見出し画像

『PEACOCK/ピーコック』誰にでもなれる人間とは「誰」なのか【試写鑑賞】

7月24日(金)公開

完璧な適応が人を空洞にするとき

冒頭からプロフェッショナルな茶番です!

 主人公 マティアスは、人間関係における「正解」を知り尽くしている。時に老いた両親を安心させる立派な息子を演じ、はたまた社交場では教養ある恋人を演じる。友人や家族を時間単位で提供する「マイ・コンパニオン」のトップパフォーマーである彼は、相手がどんな表情を欲し、どの言葉を待ち、どの程度の親密さなら不快に思わないかを瞬時に読み取る。その能力はほとんど超人的だが、本作が最初に映し出すのはその才能の華やかさではなく、完璧さの奥に漂う不気味な無臭性だ。

 左右対称に近い構図と人物を整然と空間へ収める引いた画面も、彼の生活が偶然や衝動を排除して成立していることを物語っていた。そこでは椅子も花瓶も人間も場にふさわしい位置へ配置され、少しでもはみ出せば全体の調和を損なう部品のように映る。マティアスは誰に対しても滑らかで、親切で、感じがよく、決して場を乱さない。だからこそ、彼と暮らす恋人 ソフィアは目の前には確かに「彼」がいるものの、そこには「誰」もいないような孤独を味わってしまう。好きなワインを尋ねても相手に合わせ、意見を求めても角の立たない一般論へ逃げる彼は優しいというより、自分を差し出すということを徹底して避けているのだ。

 これはもはや単なる八方美人ではない。相手の期待を先回りして満たす過剰適応があまりに成功した結果、自分の欲求や不快感を感じ取る内的な回路まで細くなってしまった状態に近い。人は他者との関係の中で自分を知るが、マティアスにとって他者は鏡ではなく台本だ。鏡ならば映った姿に驚き、見たくもなかった表情にさえ出会える。ところが台本には、あらかじめ望ましい反応しか書かれていない。彼は相手の反応を手がかりに自分を調整するばかりで、自分から関係へ何かを持ち込もうとしないのだ。沈黙さえ共有する余白ではなく、すぐに埋めるべき不具合として処理されるため、彼といる人は快適でありながらもどこか息が詰まってしまう。仕事では最高の技術として評価される性質が、私生活では最も残酷な欠落として露呈してしまう。誰にでもなれる人間は自由に見えるが、実際には誰かに求められなければ輪郭をさえ保てないもの。孔雀が羽を広げるたび、その内側にいる小さな身体が見えなくなるように、彼もまた見事な人格を披露するたび、自分の声を少しずつ遠くへ追いやっていた。

親密さまで所有したがる人々

「地獄の沙汰も金次第」を具現化した世界へようこそ!

 この映画の笑いの鋭さとは、マティアスひとりを「自分を失った哀れな男」として診断して終わらず、彼を雇う側の欲望まできちんと可視化している点にある。依頼人たちは孤独を埋めたいだけではなく、自分が他人からどう見えるかを操作し、人生の見栄えを整え、社会的な価値を補強するために彼を購入しているわけだ。ここでは寂しさまで資本市場へ接続され、家族や恋人や友人という、本来は時間をかけて関係を壊したり修復したりしながら育てる存在が、必要な場面だけ呼び出せるサービスへ置き換えられている。金で買えるのは人間そのものではなく、関係が上手くいっているように見える外観なのだ。

 とりわけ可笑しいのが、富裕層の教養をめぐる演出である。クラシック音楽、美術、ワイン、洗練された会話、由緒ありげな家族の記憶。いかにも知性や感性の証明として扱われそうなものが、ここでは高級家具や仕立てのよい服と同じように所有者の格を保証する調度品として並べられる。彼らが求めているのは「作品に心を揺さぶられる経験」ではなく、「作品を知っている自分を他人に見せる機会」であり、マティアスはその虚栄に最適な額縁として雇われている。会話の内容が高度になれば人間性とは豊かに見えるはずなのに、画面に広がるのは教養を正しく配置することに必死な人々の空虚な身振りばかりである。

 だからここにおける笑いとは、文化を愛する代わりに文化を資本として利用し、自分の階級を上品に装飾する態度を小馬鹿にしているのだ。富裕層の住まいもまた美しく整えられ、余白があり、何ひとつ間違った場所に置かれていない。そこへマティアスが投入されると、彼もまた空間の品位を完成させる一点物のオブジェになる。だが、その完璧な構図は生活の豊かさより、広告写真のような冷たさを帯びていく。彼らは金で人を雇いながら、親密さまで自分の所有物だと思い込み、教養ある友人や立派な息子を、自分の人生の完成度を上げるアクセサリーとして扱う。しかも虚構が破綻しそうになると嘘を依頼した自分ではなく、役を十分に演じ切れなかった他者へ責任を転嫁する。金を払った側が現実の脚本家になれるという傲慢さまで、このサービスは満たしてしまう。

