[映画感想] 映画『箱の中の羊』を観に行ったよ
福岡の友人から語りたい、
と言われた『箱の中の羊』を
観に行ってまいりました。
今回は速記的な感想です。
注意
・ネタバレがあります
・家族による虐待についての記述があります
・ぼくの読みの問題かもしれませんが、
虐待の記述が軽くならざるをえませんでした
ぼくは、是枝監督の作品を
全然、観ていませんので、
その程度の人間の感想だな、
と思っていただければ幸いです。
作品全体についてですが、
是枝監督のこれまでの作品の主題、
「捨てられること」をめぐるお話だった、
ということが観終わった後の印象です。
「驚くほどAIは関係ないな」
「なぜSF推してしまったのか」
くらいのことは思いましたが。
以下、本題に入ります。
1 ひとを捨てたり拾ったりしてはいけない
ひとはものではありません。
安易に捨ててはいけません。
人権というものがあります。
でも捨ててあるからといって、
安易に拾ってはいけません。
人権というものがあります。
そうはいっても、ひとはひとを捨てますし、
捨ててあるひとをつい拾ってしまいます。
拾わなければ救われないものもあります。
何より、私たちは死によって、
世界の全てを捨てていきます。
少なくとも遺されたひとたちは、
死者がここではない場所に行ってしまった、
つまり、捨てられたと思ってしまいます。
また、「私にとってのあなたの死」
と同義の出来事が起これば、
「捨てられた」と感じることもあります。
その死が継続すれば、それは、
トラウマになり、亡霊のように、
ぼくたちにまとわりつくことでしょう。
「捨てられる」とは、象徴的には、
どこでも起こっている痛切な出来事、
といえると思います。
ですが、今では捨てられることは通常ではない、
ということに「なってしまっている」ためか、
捨てられた生き方が見えにくくなっています。
2 捨てられ方の違い
作中の中心人物の2人、
甲本音々とその夫、健介は、
少し違う捨てられ方をしています。
健介は自己という形でこの世を去った、
息子、翔に捨てられたと思っています。
妻の音々は、それだけではなく、
自分の母にも捨てられたと思っています。
健介は息子の死に対して、
罪責感を持つことで、
「捨てられた」経験を処理します。
だから、「誰かに殺された」として、
ほんとうに罪のある存在を探します。
それは悲しいことではありつつも、
それほど複雑ではないことでしょう。
ですが、音々は少し複雑です。
夫と同じように罪責感を持つものの、
その罪は自分の「お母さん」にある、
と考えるようになっています。
これは遡れば、「お母さん」が、
子どもの頃の音々にたびたび、
「お母さん辞める」と言っていました。
それが彼女のこころに残っていたことと
無縁ではないと思えます。
音々にとって、自分を捨てるものは、
まずもって母親だったのです。
ですから、子どもに「捨てられたこと」と
母親に「捨てられたこと」が同一視され、
子どもの事故死による「捨てられた」感覚が、
母親に「捨てられたこと」と混線してしまった、
そして、捨てられたことへの怒りは、
時として母親に向けてしまうようになった。
音々が、
「箱の中にいたのはママだったんだ。
翔かと思ってたのに」
と述べるとき、
この「ママ」は自分自身でもあり、
そして、母親でもあったのでは、
と思われます。
「箱」とは、大切な何かを描けないときに、
それでも描いたことにする虚構であり、
ぼくたちはそうして目に見えないことで、
むしろ大切なものを受け止めることができる
そういう種類のもののこと、逆説的に、
そう描かれるのが「かんじんなもの」である、
とぼくは解釈しています。
箱の中にあったのは、
翔ではなかったというのは、
もちろん、翔が大切じゃなかった、
ましてや、自分が大切みたい、
というお話ではありません。
彼女にとって「ママ」に象徴される、
「捨てる存在」(母親)であるとともに
「捨てられる存在」(自分自身)であること、
についてが「かんじんなこと」である、
という意味だと思えるのです。
3 のこされた問題。拾ってしまうことと不完全な葬儀
この物語のすさまじいところは、
「捨てるー捨てられる」という関係性について、
一見、和解が成立したかに見えた後のことです。
ヒューマノイドたちは死の世界に旅立ちます。
