【BL短編小説】グッドナイトブルー
あらすじ:
旅の舞台は現代モンゴル。
システムエンジニアの日本人主人公は、日本で先輩と社内恋愛していた。
ある日、先輩が脳卒中で倒れた。病院で、もはや彼が目覚めることはないのだと聞かされる。
その日から、主人公には先輩の幻覚が見えるようになった。
イマジナリーフレンドの恋人と、彼は約束の地モンゴルに降り立つ。
乗馬しながらのツアーで、主人公は気の合いそうな旅行者と知り合いになる。
旅行者に惹かれる自分を意識しながら、一方で先輩への未練も捨てきれない主人公。
旅行の終わりに、彼は恋を終わらせる。
ジャンル:現代紀行フィクション
ふと、振り返るとそこには青があった。
空だ。その巨大なnullの塊は頭上をすべて覆いつくし、左右にどこまでも広がり、地平線で平らにそのお尻を潰している。
青ってきれいなんだ。人生で初めて思った。
「来てよかっただろ?」
隣で先輩がどや顔をしている。いや、顔を見ていないのでそうではない可能性があるが、想像できる。
「回答は保留ってことで」
「可愛くないなー」
「可愛さなんてパラメータで得するの、猫かポメラニアンくらいですから」
「でも、来てよかっただろ?」
「保留って言ったでしょ。しつこいですよ」
こんどこそ先輩の声を無視して、俺は手綱を握った。
この土地の移動は馬だ。
馬は優秀なので、愚かな人間ができることは尻の痛みに耐えることだけだ。
それがつらい。
デスクワークで鍛えた鋼の腰も、馬の振動には若干めげそうになる。
天幕が張られた宿泊地にたどり着いた。車で先回りしていた女性からお茶をもらって一口。ミルクティーだと思って飲んだら塩辛くて、獣の臭いも強くて精神が一瞬エラーを吐いた。
「今スゲー顔してたぞ」
「うるさいですね。変なもの食った時ってこんな顔になるんですよ」
「うまい?」
「違和感が勝ちますけど、しょっぱさが疲れた体に効きますね。砂糖のほうがよかったですけど」
「そっか。ゆっくり休めよ。じゃ、俺はいくから」
「はいはい……先輩もゆっくり寝てくださいね」
本当に過保護なんだから、若干愛よりウザさが勝つな。そう思った瞬間、俺の隣に誰か座った。
「いま、びっくりしてませんでした? いや、俺がそうだったから、そうかなってだけなんですが」
目尻の笑いシワが素敵な男性だった。
肌は日に焼けていて、栗毛の髪は短く刈ってある。俺より少し年上かもしれない。かなりタイプだ。
「はい、びっくりしました。でも、合理的ですよね。水分と塩分とカロリーを一緒に摂取できるんですから」
「飲みつけたらクセになるのかな。永井さんは、ここは初めてですか?」
「はい、えーっと」
「新倉です。昨日自己紹介したんですが、新倉周。マコトは円周率の周です」
「……すみません、人の顔と名前覚えるの苦手で」
「俺もですよ。でも、ちょっと気になって永井さんのことは覚えちゃってて」
新倉さんの名前を憶えていないといったのは嘘で、実はちょっと意識していた。
「改めて、永井継です。ケイはシンデレラの継母のままの字です。新倉さんはリピーターですか?」
「いえ、俺も初めてです。あー……ちょっと期待して言うんですけど、実はセンチメンタルジャーニーで、すっごく広い景色が見たくなって」
笑顔を引っ込めた彼の横顔に目が釘付けになる。
あ、ちょっとそばかすがあるんだ。そばかす好きだ。
「実は、俺もなんですよね」
「本当に?」
思ったより早く振り返った新倉さんの目に、射抜かれる。
まて、まて、距離感、距離感死守だぞ。何度失敗したら学習するんだよ俺、ねえ先輩。
「あ……ワンナイトはゴメンナサイなんですけど」
「あ、そこはぜんぜん! 俺もそっちのほうがいいです」
「……俺、口下手で、全然話せなくて。あ、あっちでビールが開いたみたいですよ」
「ビールより、今は永井さんと話していたいんですが、ここにいてもいいですか?」
いいに決まっている。先輩だっていないのだから。
