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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」10   張赫宙と金史良(その10)

↑ヘッダー写真:太行山脈
撮影:Fanghong /CC 表示-継承 3.0/(トリミングして使用)

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張赫宙チャンヒョクチュ金史良キムサリャン──在日朝鮮人文学の嚆矢(その10)

10 戦時中の金史良キムサリャン


 1943年『国民文学』2月から「太白山脈」の連載を始める。『国民文学』は、朝鮮総督府肝いりで創刊された日本語文芸誌で、強制廃刊された複数の朝鮮語誌を統合し、内鮮一体思想を朝鮮に普及するための雑誌だった。しかし「太白山脈」は親日的で皇国思想を喧伝するものではなかった。金史良最後の抵抗と言えるかも知れない。

 1943年10月、ルポルタージュ「海軍行」を『毎日新報』に連載し、12月からは朝鮮語の小説「海への歌」を朝鮮語で連載した。これも海軍特別志願兵制度の実施にともなって朝鮮民衆に海軍思想を普及するための宣伝小説で、金史良にとっては屈辱で汚辱の文章を書かざるを得なかった。

 1944年4月、金史良は戦争賛美者としての作家生活を避けるべく、平壌の大同工業専門学校の教師になった。

 同年6月、日本文学報国会主催で「日本文学者総蹶起大会」が東京で行われた日、京城でも朝鮮文人報告会主催で「決戦態勢即応在鮮文学者総蹶起大会」が開催されている。李光洙をはじめ300名以上の在朝文学者が参加している。日本帝国主義の戦争遂行文人決起集会から金史良は逃げた。
 
 金史良はこの時期から8月にかけて中国旅行を行い、徐州や天津などで友人や知人を訪ねている。この頃金史良は、重慶の「大韓民国臨時政府」について懐疑的で国内の闘争を放棄して逃げた反動政府と考えていたようだ。

 この夏、国民総力朝鮮連盟による海軍見学団に召集されソウルに赴いた金史良は、京城日報記者だった金達寿に会っている。二人が会うのはこれが最後になった。
警察の監視も厳しくなり、たんにペンを折って教員をやっていれば済む状況ではなくなっていた。こうして中国の抗日地区への脱出を考えるようなっていった。

金史良の脱出

 1945年には国民総力朝鮮連盟兵士後援部より「在支朝鮮出身学徒兵慰問団」員として1ヵ月半の予定で中国へ派遣が決定される。派遣されたのは金史良と女性詩人廬天命ノチョンミョンの二人だった。
5月29日、金史良は廬天命を見送って北京から南下する列車に乗った。脱出の手引きをしたのは、朝鮮の独立運動家呂運亨ヨウニョンの指示を受けて北京に駐在した工作員李永善イヨンソンだった。道中は二人の工作員が付かず離れず同行した。

 車内で憲兵の訊問を受けるも無事にやり過ごした。また途中米軍の空爆を受けて立ち往生したりするが、なんとか順徳駅まで到着した。
順徳駅で下車してから23時間歩いて、日本軍の封鎖線を突破し、ようやく華北朝鮮独立同盟朝鮮義勇軍の前哨基地に辿り着いた。5月31日だった。
2日後には移動して、約1ヵ月かけて大行山中南床村にあった根拠地に到着した。

→ 「張赫宙と金史良」(その11)へつづく

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◆参考資料

*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。

◆著者プロフィール

林浩治(はやし・こうじ)
文芸評論家。1956年埼玉県生まれ。元新日本文学会会員。
著書に『在日朝鮮人日本語文学論』(1991年、新幹社)、『戦後非日文学論』(1997年、同)、『まにまに』(2001年、新日本文学会出版部)。『在日朝鮮人文学 反定立の文学を越えて』(新幹社、2019年11月刊)は、図書新聞などメディアでとりあげられ好評を博す。
そのほか、論文多数。
2011年より続けている「愚銀のブログ」http://kghayashi.cocolog-nifty.com/blog/は宝の蔵!

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