 マティアスの商品価値とは彼自身が魅力的であることではない。依頼人をいかに魅力的に見せられる点にあって、それはSNSで誰かと食事をした事実よりも、その写真の中で自分がどう映っているかが重要になる感覚とよく似ている。現代の自己演出は露骨な自慢を嫌いながら、趣味や倫理や親密な関係を通してもっと巧妙に階級を語ってくるもの。本作はその欺瞞への反論を端正な画面の中へ置いてくる。彼らが名画や音楽について流暢に話すほど、会話は深まるどころか値札の読み上げに近づいていくわけだ。上品であろうとする人々が、上品さを守ろうとすればするほど滑稽になっていく。その乾いた可笑しさには笑った自分もまた同じ仕組みの中で、読んだ本や観た映画を自分の価値の証明に使ってはいないかと問い返される棘がある。

過剰適応という優等生の病

男性同士のケアが多いのは安心して観れるのでよかった

 マティアスの崩壊を興味深く見せている所以は、彼が感情を失っているのではなく、感情を「適切に処理する能力」だけが異様に発達している点にある。人が怒れば宥め、悲しめば寄り添い、会話が途切れれば自然な質問を差し出す。相手の情動を読み取る認知的な共感性は高い。しかし、その感情がなぜ生まれ、相手にとって何を意味し、自分の内側に何を引き起こしたのかを一緒に抱える情緒的な関与は乏しい。相手の心を想像する力が欠けているのではない。むしろ想像した結果を、関係を安全に管理するためだけに用いてしまう。彼は感情を理解するというより、感情が発生した場面を処理しているのだ。

 これは接客やケア、表現の仕事に携わる人なら、多少なりとも身に覚えがある感覚だろう。相手を不快にさせない表情をつくり、必要な言葉を選び、私的な疲労や苛立ちを棚へ上げる。それ自体は社会生活に不可欠な能力であり、仮面を持つことがただちに不誠実なのではない。問題は仮面を外す場所がなくなったときに起きる。さらに厄介なのは長く続いた適応が本人の性格として定着し、仮面と素顔を区別する感覚そのものまで失われることだ。役割から降りても自分が何を望んでいるか分からない。誰かの要望がなければ、次に何をすればよいか決められない。マティアスは一人になることで解放されるのではなく、観客も演出家もいない舞台へ取り残される。

 恋人との別れ、新たな女性との出会い、犬を介した生活、精神的な浄化を思わせる試みまで、彼は「自分を取り戻せそうな行動」を次々に実践する。ところが、それすら自分探しという新しい役柄を演じているように見えてくる。ここに本作の恐ろしさがある。現代では自己理解さえ正しい習慣、魅力的な暮らし、適切なセラピー用語を身につければ達成できる商品として提示される。けれど自己とは既製品の中から最もしっくりくる人格を選ぶことではない。

 自己一致とは常に迷わないことでも、胸の奥から湧いた衝動へ無条件に従うことでもない。何を選んでも少し居心地が悪く、誰かを失望させるかもしれない場面で、それでも自分の欲望を引き受けることからしか生まれないのだろう。

 マティアスが避け続けてきたのは、失敗ではなく他者との摩擦だったのかもしれない。相手の望みと自分の望みが食い違う瞬間、人は初めて別々の存在として出会うもの。関係を壊す可能性のある「嫌だ」「分からない」「私はこうしたい」を差し出せなければ、衝突は起きない代わりに親密さも育たないのた。

 彼の礼儀正しさは他者を尊重する態度であると同時に、他者から本当には触れられないための透明な防護壁でもある。傷つけられない代わりに慰められることもない。その壁の内側で彼は安全と孤独を同じものとして抱えている。ここで見過ごしてはならないのは、彼の過剰適応が本人だけの弱さから生まれたわけではないことだろう。先回りし、空気を読み、感情を乱さず、相手が望む自分を即座に差し出せる人間を社会は「成熟している」「仕事ができる」「感じがいい」と褒め続ける。マティアスの空洞は彼個人の病理というより、その評価体系が生み出した優等生の成れの果てなのである。