「ご飯、できたみたいですね。今日のご飯はあんまり肉じゃないといいんですけど」
新倉さんの顔を見て、勝手に肉食系のイメージを持っていたので、意外だった。
「肉、嫌いですか?」
「日本では好きでした。でも、ここの食事って生々しいっていうか……誰かがシメてくれた肉を食ってた身としては、まだ距離感がつかめなくて」
距離感ってワードも俺の検索キーにヒットした。
「羊の解体、希望すれば見せてもらえるらしいですけど、明日行きませんか?」
「ま、まだ覚悟ができてないですね」
「でも、今日の飯は食べなきゃですよ、行きましょう」
「ですね」
残念ながら、食事はかなり肉だった。こん棒みたいなスペアリブの煮込みで、辛くて微妙なハーブの香りがある。
新倉さんが目をつぶって噛り付くのを、こっそり眺めていた。
隣にきた先輩が笑う。
「うまい?」
「……ありがたいです」
「っていうと?」
「疲れてるし、寒いですから。あったかいものが腹に入るだけで、ほっとします」
「そっか。お前、カップ麺食う時も同じこと言ってたよな」
「俺の食事シーン観察してたんですか? キモ」
「おい、キモいとか言うなよ。俺はただな」
近くに人が来たので、俺は黙った。虚空に話しかけているヤバいやつだと思われたくない。
「お前がずっと元気がなかったから……少し明るい顔が見れて、よかったって思ったんだ」
そういうのホントやめてほしい。
ちゃんと言ってほしかったし、言えばよかった。
好きでしたよ、先輩。今も俺は好きですよ。
翌日、朝食を食べた後、馬に乗る前に新倉さんが話しかけてくる。
「今日、一緒に歩きませんか?」
「あ、はい、ぜひ!」
歩くといっても乗馬しながらで、賢い馬は新人の組んだマクロより優秀なので、俺たちは上に揺られているだけだ。
新倉さんは俺の前を馬に揺られていて、時々俺を振り返っていた。少し目が合って、俺はその度に脳にポジティブなフィードを感じる。
つい手綱を変な方向に引っ張ってしまって、馬を動揺させてガイドさんに怒られた。
変なところを見られたな、と思ったら、その時もガイドさんに新倉さんは怒られていて、ちょっと笑った。
空はどこまでも青くて、太陽は先輩みたいだった。
夕食。
料理を持った皿を持って、新倉さんの隣に座ると、彼は優しい笑顔で迎えてくれた。
「肉と炭水化物のエッジが急ですよね。ジャパニーズとしては、肉じゃがくらいの折衷案で妥協してほしいのに」
思わず話したい気持ちがあふれた。
「実は、解体も見せてもらって、今は結構食えますね、俺」
「え、ほんとに?」
「食欲やや失せましたけど……食べるって、こういうことだなって」
「強いなぁ、永井さんは」
ちらちら視線を合わせたり外したりしながら値踏みする。
就活みたいな面倒な時間。でも、少しずつ自分が彼に惹かれていくのがわかる。
33歳、4歳年上。外見は俺にはもったいないくらい。収入の安定さでは俺が上。でも、俺もいつまで今の仕事続けるかわからないし。
こういう打算で恋したくないけれど、すれ違って傷つけあう前に、要件定義が必要だ。
大人の恋は面倒くさい。俺はただ愛されるだけの恋に慣れきっていてダメだ。
「……俺の失恋の話、聞いてもらっていいですか?」
新倉さんから切り出してくれた。優しい。
「俺の方から言うと元恋人の悪口になるから、彼のことは言わないで。俺のことだけ話させてください」
彼が見上げたので、俺もつられて空を見た。
青かった空は今は黒くて、星が光ファイバーケーブルぶった切ったみたいにキラキラしていた。
「俺、博士課程を出て、ポスドクってやつなんですよ。覚悟してたけど、この闘争はほんと激しいですね……なんか、余裕なくて。毎日毎日、金と研究結果のこと考えてピリピリしてたら、ある日すっぱり振られました!」
顔を膝にうずめた新倉さんを見て、大丈夫か、この人、優しすぎないか? と思った。
俺だったら、苦しい時に捨てる男なんてぼろくそに言って、正体がバレない程度にSNSに罵詈雑言をアップするぞ。
「俺はですね――」
