責任という言葉について
はじめに
責任という言葉について、このところ考えている。いとも簡単に用いられる言葉だが、簡単に用いる人々が果たして、この言葉が意味する範囲とか、前提にしている条件とかを、良く飲み込んだ上で用いているかというと、甚だ疑問である。
大学1年生の時に指導教官に勧められて読んだ、エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)の哲学に、私は決定的な影響を受けている。出会ってから15年以上経った今もなお、レヴィナスについて折に触れて考えるし、そもそもレヴィナスの影響なしには、どんな話題についても物を考えることが出来ないほどに、レヴィナスの哲学は身体化されており、私の思考方法のベースになっている。
レヴィナスの哲学の中心に位置する概念が、責任という言葉である。「責任を果たすとはどういうことか?」を考えることは、物事の真偽を確定させることよりも、哲学にとっての優先事項であるということ。レヴィナスはこれを、「第一哲学は存在論ではなく倫理学である」と表現した。(ちなみに哲学とは「より良く生きること」の別名である)
ただ、レヴィナスに影響されるあまり、むずかしい言葉づかいまで真似する必要はない。以上で参照元は明らかにしたので、これからは私の言葉で、責任という言葉についての感想を述べることにする。
責任の語源
責任という言葉はResponsibilityの訳語であるが、分解すればResponse(応答)とAbility(能力)に分けられる。文字通り、責任を果たすことは、応答する能力を行使することと同義である。
責任は常に要望に出遅れる
応答するという所作は、相手の要望ありきの行為である。誰も要望していないことについて応答することは出来ない。まず他者の要望があって、次いで私が要望の存在に気づき、そのあとで応答しようとする。この順序は常に変わらない。責任を果たすということは、常に他者の要望に対して出遅れている。
要望を感じ取る能力が前提
出遅れても責任を果たせられれば、まだ良いほうで、私たちは普段、他者の要望の存在自体に気づかず、見過ごしてしまいがちである。その意味で、責任を果たす能力(応答する能力)は、要望を感じ取る能力を前提にしている。いわゆる、アンテナという奴だ。他者は必ずしも自身の要望を口に出して訴えるとは限らない。他者の顔色やちょっとした素振りから読み取ることも、他者が置かれた境遇から汲み取ることも、時には必要になる。こういう場合、要望を感じ取る能力が不足していれば、責任を果たすことは出来ない。
責任は能力に応じて増大する
他者の要望をより多く感じ取る人間(アンテナの感度が良い人)は必然的に、より多くのことに応答しなければならなくなる。したがって、責任は能力に比例して増大する。
責任と損得勘定
目を閉ざし耳を塞いで、責任を回避するのは簡単である。それをあえてしないのは、損得勘定に基づく判断ではない。なぜなら、より多くの責任を果たすことで得られるメリットは、せいぜいのところ「社会的評価」くらいだからだ。しかも、それすらなく、責任を果たしていることが社会から認知されないケースも珍しくない。原則、責任の増大と損得勘定とは無関係と考えるべきである。
責任を果たす動機
大したメリットがないにもかかわらず、人間はそれぞれの能力(ability)に応じて、各自の責任を果たして行く。責任を果たす本当の動機は、責任を回避することに対する不正の感覚である。
今、私が他者の要望を感じ取ったと仮定する。(レヴィナス的に言えば、他者の顔に召喚された、とする。)とっさに「違う、召喚されたのは私ではない」(この責任を果たすのは私でなくても良いはずだ)と顔を背けてしまったとする。過去を振り返って、私は必ず「あれは不正な行為だった」と後悔することになると思う。イエス・キリストの死後、一番弟子パウロが発してしまった言葉「私はイエスを知らない」と、彼の長い後悔の日々は、責任を果たす動機が責任回避することについての不正の感覚に在ることを強く示唆している。
終わりに
以上、つらつらと責任という言葉について思う所を述べて来た。結論らしき物を言うならば、責任を果たすことは別にカッコ良いものではない。英雄的行為では全くない。むしろ、それを回避することへの負い目(不正を犯すことへの恐れ)を動力にして起動する人間ならではの行動基準、それがきっと責任という言葉が意味するものである。
終わり
