見出し画像

「うーん……諦めるか。」
今回も、断腸の思いで重箱の蓋を閉めた。

御殿場にある工場へ、
お客様をご案内する機会が時々ある。
海外からのお客様。
共同研究先の教授。
取引先の社長。
工場での打ち合わせや見学には、
およそ二時間ほど。
その前後に昼食をご一緒するのが、
私の定番になっている。

お連れするのは、一軒の鰻屋である。
御殿場の名物というわけではない。
しかし、落ち着いた雰囲気があり、
畑の中にぽつんと建つ佇まいも美しい。
料理も比較的短時間で提供される。
そして何より、お客様に喜んでいただける。

もちろん、事前確認は欠かせない。
「鰻は召し上がれますか。」
もし苦手な方なら別のお店を選ぶ。
幸い、今まで「鰻は苦手です」と
言われたことは一度もない。

席に着いてしばらくすると、
お重が運ばれてくる。
ずっしりと重い蓋。
それを開けた瞬間、お客様の表情が変わる。
「おおっ!」
一匹半もの鰻が豪快に並ぶ。
この瞬間が私は好きだ。
料理そのものが会話を始めてくれる。

食事は自然と盛り上がる。
ところが、問題は終盤である。
鰻も少なくなり、ご飯もあとわずか。
しかも一番おいしいタレが染み込んだご飯は
重箱の四隅へと追いやられている。
箸でつまもうとしても、うまく取れない。
あと一口。
いや、あと半口。
この一粒が実にもどかしい。

一人で食べているのなら話は簡単だ。
重箱を口元へ持っていき、
「ガガガッ」
とかき込めば良い。
あの最後の一粒まで味わい尽くせる。

だが、お客様の前ではそうはいかない。
社長という立場もある。
案内役でもある。
上品に食べ終えることも、
大切なおもてなしの一つなのだろう。

だから私は、最後まで箸で格闘した末、
「ああ、もういいか。」と諦める。
そして静かに蓋を閉める。
しかし、そのたびに思う。
あの隅に残ったご飯こそ、
一番おいしいのではないか、と。

人生にも、似たようなことがある。
本当は思い切りやりたいことがある。
本当はもっと素直に振る舞いたい時もある。
けれど、人には立場があり、役割がある。
その立場が、
自分の行動を少しだけ抑えてくれる。

若い頃は、それが窮屈に感じた。
だが今は、それも悪くないと思う。
人前で少し我慢できることも、
大人になるということなのだろう。
それでも……
もし一人でこの店に来たなら、
私はきっと、最後の一粒まで
遠慮なくいただくと思う。

あのタレが染み込んだご飯は、
今日も私を静かに待っている・・・。

いいなと思ったら応援しよう!