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誰も僕を知らない世界で、スパイダーマンはもう一度生まれる。『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』と「孤独なヒーロー」の原点。

『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』と「孤独なヒーロー」の原点

「スパイダーマン BND」。最高じゃないですか! 2026年7月31日公開の『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』。トム・ホランドのピーター・パーカー=スパイダーマンを主人公とするシリーズ第4作にして、新章のスタートである。

前作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021年)のラストは、あまりにも切なかった。ドクター・ストレンジの魔術によって、世界中の人々から「ピーター・パーカー」という存在についての記憶が消えてしまった。MJも、親友のネッドも、ピーターを知らない。

アベンジャーズの仲間たちとのつながりも失われた。メイおばさんも、もういない。ピーターは文字通り「ひとり」になった。それでも彼は、自分で縫ったスーツを着て、ニューヨークの空を飛ぶ。誰にも知られず、誰からも感謝されず、それでも困っている人がいれば助ける。

つまり『ノー・ウェイ・ホーム』の最後で、トム・ホランド版スパイダーマンは、それまでMCUから与えられてきたものをほとんどすべて失うことで、逆説的に「スパイダーマンそのもの」へ帰っていったのである。『ブランド・ニュー・デイ』は、その先を描く。

これは単なる「第4作」ではない。一度すべてを失ったピーター・パーカーが、「スパイダーマンとは何なのか」をもう一度ゼロから始める映画なのだ。

三人のピーター・パーカー

ここで思い出したいのが、映画におけるスパイダーマンの歩みである。サム・ライミ監督、トビー・マグワイア主演の『スパイダーマン』(2002年)が公開されたとき、21世紀のアメリカ映画におけるスーパーヒーロー像は大きく変わった。

ピーターは、決して「選ばれた英雄」ではなかった。学校では冴えない青年。恋するMJにはなかなか思いを伝えられない。お金もない。仕事もうまくいかない。そして、ベンおじさんを救えなかった罪悪感を抱えている。

超人的な能力を持ちながら、人生はちっとも楽にならない。むしろ力を持ったことで、背負わなければならないものが増えていく。そこにスパイダーマンというヒーローの本質があった。

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」。この言葉がピーターの人生を決定する。サム・ライミ版三部作が今も愛され続けている理由は、CGやアクションだけではない。

これは徹底して「青年ピーター・パーカーの人生」の映画だったからだ。恋をする。失恋する。働く。家賃に困る。友達と喧嘩する。大切な人を失う。それでもマスクを被る。そこにスパイダーマンがいた。

アンドリュー・ガーフィールドの「喪失」

2012年、マーク・ウェブ監督による『アメイジング・スパイダーマン』で、ピーター・パーカーはアンドリュー・ガーフィールドへと引き継がれた。

このシリーズでより強く描かれたのが、「喪失」だった。両親の不在。ベンおじさんの死。そしてグウェン・ステイシー。とりわけ『アメイジング・スパイダーマン2』(2014年)の結末は、ピーターの人生に決定的な傷を残した。

愛する人を守ることができなかった。その記憶を抱えながら、それでもスパイダーマンであり続ける。そのアンドリュー版ピーターが『ノー・ウェイ・ホーム』でMJを救った瞬間。あれは単なる旧シリーズからのゲスト出演ではなかった。

かつて救えなかったグウェン。今度は救うことができた。あの一瞬によって、七年前に終わったはずの『アメイジング・スパイダーマン』の物語に、一つの救済が与えられたのである。

『ノー・ウェイ・ホーム』が素晴らしかったのは、過去作を「懐かしいキャラクター大集合」にしなかったことだ。トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールド、トム・ホランド。三人のピーター・パーカーが、それぞれ異なる時代の「喪失」を背負って、同じ画面に立った。

そこで若いトム版ピーターは、二人の先輩から「スパイダーマンとして生きるとはどういうことか」を受け取った。そして、ひとりになった。

「アイアンマンの弟子」からの卒業

考えてみれば、トム・ホランド版スパイダーマンは、歴代映画版のなかでもかなり特殊なピーターだった。初登場の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016年)から、彼の傍らにはトニー・スタークがいた。

ハイテクスーツ。AI。アベンジャーズ。宇宙。サノスとの戦い。高校生のピーターは、いきなり巨大なMCUの中心へ放り込まれた。

だから『ホームカミング』(2017年)から続いた三部作には、スパイダーマンの成長物語であると同時に、「アイアンマンの弟子が、いかにして自分自身のヒーローになるか」という側面があった。

そして『ノー・ウェイ・ホーム』で、最後の補助輪まで外された。スターク製スーツはない。アベンジャーズという後ろ盾もない。MJもネッドもいない。ピーターをピーターとして知っている人間が、世界に誰もいない。