これは音々の母親が、おじいさんによろしく、
ということばを翔に言って送り出すことからも、
また、貧弱なペットボトル水車での充電から、
推察されるでしょう。
最後の森の場面とは要するに葬儀なのです。
葬儀は生者だけでやるものではありません。
実際の葬儀で故人の意思を汲み取るように、
死者とともに組み立てていくものなのです。
ヒューマノイドの翔との交流で、
「捨てられた」ことを
「知らんけど」と言いながらも、
それなりに実感できたであろう
甲本夫妻は、この「葬儀」を前向きに
とらえることができているようです。
ここまでは、何もおかしくはありません。
ただ、2点不思議なことを残しました。
1つは人間をいれた10人の子どもたちが、
その場に残ったことです。
虐待を受けていたであろう人間の子どもは、
既に死んでいたのでしょうか。
それとも、まだ、生きているのでしょうか。
どちらにせよ、夫妻が「拾ってしまう」
というできごとが起こっています。
『万引き家族』と同様のモチーフです。
夫妻は捨てられているから拾ってしまった。
『万引き家族』で近代社会が拒絶した、
そして、作品が肯定でも否定でもなく、
ただ描いたそのあり方を、
近未来の彼らも
反復しているのです。
この反復を翻って、
単純な肯定にしている、
と言い切るだけの描写は、
本作の中ではありませんでした。
ただ、失敗ともいえません。
むしろ、ただ拾ってしまうものなのだ、
ということを描こうとしたのだと
思えてなりませんでした。
もう1点です。
健介の会社の若い社員が
「俺もここにいなきゃいけないかもな」
といった発言をしています。
日ごろ、ひょうきんな言動をする彼、
彼にとって死の世界にいなければならない、
ということはどういうことなのでしょうか。
彼は登場する必然性のない存在です。
いなくてもラストシーンは回ります。
つまり、彼の存在には意味があるのです。
象徴的な葬儀の意味を捉えられない現代人
というモチーフでしょうか。
葬儀というものは、本来集団的なものです。
しかし、そこに嘆かないひとがいること。
死に寄り添わないひとがいること。
これは葬儀が葬儀の体をなしていない
ということです。
夫妻の葬儀は彼の存在によって、
奇妙な儀式に成り代わります。
それは、死者との向き合い方について、
まだ、何か残されている、ということなのでしょう。
じつのところ、この作品は、
何も決定的な回答を示していないのです。
ただ、ともかくも、捨てられた者が、
自己の鏡のような存在を前にして、
前進のきっかけがありうるかもしれない、
というように見せた物語でありつつ、
『万引き家族』のモチーフを反復せざるを得ず、
不完全な葬儀をせざるをえないこと、
を描いたというように考えさせられます。
むしろ、不完全にしか生きられない
人間という生き物を描いて見せた、
ということは言えるのかもしれません。
心温まることのない人間劇だった、
といえるかもしれません。
そして、それは家族や死、人間について、
何の救いもないという事実を告げる、
とても誠実な態度の物語だった、
と言えると思います。
映画と無関係な懺悔
せっかく新宿に出たので、
映画を見るだけではなく、
ユル勇者様のコラージュ展を
観に行ってきました。
観るだけだと申し訳ないな、
と思いつつ、一人だったのと、
明日仕事があるのとで、
晩御飯を食べることにしました。
あまりにもお店に貢献してないので、
ちょっと申し訳ないなと思ったので、
ここでこっそり懺悔しておきます。
友達少ないのと勢いで行動するのは、
こういうときに問題を生じさせますね。
あ、コラージュ作品は素晴らしくって、
ネットでのつながりが、
こうして形をとるのを見るのは、
良いものだなあ、と思いました。
ユル勇者様のフォロワーのみなさま、
新宿に行かれた際には、ぜひ。
あと、和平さんがオフ会的に
みんなで行こうって声かけてますんで、
そちらでご参加も良いかと思います。
というよりも、そっちが正道です。
歴戦のソロプレイヤーとりも、
さすがに気後れしました。
以下で開催中です。
【全席個室】酒場 つむぎ屋
東京都新宿区歌舞伎町1-17-13 J1ビル 5F
https://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13292630/

