見出し画像

野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第6話 渡辺崋山(1)

→ 野口良平著「幕末人物列伝」マガジンtopへ
→ 野口良平「幕末人物列伝」総目次



 19世紀前半の日本列島は、それまでとは明らかに異なる状況のなかに身を置きはじめていた。

 徳川の封建体制が確立して以来、列島は、大陸の清王朝を中心とする、朱子学的な華夷かい秩序ちつじょ(仁義を知る文明〔=自分たち〕とそれを知らない野蛮〔=まわりの異文化たち〕の区別の明確化による統治体系)を支えとする東アジア世界に自らを置きながら、鎖国というもう一つの華夷秩序をその内部につくりだすことによって、対外関係を律していた。

もちろん、鎖国といっても、厳密な意味で国をとざしていたわけではない。政府が採用していたのは、対馬口(李氏朝鮮)、薩摩口(琉球)、松前口(アイヌ)、長崎口(オランダと清国)という四つの小さな窓口を通じて外の世界との関わりを保とうとする、制限外交政策だった。

それでも、海外渡航および海外よりの入国は禁じられていたし、政府による情報統制が行き届いていたため、一般の人びとの世界認識と行動は、大きな制約を抱えざるをえなかった。

渡辺崋山(1793-1841)の時代の東アジア


 ところが19世紀に入ると、18世紀後半以来の帝国ロシアの南下政策にくわえ、第一次産業革命を背景にした英国による市場拡大の動きがインド、清国をもとらえ、さらに列島をもうかがうようになる。

その波頭を示す出来事が、オランダ船の拿捕を名目に英国軍艦が突如長崎に入港した、文化4(1807)年のフェートン号事件だった。

英国の軍艦フェートン号

この時、諸藩の応援を得られぬ状態での侵入船への対応を強いられ、その要求に従わざるをえなかった長崎奉行の松平やすふさ(1768-1808)は、国威を辱めた責任をとって切腹。
また、警備の職責をまっとうできなかった佐賀藩は処分を受け、その屈辱が、幕末から明治にかけて諸藩に先んじる富国強兵路線を推進する力になった。

これより14年前にも、ロシアからは大黒屋光太夫(1751-1828)らの漂流民を伴ったラクスマンが来航(1793年)しており、こうした列強の動きを受けた徳川政権は、みずからの権力は朝廷より委任されたものだとする「大政委任論」、過去も未来も鎖国こそが国是であるとする「鎖国祖法観」を提示して、列島内部への威信を保ちつつ、当座の難局をしのごうとした。

ロシアから大黒屋光太夫たちをつれてきたラクスマン

だが、英国、さらには米国による新たな動きが目ざましくなってくると、これに対する危機意識が、支配層以外の人びとをもとらえる機運が生じる。
この機運が拡大し、海外に関する知識への欲求が高まれば、封建支配の土台を揺るがしかねない。

そこで幕府は、文政8(1825)年に異国船打払令を発布。日本の沿岸に近づいた異国船は見つけ次第砲撃し、追い払うように定めた。
これは、列島の内外、および身分の上下における情報の分断を通して維持されていた幕藩体制の、最後のあがきというべきものだった。
この布告が撤廃されたのは、アヘン戦争(東アジアの中心だった清が英国の軍艦に大敗することになる)勃発の2年後の天保13(1842)年のことである。

徳川時代(近世)の列島内部では、経済的には商品経済および都市文化が発達する一方で(疑似近代)、政治的には封建的身分制度が隅々までゆきわたり、一般の人びとによる政治参加への道は閉ざされていた(前近代)。

相次ぐ飢饉と失政によって貧窮のどん底に置かれた人びとは、農民一揆(農村部)や打ちこわし(都市部)を通じて為政者に仁政(=人民に対する思いやりのある政治)を要求するほかなかったが、その件数は増加の一途をたどり、やがて、体制の存立基盤そのものにゆさぶりがかけられるようになる。

打ちこわしの景
(品川区史 通史編 上巻、四 近世編 / (八) 幕末の品川 / 7 打ちこわしと武州一揆)
(品川デジタルアーカイブ/https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht004270)
天保七年京都三条橋畔の救恤(きゅうじゅつ)
渡辺崋山著『荒嵗流民救恤并畧記』天保9年(1839年)刊、書写
北海道大学附属図書館所蔵
(国書データベース,https://doi.org/10.20730/100239860)



水戸徳川家の当主斉昭なりあきら(1800-60)が、早急の藩政改革を訴えた『戊戌封事』(1838)のなかで用いた内憂ないゆう外患がいかんという言葉は、19世紀前半の内外に列島に現れた状況に支配層が抱いた危機感覚を、見事に要約してみせたものである。

以上の背景を踏まえておかなければ、支配層の一員としての良心の極致を示した渡辺崋山わたなべかざん(1793-1841)の生き方の輪郭を描きだすことはできない。


「渡辺崋山」(2)へつづく

→ 野口良平著「幕末人物列伝」マガジン
→ 野口良平「幕末人物列伝」総目次
→ けいこう舎マガジンtop

ヘッダー写真:崋山最期の地、池ノ原公園に端座する渡辺崋山の銅像(著者撮影)

■参考文献


*全文章の著作権は、著者(野口良平先生)に、版権は、編集工房けいこう舎に帰属します。無断転載はなさらないでください。
もちろん、記事全体のリンク、シェア、ご紹介は嬉しいです!

■著者プロフィール


野口良平 のぐち・りょうへい
思想史家、文筆家。
著書に『「大菩薩峠」の世界像』(平凡社、二〇〇九年、第一八回橋本峰雄賞受賞)、『幕末的思考』(みすず書房、二〇一七年)、最新刊に『列島哲学史』(みすず書房、二〇二五年)がある。
訳書にルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ 米国一〇〇年の精神史』(共訳、みすず書房、二〇一一年)、マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』(みすず書房、二〇一九年)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*全文章の著作権は、著者(野口良平先生)に、版権は、編集工房けいこう舎に帰属します。無断転載はなさらないでください。
もちろん、記事全体のリンク、シェア、ご紹介は嬉しいです!
(けいこう舎編集部)


いいなと思ったら応援しよう!