弱みを見せてくれた新倉さんに向き合いたいと思って、口を開いた。
さあ、俺の邪悪なエピソードフォルダが火を噴くときだ。どんなにひどいことをされたのか、どんなにないがしろにされたのか。
今ここで全部暴露してやる、と思った瞬間、頬を涙が滴った。だめだ、呼吸できない。
「けーい」
声に、振り返れなかった。
星の光、異国の地、優しい恋人候補、そんなものは何の意味もない。
先輩がいない人生を選ぼうとしている。
「しあわせになれよ。もう、ふっきれていいだろ」
「俺は……俺の方から捨てたんですよ。ブラック企業に勤めてて、やたら明るい、バカみたいな先輩と付き合ってて……」
新倉さんは紳士だなと思った。こういう時に肩に触ったりしてこない。
「いつかモンゴルとか行こうぜって、あの人が言って、ブルースクリーンじゃない青い空見ようって、絶対に行かねーよって、次の日出勤したら、脳卒中だって。忙しいんだからさっさと復活しろよって、でも、もう意識は戻らないって……あの、死別とかじゃないんです。俺が、あの人を捨てたんです」
一日中乗馬していてよかった。疲れ果てていなかったら、暴れたり叫んだりしてしまっていたかもしれない。
「何だよ脳卒中って、俺のことが大事なら、食生活とかちゃんとしろよ。運動して、ちゃんと寝て……アンタが俺に言ってたこと、アンタがしろよって」
あのバカ先輩に言うべきなのに、口が滑って止まらない。
「来てよかったです。ブルースクリーンより、この空を見れてよかった。泥水みたいなコーヒーより、しょっぱいミルク茶飲んで笑えてよかった。あの人より、冷たい空気が吸える場所でよかった」
泣き顔を上げたところで、新倉さんと先輩の笑顔がダブった。
「……日本に戻っても、連絡取り合いませんか? もし、よければですけど」
テントに泊まって、薄い膜のこの部屋とサーバー室はどっちが寒いか考えた。
「先輩、俺、寝ますから。悪いけど――俺、幸せになっちゃいますからね」
ツアーの日程が終わった。
空港に行って、スーツケースを預けて、新倉さんの搭乗を見送って、自分の番になった。
「まあまあ楽しかったですけど、モンゴルって……先輩?」
振り返ったのに、答えはない。
笑顔の男がいるはずだ。突拍子もないことを言って、周囲の人から呆れられて、俺に怒られて、頭を掻きながら謝罪する彼がいるはずだ。
必死に探した。人にぶつかっては謝り、トイレを覗いて不審がられて、ついに地平線の見える屋上にたどり着く。
「先輩!!」
ちがう、俺は立ち直ってなんかいない。まだアンタが必要なんだ、複雑怪奇なシステムの舵取りも、厄介な顧客の撃退法も聞いていないし、俺まだ好きだって言ってない!
しあわせになれよ。
先輩の声を必死に思い出した。そこには、飛行機の離発着が見える屋上しかなかった。
ああ、そうか。先輩は、あの青い空に昇って行ったんだ。
俺はもう会えないけれど、深い青の中で、先輩は俺を見下ろしているんだ。
あの顔を思い出して、涙を拭った。
俺は新しい恋人を作って、幸せになる。アンタは指をくわえて、もう少し生きていればよかったって後悔し続ければいい。
日本に帰ると、機内モードを解除したスマホにメッセージが入った。
『大丈夫でした? 出発に間に合ったかなって心配で。この旅、楽しかったです、次の土日お暇ありますか? 食事でも』
出てくるなら今だぞ。俺、次の恋に行っちゃうぞ。
早く俺の首に抱き着いて、浮気かよ、サイテー、って言えよ!
『俺も会いたいです。都内ならどこがいいですか? ゆっくりできる』
フリック入力の途中で知らない番号から電話が入った。先輩のお父さんからだった。
「いえ、連絡してくれてよかったです。告別式には、行きたいです。あの……お悔やみ申し上げます」
『エスニックのお店しttるんで、どおですかる、』
送信ボタンを押したあと、恋人が思い出になるのを、空港のベンチでずっとずっと待った。
こちらの企画に参加させていただきました。ありがとうございました!
