掌編#032 『誰も待っていない』
新しい部屋の鍵は、思っていたより軽かった。
会社の社員証も、合鍵も、誰かと揃えたマグカップも、もう持っていない。
男は初めて、誰にも帰りを告げずに部屋へ入った。
真新しい壁紙の匂い。
段ボール箱が、いくつか置かれている。
靴を脱ぐ。
誰の足音もしない。
電気ケトルに水を注ぎ、冷蔵庫のドアを開けた。
何時に食べてもいい。
床に寝てもいい。
電気をつけたままでもいい。
男は、スマートフォンを見る。
画面は黒いまま。
着信なし。
通知なし。
行き先を聞く声もなし。
帰りを待つ怒りもなし。
湯が沸いた。
部屋には、その音だけがある。
何をしてもよかった。
だから男は、何もしなかった。
