嫌な気持ちが「どうでもよくなる」までに起きていたこと
考えても、考えても、晴れない。
そのことを思い出すたびに、胃のあたりが固くなる。頭が、沸騰したように熱くなる。一度は自分の中で折り合いをつけたはずなのに、気づくとまた、同じところに戻っている。その繰り返しで、何をやっても手につかない。そういう状態に、覚えがないでしょうか。
早く落ち着かなきゃ、と思う。まず、この気持ちを片づけてしまおうとする。でも、片づけようとするほど、その気持ちのほうへ、ずるずると引き戻されていく。
私も、まったく同じ状態にいたことがあります。
そのときに気づいたことが、一つあります。感情は、解決しようとするほど、かえって自分をその場所に縛りつけてしまうことがある。
この記事に書くのは、その嫌な気持ちを無理に消す方法ではありません。消そうとするのをやめて、別の一点へ意識を向けたとき、いつのまにか抜けていた。その、少し意外な道筋の話です。
嫌な気持ちは、考えるほど強くなる
ある一件で、私はずっと、納得がいかずにいました。
どうして自分が、こんな扱いを受けなければいけないのか。その不公正な感じに、どうしても耐えられない。気持ちの悪さが常にあって、ムカムカしている。腹が立っている。
相手が誰だったか、何があったかは、ここでは伏せます。大事なのは、その中身よりも、自分の頭の中で何が起きていたか、のほうなので。
困ったのは、それが頭から離れてくれないことでした。
何をやっても、他のことが手につかない。目の前の作業をしていても、意識はそっちへ引っぱられていく。一旦、自分の中で「まあ、こういうことだろう」と折り合いをつける。落ち着いたかに見える。けれど、しばらくすると、またそこにぐるぐると戻ってしまう。
考えれば考えるほど、抜けられない。むしろ、深く嵌まっていく。そういう感覚です。
抜けた瞬間は、拍子抜けするほどあっけなかった
その気持ちが抜けたのは、自分でも、よく覚えていないくらい、ふいの出来事でした。
たしか、顧客対応に追われている途中だったと思います。目の前のお客さんを大切にする。ただ、その一つのことに集中していました。あの気持ちを忘れようとしたわけでも、無理に切り替えようとしたわけでもありません。ただ、やるべきことに没頭していた。
対応が一段落して、移動のために電車に乗ろうとしていた。
そのときでした。ふと気がついたら、あの気持ちが、もうどこにもなかったのです。
胸のあたりにずっと居座っていた重たいものが、いつのまにか消えていて、ふっと力が抜けた。探しても、もうそこにない。
ほっとした、というのとも違います。あれだけ自分を苦しめたものが、こんなにあっけなく抜けていたことに、拍子抜けしていました。なんであんなにもやもやしていたのか、なんであんなに腹が立っていたのか。その理由のほうが、もう分からなくなっていました。
解決したわけではありません。あの一件そのものは、何ひとつ変わっていない。なのに、気持ちのほうが、すっかり抜けていた。
正直に言えば、「どうでもよくなっていた」というのが、いちばん正確な言い方です。
あれだけ片づけようとしても、びくともしなかったものが。片づけようとするのをやめて、別のことに没頭していたら、いつのまにか消えていた。
感情が晴れたから動けたのではなかった
あとから、なぜそうなったのかを考えてみました。
ずっと、順番が逆だと思っていたのです。まず心を整える。落ち着く。それから、動き出す。気分が悪いままでは、いい仕事なんてできるわけがない、と。
でも、起きたことは、その逆でした。
気持ちが晴れたから動けたのではなく、動いていたら、気持ちのほうが晴れていた。
やるべきことに没頭しているうちに、意識が、あの一件からそれていた。そして、ただそれただけではなかったのです。没頭しているそのとき、私が見ていたのは、目の前のお客さんであり、チームでやっている仕事でした。
この事業への信頼。みんなで時間をかけて作り上げてきたもの。守りたいと思っているものの、ど真ん中。そちらのほうへ、意識がまるごと向いていたのです。
整えてから動く、ではなかった。動いているうちに、見ているものが、入れ替わっていた。あの一件は、いつのまにか視界の隅へ退いていました。
自分ひとりの不公正に、意識が張りついていた
では、なぜ、向く先が入れ替わっただけで、あの気持ちは消えてしまったのか。
あの一件で、私を縛っていたもの。それは結局、「なぜ自分だけが」という気持ちでした。
ああ、そういうことだったのか、と思いました。
自分が、こんな扱いを受けた。自分が、納得できない。自分が、損をした気がする。意識が、自分ひとりのことに、ぴたりと張りついていたのです。
考えて折り合いをつけようとするほど、ぐるぐる戻ってしまったのも、たぶんそのせいでした。折り合いをつけるという作業そのものが、自分をそこに縛りつけていた。その一件に、自分ひとりで向き合い続ける。それは、意識を不公正のほうへ、自分の手でつなぎ止めておく行為だったのです。
だから、片づけようとするほど抜けられなかった。
消すのではなく、別のものを見る。意識が、みんなで守りたいもののほうへ向いたとき。自分ひとりの不公正は、つなぎ止めておく手が離れて、ひとりでに小さくなっていきました。
なんだ、消そうとしなくてよかったのか。手を離せばよかっただけなんだ。
「どうでもよくなった」のは、忘れたからでも、解決したからでもなく、ただ、それだけのことだったのだと思います。
探究の続きを、一緒に
もし今、頭から離れない気持ちと向き合っているなら。「止めればいい」とは、私には言えません。私自身、あのとき「片づけよう」とする手を、止めようとしても止められなかったからです。やめようと思うほど、またそこへ引き戻されていました。
ただ、あのとき気づいたことがあります。嫌な気持ちから抜けるには、その気持ちそのものを分析するよりも、自分が本当に大事にしたいものを思い出すほうが、ずっと早いことがある。手を止めようとするのではなく、もっと大事にしているものという、別の一点のほうへ、意識をそっと向けてみる。私の場合は、そちらへ向いたときに、縛っていた手が、ひとりでに離れていきました。
とはいえ、囚われているときほど、自分が本当に大事にしているものは、見えにくくなっています。
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