野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第5話 本居宣長(5)
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学者宣長にとっての重大な転機が訪れる。宝暦13年(1763)5月25日、かねて著作を通してその学業に敬意を抱いていた賀茂真淵(1697-1769)と、生涯に一度の出会いを果たしたのである。
江戸在住の真淵は、伊勢参宮の途中で松坂に立ち寄り、日野町の新上屋旅館に寄宿していたのだが、初対面の若い来客を迎え入れ、話を交わした。このとき宣長34歳、真淵は67歳。


28歳の時、賀茂真淵の著「冠辞考」を入手し熟読して、面会を夢来ていた宣長が、6年後、真淵が伊勢参りのため松阪に泊まったことを聞き……というエピソードが紹介されている。
真淵は、32歳で荷田春満(1669-1736)の門人となり、40代の半ば頃に『万葉集』の研究を始めた古典学者だった。万葉文字をかな読みに置き直す作業を進め、各巻の成立時期の考証も行う。
真淵の直観によれば、もともと列島にあった文化はよいものだったのだが、仏教や儒教の影響により、しだいに汚れたものになる。真淵が『万葉集』研究をライフワークに定めたのは、そこに、海外文明の影響を受ける前の、素朴で純粋な文化のありかたが見てとれると考えたからだった

(『國文学名家肖像集』永井如雲 編 出版者 博美社、昭和14〔1939〕年5月より
(パブリックドメイン/撮影Hannah)
宣長は真淵に、自分は『古事記』の研究をしたいのですが、と言った。真淵は、それはよいところに着眼なされた、本当なら自分こそやりたいところなのだが、この齢だ、時間がない。その仕事はあなたに託しましょう、と応じた。学問は基礎が大切なのだから、まずは『万葉集』で古い言葉の勉強をしなさい。手紙で質問をくだされば、お答えもしましょう。
翌年、宣長は真淵に正式に入門し、真淵死去までの6年間、手紙でのやりとりを重ねた。もし通信教育の歴史というものが書かれるとすれば、鎌倉初期の藤原定家と源実朝についで、真淵と宣長のやりとり(問答と対話)は、重要な頁を占めることになるだろう。
宣長と真淵の二人は、たった一夜の出会いを通して、お互いの力量を深く認め合ったことだろう。だが、あるいはそれ以上に興味深いのは、二人のあいだに感受性や価値観の違いがあり、それが緊張関係をもたらしていたことかもしれない。
宣長が歌をつくり、添削を求める。すると、真淵はびっしり朱字を入れてダメ出しをする。だが宣長は屈せず、真淵を怒らせる。真淵は、奈良期の『万葉集』の世界に、おおらかでマッチョな「ますらをぶり」を認め、作歌の手本としていたのだが、宣長は、むしろ真淵なら汚れたものとみなすような、平安鎌倉期の『古今集』や『新古今集』の、繊細でフェミニンな「たをやめぶり」にこそ、自分の歌の手本があると信じていた。
師への宣長の態度は、ヘレン・ケラーの「学びほぐす(unlearn)」という言葉を連想させる。教師から学んだことを、他と取り換えのきかない自らの状況と必要に応じて編み直し、学び直すこと。宣長は真淵の教えを鵜呑みにせず、学びほぐそうとした。
→ 本居宣長(6)へつづく
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◆著者プロフィール
野口良平(のぐち・りょうへい)
1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。
〔著書〕
『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
『幕末的思考』みすず書房、2017年
『列島哲学史』みすず書房、近刊(2025年9月)
〔訳書〕
ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』 みすず書房、2019年
〔連載〕
「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!
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