【ショートショート】母の背中 #一枚の写真から文芸賞
目を開けると、母の背中があった。
いや、嘘だ。そんなはずがない。
数回瞬きをして、ずれたコンタクトレンズの位置を戻す。視界のピントがあうにつれ、からだの感覚を思い出していく。自分がいま、どこで何をしているのかも。
旅先でふと立ち寄ったカフェは落ち着いた佇まいでありながら地元民でほどよく賑わっていて、そのかすかなざわめきがかえって心地よく、いつの間にか眠りに誘われていたらしい。
うたた寝は、誰かに見られていなかっただろうか。気恥ずかしさをごまかしたくて、グラスにまだ半分以上残るアイスコーヒーをすすった。
改めて窓辺に目を向け、驚いた。そこにいたのは、もちろんわたしの母ではなく、なんならひとですらない。こちらに背を向け窓の向こうを見つめる、白い毛の猫だった。
どうしてこんな場所に、猫が。
「ふふ。あの子ねぇ、あそこがお気に入りなの」
ぽかんと口を開けるわたしのそばに、いつの間にか店主が来ていた。一瞬、眠っていたのを咎められるかと身構えたが、どうやらそれには気づいていなかったらしく、笑顔でコップに水を注ぎ足してくれる。
「こちらで飼っている猫ちゃんですか」
「まぁ、一応ね。餌はやってるけど。でもあっちがどう考えているかは分かんないね」
猫って、気まぐれだからさ。前は何日も見かけないことだってあったし。
店主の言葉にはぁ、と頷く。仮にも飲食店で、出入りする動物の扱いがそんなにアバウトでよいのか。
わたしの疑念が伝わったのか、店主は慌てたように言った。
「前は、の話ね。あの子はもともと野良で、この辺の地域猫だったんだけど。ちょうど半年くらい前、喧嘩かなにかで怪我してるところを保護してね。今は去勢もさせて、すっかりイエネコよ」
さらりと言われた「去勢」という言葉にぞくっとしたが、店主はなんでもない顔をしている。生き物を飼っている人にとっては、大したことではないのだろう。
店主は「ごゆっくり」と言い残して、奥へと消えて行った。
改めて、窓辺の猫の背なを見る。母どころか、オスだったのか。動物の性別はつくづくわからないものだ。
窓の向こうには、遠く港と海がみえる。猫の目に、あの景色は届いているのだろうか。
お前、本当はまだまだ外で生きていたかったんじゃないのかい。
喧嘩して、恋して、自分の子どもだって残したかったんじゃないのかい。
だから、うちのお母さんなんかが、その背に重なってみえたんじゃないのかい。
***
家々の合間を縫うように続く細い階段を下って海辺へ向かう。
わたしのリュックにはタッパーがひとつ入っていて、その中には、お骨になった母がいる。
昨晩、実家のひと間に寂しく置かれた骨壺から、抜き取ってきたものだ。
母は生前、夫と義両親(わたしにとっては父と祖父母)に何もかもを奪われたひとだった。若さも。時間も。楽しみも。自由も。
むかし、家族で伊豆へ旅行に出かけたときも、母には自分のための時間はなく、おもちゃが欲しいとぐずるわたしの弟たちや酒に酔い大声でわめき笑う男たちの世話に明け暮れていた。わたしはそんな母を見ていることすら嫌で、ひとつも手伝わずに押し入れに隠れて本を読んでいた。あとで、祖母に見つかり、こっぴどく叱られた。
その翌朝、旅先でうまく寝付けずいつもより早く目の覚めたわたしは、まだ誰も起きていない部屋のなかでひとり、椅子に腰かけ窓の向こうをながめる母の背中を見たのである。
母は、すぐに起きたわたしに気づき、振り返って微笑んだ。
「いいわね、海は。母さんね、いつか船にでも乗って、海を旅してみたいわ」
自分がなんと答えたか、よく覚えていない。その翌年、わたしは全寮制の学校を受験し、いち抜けた、とばかりに家を出た。
階段の終わりが近づいてくる。水面に反射するきらめきが目を刺し、潮をふくんだ風が鼻をくすぐる。
このあと、離島に向かうフェリーを予約している。その甲板から、母の骨を海へまいてしまうつもりだ。
肩紐を握り、リュックをよいしょ、と背負いなおした。
さぁ、お待たせ。海はすぐそこだよ、お母さん。
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数日前に花澤薫さんのこちらの投稿を見つけ、思い立って応募しました。noteにフィクションを投稿するのは久しぶりなので緊張する。
主催者・花澤さんの著書『すべて失われる者たち』のテーマは「生きることのミステリー」。
リアルな人生の面白さや奇妙さは、物語にとっては越えられない壁。であると同時に、そのただ中にある私たち人間に寄り添ってくれるのもまた、物語だと思う。
ずいぶん長く書いていなかった物語を、最近また書きたいと思っている。そんな気分にフィットする機会にちょうどよく出会えたのもまた、寓話的な縁だと感じている。
