演じる風景に撮らされないために
美瑛近郊に広がる丘陵地帯。農作物が美しいパッチワーク模様を描き、この風景を見て美しいと感じない人はいないはずです。伸びやかで、おおらかで、立っているだけで心地よい場所。
開拓の歴史を経て、農家が作り上げたこの景観を、僕たちは楽しんでいます。四季折々彩りは変化して、自然現象も多彩。本当にこの場所は演者としては達者です。
風景写真を撮る側は、ついそういった場所を探してしまうのは事実です。風景が名演技をしている場所。最近の言葉でいうと「絶景」でしょうか。ひょっとすると「映え」かもしれません。そうした場所を探し出し、カメラを構え、撮る。それを「絶景」として広める。ツーリズムとセットになって、風景写真はそうした場所を広めてきました。
けれども、表現としての風景写真を考えてみると、はたしてそれでいいのか、という疑問が湧いてきます。演じているのは風景側であり、それを撮っただけの写真が、表現と言えるのだろうか、と。美瑛のように誰もが共感しやすい場所を「絶景」として撮った写真は、商品としては価値があるかもしれませんが、その写真を通して何かを問いかけるものにはなりにくいと思うわけです。
美瑛で写真を撮って30年以上。僕自身は、風景を消費してしまう撮影行為ではなく、演じる風景に撮らされることなく、風景と向き合っていきたいと強く思うようになりました。
「絶景」という言葉は、つい使ってしまいます。けれども、そこに含まれるニュアンスを考えてみると、美瑛の農業景観を「絶景」としてみることはできないなと個人的には思います。人が作り上げてきた暮らしの風景は、決して消費してはダメなのです。
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