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尾久の待合と、阿部定事件と、私の血筋。

父から聞いた話は、それだけだった。
「昔、篠田は尾久で待合をやっていた」

それ以上は知らないと父は言った。
旅館もやっていたらしい。
三河島のほうで氷と塩とタバコも扱っていたと。尾久のあたりには篠田姓の親戚が何軒かいると、子供のころに聞いた。でも詳しいことは、誰も教えてくれなかった。

父は知っていたのだと思う。ただ、私がまだ子供だったから、言わなかっただけで。
祖父の政能は、私が小学校の低学年から脳梗塞で半身麻痺になり、ずっと病院にいた。病院のおじいちゃん、と子供の頃は呼んでいた。話した記憶がない。
その父が平成18年に倒れ、19年に逝った。
60歳だった。
若すぎる。そう思う。でも、もうその父に聞くことはできない。周りの親戚もいない。篠田のことを知っている人間が、気づいたら誰もいなくなっていた。

だから自分で掘るしかない。

私の名前は篠田寅之助。
ビジネスネームだ。でも、でたらめにつけた名前じゃない。曽祖父から継いだ。
曽祖父の篠田寅之助は昭和45年10月に亡くなっている。享年80。私が生まれる前の話だ。会ったことはない。顔も知らない。声も知らない。
知っているのは、父から聞いた断片だけだ。
尾久で旅館と待合をやっていた。三河島で商売もしていた。篠田の先祖は水戸藩士だったと。
曽祖父の息子、祖父にあたる篠田政能は
皇宮警察にいたエリートだったと。
それだけだ。
その断片を語ってくれた父も、もういない。

調べようと思ったのは、「阿部定事件」がきっかけだった。

昭和11年5月。荒川区尾久の待合「満佐喜」で起きた事件。愛人の男を絞殺し、局部を切り取って逃げた女の話。猟奇的な事件として昭和史に刻まれている。

現場の住所は西尾久2丁目。尾久八幡神社のすぐ近くだ。

父が言っていた「尾久八幡神社の近くで待合をやっていた」その言葉と、地図の上で重なった。
事件が起きた昭和11年、曽祖父の篠田寅之助は33歳前後だった。尾久にいた。待合をやっていた。そして篠田姓の親戚が、そのあたりに何軒かいた。

満佐喜と篠田の待合が同じ場所かどうかは、わからない。おそらく永遠にわからない。でも同じ三業地の中で、同じ時代に、篠田一族は確かにそこにいた。

なぜ私は「寅之助」を名乗るのか。
よく聞かれる。ビジネスネームで動いているのは珍しいらしい。
答えはシンプルだ。会ったことのない曽祖父から継いだが、本名では少し世の中を生きづらい事情もあってだが。

名前を継ぐというのは、不思議な感覚だ。その人間の何かを引き受けるような気がする。何を引き受けているのかは、まだわかっていない。記録は少ない。写真もおそらくない。でも、尾久の三業地で旅館と待合を切り盛りして、昭和45年まで生きた男が確かにいた。

その男と私は、同じ名前を持っている。
だから掘ることにした。父が語った断片を手がかりに、曽祖父が立っていた土地を歩き、彼がいた時代の記録を探す。答えは出ないかもしれない。でも、同じ名前を持つ人間がそれをやることには、何か意味があるような気がしている。
これがその記録だ。

ーーーー

第1章|「昔、篠田は尾久で待合をやっていた」

篠田家の家系を、知っている限りで並べてみる。
高祖父・篠田丑太郎。昭和20年3月没、享年81。
高祖母・篠田ます。昭和32年1月没、享年90。この二人が、私の知る篠田家の最も古い層だ。

その息子が、曽祖父・篠田寅之助。昭和45年10月没、享年80。
曽祖母・篠田はる。昭和46年8月没、享年76。

曽祖父・寅之助の息子が、祖父・篠田政能。
皇宮警察に勤めたエリートだったと父から聞いた。平成2年ごろ没。
そして父。平成19年没、60歳。
それから自分となる。

五代、並べてみると、いくつかのことが見えてくる。

高祖父・丑太郎から曽祖父・寅之助の時代、篠田は尾久で商売をしていた。旅館と待合。三河島では氷と塩とタバコ。尾久八幡神社の近くに篠田姓の親戚が何軒かいたと、子供のころに聞いた。

尾久は当時、東京でも有数の三業地だった。料理屋、待合、芸者置屋が集まる花街として大正11年に指定され、最盛期には300を超える店があったという。碩運寺がラジウム鉱泉を掘り当てたことで温泉地としても栄え、都電が走り、人が集まり、金が動いた。

篠田はその中にいた。

不思議なのは、次の代だ。

曽祖父・寅之助の息子、祖父・政能は皇宮警察に入っている。

尾久の花街で育った男の息子が、皇室を守る仕事に就いた。三業地の旅館と待合から、皇宮警察へ。この飛躍が何を意味するのか、私にはまだわからない。明治から大正、大正から昭和へ、時代が変わる中で、篠田家も何かが変わったのだろう。あるいは、変えようとした人間がいたのかもしれない。

祖父・政能に直接聞けたなら、と思う。でも祖父は私が小学校の低学年のころから脳梗塞で半身麻痺になり、ずっと病院にいた。子供の私には、その人が何者だったかを知る術がなかった。

父が知っていたはずの話は、父と一緒に逝った。
残っているのは、断片だけだ。

尾久で旅館と待合をやっていた。三河島で氷と塩とタバコを扱っていた。水戸藩士の血筋だったと。皇宮警察のエリートがいたと。尾久に親戚が何軒かいたと。

断片を並べると、輪郭だけが浮かび上がる。でも中身がない。その人たちが何を考え、どう生きて、何を残そうとしたのか、何もわからない。

手がかりは、もう一つある。

茨城県大洗町大貫の西光院に篠田の墓がある。その近くの諏訪神社の記念碑には出資者の名前が彫られていて、高祖父・篠田丑太郎の名前があった。

そして、ネットで水戸藩士の名簿を調べたとき、篠田姓の藩士が一人だけいた。篠田次郎右衛門。

これが篠田家の血筋の始まりかもしれない。確認する方法はある。水戸藩士の系図をまとめた「水府系纂」という史料が、茨城県立歴史館と徳川ミュージアムに残っている。

まだ、行っていない。

だから地図を広げることにした。

篠田一族がいた尾久という土地を調べ、彼らが生きた時代の記録を掘る。そこに昭和11年の阿部定事件が重なってくる。現場の待合「満佐喜」は西尾久2丁目。篠田が商売をしていた尾久八幡神社のすぐ近くだ。

篠田と阿部定事件が交わったかどうかは、わからない。でも同じ土地で、同じ時代に、篠田一族はそこにいた。

次の章から、その土地を掘っていく。​​​​​​​​​​​​​​​​

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