

分かるようで、分からない言葉だ。

何となく意味は伝わる。

しかし何となく伝わる言葉ほど危ない。

人は何となく分かったつもりになった瞬間、考えることをやめるからだ。

話の主導権を取るとは、何を指しているのだろう。

テレビ番組のMCのように、次々と話題を振ることだろうか。

「はい、では次のテーマです」

と場を回し、喋っていない人に話を振り、脱線したら戻し、時間が来たらCMへ行く。

これは進行能力だ。

ラジオパーソナリティのように、一つの話題から連想を広げ、話を膨らませ、聞き手を退屈させずに展開することだろうか。

これは語りの技術だ。

自分から新しい話題を出すことだろうか。

これは話題提供だ。

自分の意見を場に反映することだろうか。

これは意思表示だ。

では、自分の話を延々と続け、誰の話も聞かないことだろうか。

これは独演会だ。

他人の話題を奪い、何を話していても最後には自分の話に持っていくことだろうか。

これは会話泥棒だ。

場にいる全員の関心を自分へ向け続けることだろうか。

これは主導というより占領である。

領土問題だ。

会話国の主権侵害である。

さて、どれだろう。

「話の主導権」という一つの言葉の中に、ずいぶん別々のものが詰め込まれている。

進行。

展開。

提案。

介入。

発言。

独占。

支配。

これらを全部まとめて主導権と呼んでしまうと、話が分からなくなる。

話の話なのに、話が分からなくなる。

少し面白い。

会話は基本的にキャッチボールである

話というのは会話だ。

会話というのは、基本的にはキャッチボールだ。

相手が投げる。

こちらが受ける。

受け取ったものに少し自分なりの回転を加えて、投げ返す。

ときには暴投もある。

取り損ねることもある。

誰も捕れない変化球を投げる人もいる。

急にサッカーボールを持ってくる人もいる。

それでも基本は往復だ。

ターン制と言ってもいい。

完全な一人一ターンではない。

発言量も均等ではない。

しかし最低限、相手のターンが存在する。

相手の発言を受け取る時間がある。

相手が投げたボールを見もせず、自分のボールを投げ続けることは、キャッチボールとは呼ばない。

それは壁当てだ。

しかも壁の役を他人にやらせている。

なかなか横暴である。

他人を壁にするな。

人権はある。

そこで、もし投稿主の言う「話の主導権を取る」が、

自分がずっと喋ること。

自分が話題を決め続けること。

他人の発言より自分の発言を優先すること。

場の中心を自分に固定すること。

そういう意味なら、少し確認したい。

本当にそれが理想なのだろうか。

その理想、実現して大丈夫?

仮にその理想が実現したとする。

発声できるようになった。

好きなだけ話題を出せるようになった。

誰かが話していても割って入れるようになった。

会話の流れを自分の好きな方向へ変えられるようになった。

主導権獲得。

完全勝利。

祝・人権回復。

しかし、その結果として周囲から、

「あの人、自分の話ばっかりするよね」

「人の話を聞かないよね」

「何を話していても全部自分の話にするよね」

「会話というより演説だよね」

と思われたとして。

良いのだろうか。

いや、良いなら良い。

本人がそれを望んでいるのなら、僕が止める筋合いではない。

「私は他人から会話泥棒と思われても、自分が中心でありたい」

という明確な意思があるなら、それはそれで一貫している。

好かれるかどうかは別として。

というか、かなり別として。

ただ、もし本人が「話の主導権を取れる人は魅力的だ」と考えているなら、そこには少し誤解があるかもしれない。

会話の中心にいることと、会話が上手いことは同じではない。

たくさん喋ることと、話を動かすことも同じではない。

マイクを持っている時間が一番長い人が、名司会者とは限らない。

カラオケでマイクを離さない人が、歌番組の司会者になれるわけでもない。

それはただ、マイクを離さない人だ。

会話が上手い人は、他人のターンを作れる

テレビのMCを考えてみる。

MCは、必ずしも一番長く話す人ではない。

むしろ他人に話させる。

話を振る。

拾う。

広げる。

止まりそうなら補助する。

長すぎれば区切る。

話していない人がいれば、自然に参加できるようにする。

場全体を見て、発言の流れを調整する。

これは主導ではある。

しかし独占ではない。

主導権を持ちながら、他人へターンを渡している。

むしろ、他人へターンを渡せるから主導できる。

面白い反転だ。

話を支配する人ではなく、話が循環するように働く人。

自分ばかりボールを持つ人ではなく、適切な相手へボールを送る人。

会話の上手い人とは、そういう人ではないだろうか。

だから、「話の主導権が欲しい」という願望を、もう少し具体的に言い換えたほうがいい。

自分から話題を出したい。

自分の意見を伝えたい。

会話の流れに参加したい。

他人に話を振りたい。

無視されず、場の一員として扱われたい。

このあたりなら理解できる。

そして無言勢が音声中心の場で不利なのも事実だ。

文字入力には時間がかかる。

身振りで伝えられる情報量には限界がある。

入力している間に話題が変わる。

発言しようと思った頃には、別の人が次の話を始めている。

これはつらいだろう。

欲しいのは主導権というより、会話へ能動的に関与するための手段なのかもしれない。

「人権がない」ではなく「介入手段が足りない」

そう考えると、元の投稿はかなり別の姿になる。

「無言勢には人権がない」

ではない。

「私は会話に参加したいのに、発声しないという選択によって、参加手段が限られている」

なのだろう。

あるいは、

「話題を出したいのに出せない」

「自分の意思をその場に反映できない」

「会話の流れに割って入れない」

「他人のターンを待っているうちに、機会が消える」

そういう不満なのかもしれない。

それなら、話は分かる。

少なくとも人権よりは分かる。

人権は広すぎる。

話の主導権も広すぎる。

困りごとは、大きな言葉で包むほど見えなくなる。

「人権がない」と言えば強い。

目立つ。

反応も得られる。

しかし、その代わり何に困っているのかは分からなくなる。

強い言葉は、問題を拡大することは得意だが、問題を説明することはあまり得意ではない。

メガホンであって、顕微鏡ではない。

結局、何が欲しいのだろう

話の主導権が欲しい。

そう言う前に、自分が何を望んでいるのかを分解したほうがいい。

話題を提示したいのか。

意見を言いたいのか。

会話を進行したいのか。

他人と対等に参加したいのか。

場の中心になりたいのか。

自分の話だけを聞かせたいのか。

最後の二つが悪いとは言わない。

悪いと決める権限も僕にはない。

人権判定士ではないので。

ただ、もし「皆から好かれながら、自分だけが話し続けたい」という願いなら、少々都合が良すぎる。

会話は共同作業だ。

自分だけがターンを使えば、他人のターンが減る。

自分だけがボールを持てば、他人はキャッチボールに参加できない。

主導したいなら、他人を動かすのではなく、他人が動ける余地を作る必要がある。

そしてもし、

「そんなことはどうでもいい。私はただ自分の話をしたい」

ということなら。

それはそれでいい。

ただし、そのときは主導権などという少し格好のいい言葉を使わず、素直にこう言えばいい。

「私は自分の話をずっと聞いてほしい」

分かりやすい。

潔い。

そして周囲も判断しやすい。

付き合うか。

離れるか。

壁になるか。

壁を辞退するか。

選べる。

会話にも人権があるかは知らないが、少なくとも会話の相手には人権がある。

だから、自分ばかりボールを握りしめている人を見たら、僕はたぶんこう思う。

それ、主導権じゃないよ。

単にボールを返していないだけだよ。

まあ。

本人が良いのなら良いけれど。

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