主体性は不格好に始まる

孔雀がこんなにも分かりやすい鏡像としての象徴で登場

 それでも『PEACOCK/ピーコック』は、ありのままの自分を発見すればすべて解決するという素朴な物語には収まらない。「本当の自分」という言葉もまた、マティアスが演じてきた「完璧な息子」や「完璧な恋人」と同じくらい魅力的だが、曖昧な役柄になり得るからだ。

 人間には一枚の純粋な核があり、社会的な仮面を剥がせばそこへ到達できる、というほど私たちの人格は単純ではない。家族の前、仕事場、恋人との時間、一人でいる夜、それぞれの自分は少しずつ違う。その複数性は病ではなく、むしろ人が関係の中で生きるための柔軟さでもある。

 心理的な健康とはいつでも一貫した人格でいることではなく、生活の場面ごとに変化する自分同士を完全に切断せず、どれも自分の経験として繋ぎ直せることなのだろう。本作が問題にするのは人格が複数あることではなく、そのどれも本人の欲望によって選ばれていない点にある。マティアスは器用に変化しているようで、実は相手の期待へ反射的に従う以外の選択肢を持っていない。だから終盤に訪れる小さな反抗とは、急に完全な人格を獲得したという勝利ではなく、「他人の台本から一行だけ逸脱する」という試みに私には見えた。ぎこちなく、そして効率が悪く、誰かに褒められる保証もない。それでも自分の行為が関係をどう変えてしまうか分からないまま踏み出すことこそ、彼に欠けていた主体性ではないか。

 主体性とは格好の良い自己表明ではなく、選んだ結果を他人のせいにせず引き受ける、とても地味な負担なのである。アルブレヒト・シュッフの演技はこの変化を大げさな覚醒として見せなかったが、整った微笑みの奥に生じるわずかな遅れ、目の前の相手に合わせるはずの身体が一瞬だけ動きを止めることによって、借り物ではない感情が不格好に芽を出していた。

 孔雀の羽とは美しいものだが、羽を広げたところでその鳥は遠くへ行けない。見られるための自分を磨き続けたマティアスも、誰からも嫌われない場所で立ち尽くしていたのだった。飛ぶために必要なのはさらに美しい羽ではなく、無様に羽ばたき、予定していた場所へ着けないかもしれない危険を引き受けることなのだろう。

 私たちは誰も仮面を完全には捨てられない。職場では笑い、家族には心配をかけまいとし、愛する人の前でさえ少し格好をつける。だが仮面の継ぎ目から漏れる迷いや不機嫌や欲望だって、紛れもない自分自身の一部なのだ。むしろそこからしか、相手がこちらを便利な役割ではなく、予測不能な他者として知る入口は開かれないものだ。

 彼は単に自分を失った一人の男というわけではなかった。他人に都合のよい人格を「優しさ」や「成熟」、「プロ意識」と呼び、その人間が空っぽになるまで使い続ける社会人の象徴そのものなのだ。マティアスを滑稽な孔雀として眺めているだけなら、観客はまだ安全な場所にいられる。だが、彼に羽を広げさせ、もっと感じよく、もっと有能に、もっと自分を消してほしいと要求してきたのが私たち自身だと気づいた瞬間、この映画の笑いは他人事ではなくなる。

 マティアスの空洞は彼だけの失敗ではない。それは他者を人間として愛するより、期待通りに機能する人格として消費することに慣れた社会の、あまりにも整った肖像なのである。

『PEACOCK/ピーコック』【作品紹介】

 短編映画で数々の賞を獲得してきたオーストリアの新鋭ベルンハルト・ウェンガー監督が、日本の「友達代行サービス」への取材をもとに、他人の求める人物を演じ続ける男のアイデンティティーの揺らぎを描いた長編デビュー作。乾いたユーモアと端正な映像で、表層的な人間関係が広がる現代社会を風刺したブラックコメディ。

 依頼に応じて理想の息子や教養ある恋人、デート中の女性を救うチンピラまで演じる代理店「マイ・コンパニオン」。そのトップパフォーマーであるマティアスは、どんな役にも完璧になりきる一方、恋人ソフィアから「本当のあなたを感じない」と別れを告げられる。さらに、ある仕事で起きた想定外の出来事をきっかけに、現実と演技の境界を見失っていく。

 主演は「西部戦線異状なし」「システム・クラッシャー」のアルブレヒト・シュッフ。マティアスの恋人ソフィアをユリア・フランツ・リヒターが演じるほか、アントン・ノーリ、テレサ・フロスタ・エッゲスボ、サルカ・ヴィーバー、マリア・ホーフステッター、ブランコ・サマロフスキーらが共演する。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集