掌編#084 『吾輩も、猫である』
猫には名前がなかった。
男にも、最近はあまり名前がない。
男は猫を飼っているつもりはなかった。
ただ毎晩、ベランダの窓を三センチだけ開けて、古い皿に猫缶を出す。
それだけだった。
かつて、男を呼ぶ言葉はいくつかあった。
夫。
父親。
部長。
名前。
今は、宅配伝票に印刷された苗字か、病院の待合室で呼ばれる番号くらいだった。
スマホは、めったに震えることはない。
ベランダに来る猫は、黒い毛並みをしていた。
ところどころ、雨の跡のように毛が固まっている。
男が「クロ」と呼んでも、猫は耳を動かさず。
「先生」と呼んでも、反応しなし。
猫はただ、皿の前に座り、黙って食す。
男が手を伸ばすと、喉の奥を低く鳴らして身を引く。
食べ終えると、音もなくベランダの手すりへ上がり、暗い隣家の方へと消えていく。
男は皿を下げ、窓を閉めた。
その順番だけが、夜の中に残っていた。
ある雨の夜、猫が来なかった。
男は皿を出したまま、窓を三センチ開けて待っていた。
風がベランダの床を濡らす。
サッシの隙間から、水滴が一つ、部屋のフローリングへ入り込む。
時計の針が、二度回った。
猫は来なかった。
男は皿を片づけようとしたが、やめた。
窓も閉めないようにした。
翌朝、皿の上の猫缶が乾いていた。
黒くなった端を、しばらく見つめる男。
窓の外に目をやると、二軒隣のベランダに、黒い影が座っている。
猫は別の部屋の窓を見ていた。
そこも、少しだけ開いていた。
男は皿を洗わなかった。
窓は、三センチだけ開いたまま。
