見出し画像

第十章 『警察学校』 第十話 現実

入校式の翌朝、全身が疲労でズキズキと痛んでいた。

「いってぇ……」

そう呟きながら制服に手を伸ばし、ふと隣に目をやる。
いつもなら隣で着替えているはずの宮間の姿がなかった。

「なぁ、輝。宮間、見なかったか?」

隣で制服のボタンを留めていた土浦輝が顔を上げた。

「朝飯の時はいたぞ。そういや教官に呼ばれて、教官室に行くって言ってた」

朝から教官室に呼び出されるなんて、何かあったのだろうか。
昨夜の宮間の様子が脳裏をよぎる。
入校式の際、親の前では笑顔を見せていたが、その後はずっと沈んでいた気がする。

時計を見ると、もう教場に向かう時間が迫っていた。
しかし、宮間は戻って来ず、寮室には緊張が走る。

「おい、もう行かないと遅刻だぞ!宮間は?あいつ、何やってんだよ!」「誰か宮間の場所、知ってるか?」

焦りと苛立ちが募る中、ようやく校内着姿の宮間が駆け足で戻ってきた。

「お前!何やってんだよ!俺らは先に行くから、施錠頼んだぞ!」

室長が鍵を手渡す。
宮間は小さく頷きながら、「おぉ……任しといて」と答えたが、その声には力がなく、どこか遠くを見ているような目をしていた。

その様子に違和感を覚えながらも、私たちは急いで教場へ向かった。

ホームルームが始まっても宮間は来なかった。
しかし、教官の前では彼を心配する余裕などなく、ただ講義に集中するしかなかった。

昼食の準備のため寮室に戻った時、異変に気づいた。
学習室にある宮間の机が、もぬけの殻になっていた。
教科書も筆記用具も、整然と並べられていた参考資料も、すべてが跡形もなく消えていた。
寝室に入ると、さらに衝撃的な光景が待っていた。
宮間のベッドが完全に空になっていた。
名札は剥がされ、ベッド下の衣装ケースも消え、そこにはもう、彼の痕跡は一切なかった。

「なぁ……宮間の荷物、全部なくなってるんだけど」

近くにいた同期に声をかけると、誰かが小さく呟いた。

「まさか……退職した?」

その言葉に、一昨日の宮間との会話が鮮明に蘇る。
「本当は消防に入りたかった」という彼の言葉。
そして今朝の遠くを見るような素振り——すべてが繋がった気がした。


教官からは何の説明もなかった。
退職の理由も、その事実すら口にされない。
まるで最初から存在しなかったかのような扱いだった。
教官の態度はいつも通りで、最初は動揺していた同期たちの空気も、やがて自然と日常に戻っていった。

私は愕然とした。
学生時代なら、転校する際には先生の説明があり、お別れの場が設けられる。
友人の旅立ちを惜しむ時間があった。
だが、ここは違う。
警察学校は、警察官としての資質がある者だけが残される過酷な選別の場。

誰かが脱落しても、残された者は前を向き続けなければならない。
振り返ることも、感傷に浸ることすら許されない。

その夜、空になった宮間のベッドを見つめながら、私は自問していた。

「本当にここで生き残れるのか?」

警察官になるための道は、生半可な覚悟では歩めない。
教官の厳格さ、規律の厳しさ。
そのすべてが、警察官としての適性を見極めるための試練だ。
途中で脱落しても、誰一人として引き止める者はいない。

それが、この場所の現実なのだと痛感した。


金曜日の終業後、廊下には先輩たちの私語と笑い声が響いていた。
彼らはスーツ姿に着替えながら週末の外出泊の準備を進めていた。
ネクタイを締めるその手元には余裕があり、冗談を言い合う笑顔からは、娑婆に戻れる喜びがにじみ出ていた。

「今日どこ行くんすか?」
「いやー、久々に寿司でも食ってくるわ」
「いいっすね〜!」

楽しげなその空気は、まるで別世界の出来事のようだった。
一方、禁足期間中の私たちには、そんな自由など微塵もなかった。

私たちは黙々とランニングウェアに着替え、整然とした隊列を組んで号令のもとグラウンドへと向かった。

「歩調とれ!」
日課当番の掛け声が響き渡る。
「一、二!一、二!――」
これは、ただのランニングではない。
心と体、そして団体行動のための訓練だった。

並走する教官が、私たちのわずかな乱れも見逃さない。

「おい!列が崩れてるぞ!バラバラになるな!」
「ただランニングしてんじゃねぇんだよ!もっと足を揃えろ!」
「おい、遅れてんの誰だよ!そんな体力で現場出れるか!」

大声を出しながらのランニングは、体力の消耗が激しく息が苦しい。
教官から告げられた周回数は、ただのジョギングの速度では到底次の日課に間に合わないノルマだった。
気を緩めれば夕食の時間、入浴時間、修養日誌を書く時間までもが削られる。

全員の歩調を完璧に揃えながら、それでいて時間内に終わらせなければならない。
しかし、同期の全員が体育会系というわけではない。
女性警察官、非体育会系の出身者もいる。

次第に追いつけない者が現れ始めた。

「ペース落ちてんぞ!何やってんだ!」
「その程度の体力で誰を守れるんだよ!」
「倒れたって誰も助けねぇぞ!這ってでも追いつけ!」

顔を真っ青にして必死に走る女性警察官にも、教官の容赦ない叱責が飛ぶ。

「やる気見せろ!こっちは遊びじゃねぇんだよ!」

ここで倒れても、誰も手を差し伸べない。
倒れたなら、起き上がるしかない。それがこの世界の現実だった。

ランニングを終え、寮に戻ると、誰もが無言だった。
汗だくのままロッカーにもたれる者、ベッドに寝転び天井を見つめる者。
ただ、深いため息だけがいくつも漏れていた。

「卒業まで……あと、二百日か……」
「マジかよ……先長すぎだろ」

誰かが呟いた言葉に、気の遠くなるような気がした。

「寮兄がさ、禁足終われば少しは楽になるって言ってたけど……」
「わかんねぇよ……。少なくとも今は、地獄だな」

点呼を終えて正門を出ていく先輩たちの背中を見送りながら、私たちはその自由が、いかに遠く厳しいものかを思い知らされていた。

#創作大賞2025 #恋愛小説部門

いいなと思ったら応援しよう!