そこで初めて、彼は自分で作った赤と青のスーツを着る。その瞬間、MCU版スパイダーマンは2002年のサム・ライミ版、さらに遡ればスタン・リーとスティーヴ・ディッコが生み出した1960年代のコミック版へと回帰したのである。

だからこその「Brand New Day」

本作のタイトルには、もちろんコミック史上の意味もある。コミックでは「One More Day」を経て、ピーターとメリー・ジェーンの結婚など、それまでの人生の一部が改変され、2008年から「Brand New Day」が始まった。『Amazing Spider-Man』#546以降、新しい生活、新しい人間関係、新たなヴィランを導入して、ピーターの物語を再出発させたのである。

映画はその設定をそのまま映像化したわけではない。しかし、「一度積み上げたものを失い、もう一度ピーター・パーカーを始める」という精神は明らかに受け継いでいる。だから『Brand New Day』なのだ。昨日までの人生には戻れない。でも、朝は来る。そのタイトルが、今回はとても切実に響く。

パニッシャーとスパイダーマン

そして今回、嬉しかったのがフランク・キャッスル=パニッシャーとの組み合わせ。これが実にいい!ジョン・バーンサルのパニッシャーがトム・ホランドのスパイダーマンと同じニューヨークを歩いている。

この二人は、ヒーローとしては対極にいる。ピーターは、できる限り人を殺さない。フランクは必要と判断すれば躊躇しない。ピーターにとって犯罪者も「救えるかもしれない人間」だが、フランクにとっては排除すべき対象となることがある。

それでも二人とも、自分なりの方法で街を守っている。だからバディになったとき面白い。しかもジョン・バーンサル版パニッシャーは、Netflix時代のマーベル・ドラマから続いてきたキャラクターである。

つまり映画のスパイダーマンと「ディフェンダーズ」周辺の世界が、いよいよ本格的に同じ地面を歩き始めたことになる。巨大な宇宙船ではなく、ニューヨークの路地で。これがいい。

ジーン・グレイとピーターの孤独

そしてジーン・グレイ。ここも本作の重要なポイントだった。彼女が背負っている「強大すぎる力」と「孤独」。それがピーターと響き合う。力を持っているから幸福になれるわけではない。

むしろ、その力のために普通の人間として生きられなくなる。ピーターも同じだ。誰かを救うたびに、自分自身の日常が遠ざかっていく。誰かを守ろうとするほど、その人から離れなければならなくなる。

『ノー・ウェイ・ホーム』の結末は、その究極だった。
からジーンの悲しみが、単なる「X-MEN参戦」のサプライズではなく、ピーターの物語と重なってくる。ここがうまい。

そしてブラック・ウィドウ!

さらに、相変わらずマイペースのブラック・ウィドウ。この存在感も楽しい。ここまで来ると、「X-MEN」「アベンジャーズ」「ディフェンダーズ」という、かつて別々の映画やドラマとして存在していた世界が、ようやく自然に混ざり始めたことを実感する。

それでも映画が「マーベル大集合大会」にならないのは、物語の中心にピーターの孤独がしっかり置かれているからだ。これが大事なのだと思う。

MCUは巨大になった。世界は広がった。登場人物も増えた。マルチバースまで登場した。しかし映画が面白くなるためには、観客が「この人はどうなるのだろう」と思える一人の人間が必要なのである。今回は、それがピーター・パーカーなのだ。

久しぶりの「ハルク大暴れ!」

そして――ハルク!これですよ!久しぶりにスクリーンで見る「ハルク大暴れ!」。ブルース・バナーはMCUの長い歴史のなかでずいぶん変化してきた。知性とハルクの肉体を共存させるようになり、いつしか初期作品にあった「怒りによって何が起こるかわからない怪物」という恐怖感は薄れていた。

もちろん、それもキャラクターの成長ではある。でも、ハルクが出てきたら、やっぱり暴れてほしい(笑)。巨大な緑色の肉体が暴れ回り、街が揺れる。あの圧倒的な重量感。初期アベンジャーズを観ていたころのワクワクが蘇ってきた。しかも今回は、単なるサービスではない。

「自分のなかに、自分では制御できない何かがいる」というブルース・バナーの物語は、本作で身体に異変が起き始めるピーターとも重なっている。映画の公式紹介でも、この「変化をピーター自身が制御できるのか」が物語の核として明記されている。つまり本作では、さまざまなマーベル・ヒーローが、それぞれ別の角度からピーターの姿を映す「鏡」になっているのである。

