野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第5話 本居宣長(9)
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先入見を離れてテキストそのものにつくという修練は、宣長に一つの洞察をもたらした。42歳で書いた「直毘霊」(『古事記伝』巻一の巻末に収録)のなかで、宣長はいう。
――中国で「聖人の道」と呼ばれてきたものは、国を治めるためのものだが、そうした「道」がなくとも事足りて、天下が平穏に治まっていた状況を伝えるのが、列島の古文献である。そこには、「聖人の道」に相当するものが記されていないが〔それゆえに未開・野蛮の地と軽んじられもするが〕、「聖人の道」がすでに実現されていたからこそ、文献にも現れないのだ。「聖人の道」こそないが、そのことがまさに、このうえなく優れた「道」が〔慣習法として〕存在した事実を物語っているのである。

(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2545184 (参照 2025-08-02))
道なき道というのも、もう一つの「道」なのだ。このとらえかたには、一つの創見がある。老荘思想にも通じる一種のアナキズムとも言える。一方この「道」を宣長は、テキストに従い「神の道」と呼ぶ。
ここで一つの疑問が私には湧く。古い列島の世界に「神の道」を見てとるのはよい。だがそれをそのままの形で、今を生きる人びとの「人の道」として受けとることはできるのか。ここには、宣長最大の難所がありはしないか。
『古事記』の記述を虚心に読む限り、天照大神はまさしく天地をあまねく照らす「日の神」と信じるほかないと、宣長は考えた。それに対し、その「天地」とは「御国(日本)」のことに過ぎないと反論したのが、大坂の文人上田秋成(1734-1809、『雨月物語』の作者)だった。以後の二人の応酬は、「日の神論争」と呼ばれる。
宣長の説を荒唐無稽とみなす、都会的で合理的な秋成の批判に、だが宣長は決してゆずらなかった。宣長から見れば、秋成の論は結局漢意の現れでしかなく、先入見を去り真心につくという自分の学問的動機がまったく理解されていなかったからである。

(甲賀文麗画/パブリックドメイン)
だがこの論争は、宣長自身が抱えている問題をあぶりだすものでもあった。それは、宣長が信じようとする「神の道」が、今を生きる、私利私欲にとらわれざるをえない人と人とが探り合う理路としての要件を欠いていることだった。
宣長が出発点におくのは、「もののあはれ(真心)を知ること」である。それを人に表現させ、享受させ、俗世では得がたいつながりを人と人とのあいだにつくりだす力が、歌にはある。
では、そのような人間同士がその先に、治者を見返しうるもう一つの「公」をいかにつくり育てることができるのか。本来なら宣長はそう問い、それこそルソーのように、被治者(女子と小人)による政治参加への道筋までを探りあてる必要があった。
だが宣長は、政治の領域については常識人として「公儀」に従う姿勢を保ち、「公」への道を探るかわりに神話の世界への内属と孤立とを選んだのだった。
厳密な学者であるはずの宣長が、なぜ荒唐無稽で国粋主義的な主張を唱えたのか。これが従来の「宣長問題」の形だった。だが、この問いの根底には、もっと重大な問いが隠されていた。なぜ宣長は、荻生徂徠のうちたてた「近世的公私観」を転倒し、「私」から「公」をつくるという課題を徹底できなかったのか。これこそが本来「宣長問題」と呼ばれるべき問いの形だろう。近世とは、経済的には近代だが政治的には中世であるという、中途半端な時代である。宣長に立ちはだかっていたのは「近世の壁」だった。この壁に挑んだ人びとこそが、大黒屋光太夫であり、高山彦九郎であり、只野真葛だったのである。

(現在はなかに入れません)
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※ ヘッダー写真:松阪城天守から本居宣長旧宅の門を臨む
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◆著者プロフィール
野口良平(のぐち・りょうへい)
1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。
〔著書〕
『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
『幕末的思考』みすず書房、2017年
『列島哲学史』みすず書房、近刊(2025年9月)
〔訳書〕
ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』 みすず書房、2019年
〔連載〕
「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!
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