ヒーロー映画から、もう一度「青春映画」へ

監督は『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のデスティン・ダニエル・クレットン。脚本はクリス・マッケナとエリック・ソマーズ。ジョン・ワッツが手掛けた「ホーム」三部作の高校青春映画的な空気を受け継ぎながら、本作ではピーターがもう少し大人の世界へ足を踏み出している。

それは当然だ。もう高校生ではない。いつまでもトニー・スタークを見上げている少年でもない。誰かに「正しい答え」を教えてもらえる時代は終わった自分で決める。自分で失敗する。自分で責任を取る。

それが大人になるということなのだろう。でも、そこで面白いのは、ピーターが大人になるほど、スパイダーマン映画はむしろ原点へ近づいていくことである。

金がない。孤独。恋もうまくいかない。仕事とヒーロー活動の両立も難しい。だけど誰かが困っている。だから行く。サム・ライミ版で描かれたピーター・パーカーが、そこに帰ってくる。

「親愛なる隣人」という言葉

スパイダーマンは、神ではない。王でもない。億万長者でもない。ニューヨークの「隣人」である。ここが、スーパーマンやバットマンとも、アベンジャーズとも違う。

窓の外を見れば、どこかのビルの谷間を飛んでいるかもしれない。自転車泥棒を捕まえるかもしれない。迷子を助けるかもしれない。そして家に帰れば、一人の青年として悩んでいる。その「近さ」がスパイダーマンの魅力なのだ。

だからMCUという宇宙規模の巨大シリーズのなかで、ピーターをもう一度ニューヨークの街角へ戻したことには大きな意味がある。宇宙を救った少年が、もう一度「隣人」になる。それこそが『ブランド・ニュー・デイ』の再出発なのだと思う。

そして、ネッド

そしてラスト。ネッドとの、アレ。泣きましたよ!あそこまで巨大なアクションを見せられ、ハルクが暴れ、X-MENとアベンジャーズとディフェンダーズの世界が交錯した果てに、最後に胸を締めつけるのが「友達」の話なのである。

そこがスパイダーマンだ。ネッドは『ホームカミング』以来、ずっとピーターのそばにいた。スパイダーマンの正体を知って驚き、喜び、ピーターを助け続けた。しかし今のネッドは、それを覚えていない。

ピーターだけが覚えている。一緒に笑ったこと。危険な目に遭ったこと。馬鹿なことをしたこと。親友だったこと。記憶を共有していたはずの二人のうち、一人だけがその時間を持っている。

こんな残酷なことはない。だから、あのラストの小さな出来事が効く。世界を救うよりも小さな奇跡。でもピーターにとっては、世界を救うことより大きな奇跡かもしれない。

スパイダーマンは、何度でも立ち上がる

考えてみれば、映画のスパイダーマンはずっと「喪失」の物語だった。トビー・マグワイアはベンおじさんを失った。アンドリュー・ガーフィールドはグウェンを失った。

トム・ホランドはトニー・スタークを失い、メイおばさんを失い、そしてついには、自分自身を知っている人々まで失った。それでも三人とも立ち上がる。

なぜか。誰かが助けを必要としているから。ただ、それだけなのだ。そこにスパイダーマンというキャラクターが60年以上愛されてきた理由があるのだと思う。強いからではない。負けないからでもない。彼は何度も負ける。何度も間違える。

大切な人を救えないこともある。人生は思い通りにならない。それでも次の日、マスクを被る。だから「Brand New Day」なのだ。新しい一日とは、過去を忘れることではない。失ったものが元に戻ることでもない。

悲しみを抱えたまま、それでも朝を迎えることなのだ。2002年、トビー・マグワイアのピーター・パーカーがニューヨークの空を飛んだ。2012年、アンドリュー・ガーフィールドがその糸を受け継いだ。2016年、トム・ホランドがMCUへ飛び込んできた。

そして2026年。巨大になったマーベル・シネマティック・ユニバースの中心で、ピーター・パーカーはもう一度、一人の青年になった。

パニッシャーがいる。X-MENがいる。アベンジャーズがいる。ディフェンダーズから続く世界もある。そして、その巨大な世界の片隅にネッドがいる。MJがいる。でも結局、ピーターがしなければならないことは昔から変わらない。

マスクを被る。窓を開ける。糸を放つ。そしてニューヨークの街へ飛び出していく。誰も自分のことを知らなくても。誰も「ピーター・パーカー」を覚えていなくても。困っている人がいる限り、彼はスパイダーマンであり続ける。
『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』。
これはMCUの新章であると同時に、スパイダーマンというヒーローが60年以上繰り返してきた、最も古くて、最も大切な物語の再出発だった。そしてラストのネッドを見て、思う。ピーター。君は、完全に一人じゃなかったんだよ。

――いやあ、やっぱりスパイダーマンは最高です。

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所 よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。