瓦礫の上の祖国――反体制でも、亡国は望まない
「解放」は、なぜ人々を旗の下へ戻してしまうのか
「解放」という言葉は、美しい。
独裁を倒す。抑圧から人々を救う。閉ざされた社会を開く。女性の自由を守る。民主主義を取り戻す。外から見る者にとって、その言葉はしばしば、ほとんど疑いようのない正義として響く。
だが戦争が始まった瞬間、その言葉は別の音を帯びる。
空爆が都市を揺らし、制裁が生活を削り、SNS上で「革命」が待望され、国外から「独裁打倒」が叫ばれる。そのとき、体制に批判的だった人々の一部ですら、再び旗の下へ戻っていく。政権を愛しているからではない。神権政治を支持するからでもない。彼らが守ろうとするものは、政権とは別の何かだからである。
ここに、現代戦争の大きな逆説がある。
政権を倒すための戦争が、結果としてナショナリズムを強化する。独裁を弱体化させるはずの外圧が、むしろ強硬派を正当化する。解放を掲げた介入が、人々に「国を守る」という感情を呼び戻す。
この逆説を理解するためには、政権、国家、国、民衆を分けて考えなければならない。政権とは、現在の支配者である。国家とは、軍、官僚、警察、法制度、国境管理を含む統治装置である。民衆とは、その中で生活し、怒り、耐え、願う人々である。
そして「国」とは、それらのどれとも完全には一致しない。
「政権」ではなく、「国」が壊されようとしている
国とは、歴史であり、都市であり、言語であり、家族であり、墓であり、食卓であり、匂いであり、記憶である。イランであれば、それはイスラム共和国だけではない。ペルシャとしての長い文明の記憶であり、詩と市場と家族と都市の連なりであり、人々がそこに生まれ、老い、死者を埋葬してきた場所である。
だからこそ、イラン民衆の多くが神権政治に不満を持っていることと、外部からの軍事攻撃に怒ることは矛盾しない。
彼らは宗教統制に苦しんできた。女性抑圧に怒ってきた。経済停滞に疲弊してきた。制裁によって生活を削られてきた。若者は未来を奪われ、女性たちは身体と声を管理され、中間層は縮み、社会には閉塞感が積み重なった。
しかし戦争が始まると、対立軸は変化する。
それまでは、親体制か反体制かが中心だった。だが空爆が始まり、国土が破壊され、外部から体制転換が語られるようになると、問いは別の形を取る。
これは政権への反抗なのか。それとも国そのものの破壊なのか。
民衆が恐れるのは、必ずしも革命政権の崩壊そのものではない。彼らが恐れるのは、国境の分裂であり、内戦であり、民兵化であり、シリア化であり、リビア化である。政権が倒れたあとに、国が残らないことを恐れている。
この恐怖は、外から見ている者にはしばしば理解されにくい。
外部の観察者は、「独裁政権を倒せば人々は喜ぶはずだ」と考えがちである。たしかに、抑圧された民衆が自由を求めていることは事実だ。しかし人々が求めているのは、瓦礫の中の自由ではない。家族が散り、都市が壊れ、行政が崩れ、武装勢力が乱立し、生活の基盤が消えたあとに与えられる抽象的な自由ではない。
彼らが求めているのは、自由であると同時に、生活である。尊厳であると同時に、安全である。政治的解放であると同時に、国が壊れないことである。
ここを見誤ると、「解放」は暴力の別名になる。
外圧は、なぜ強硬派を育てるのか
イランをめぐる過去数十年の歴史は、この逆説を繰り返してきた。核合意、制裁解除、国際社会との再接続、中間層の形成、漸進的な開放。かつて、そうした可能性は確かに存在した。もちろん、それは理想化できるほど単純な道ではなかった。イラン体制内部には強い抑圧構造があり、改革派はつねに制限され、保守強硬派は安全保障を理由に社会統制を強めてきた。
それでも、交渉によって社会を少しずつ開く可能性はあった。
だが、合意破棄、最大圧力政策、暗殺、継続的な軍事圧力は、イラン内部の交渉派を弱体化させた。外圧が強まるほど、「西側と妥協しても裏切られる」という強硬派の物語が力を持つ。制裁が生活を痛めつけるほど、人々の怒りは体制だけでなく外部にも向かう。中間層が貧困化すれば、社会は穏健な交渉よりも、怒りと防衛の言葉に引き寄せられる。
制裁は、自由化を促すこともある。しかし同時に、安全保障国家を強化することもある。
恐怖は、しばしば自由より秩序を選ばせる。外部の圧力は、内部の改革を助けるどころか、「敵に囲まれている」という国家神話を補強する。そして強硬派は言う。
見ただろう。彼らは最初から我々を滅ぼすつもりだったのだ、と。
このとき、民衆の怒りは体制に向かい続けるとは限らない。むしろ、体制批判と国土防衛が同時に存在する複雑な心理が生まれる。政権は嫌いだ。だが、国を壊されることは許せない。この二つは矛盾しない。むしろ、戦争下ではきわめて自然な感情である。
「最後の戦争」という思想
イラン指導部が今回の戦争を「最後の戦争」と位置づけるとき、そこには勝利戦争の発想だけがあるわけではない。米国や外部勢力に、イランを攻撃することのコストを学習させるという発想がある。
火力では勝てない。しかし耐久では負けない。短期戦では不利でも、長距離走では相手を疲弊させられる。軍事的勝利ではなく、政治的・心理的コストを相手に刻み込む。そうした非対称戦の論理がある。
これは、包囲される側の国家心理でもある。
イランは長年、制裁、軍事包囲、代理戦争、国際的孤立を経験してきた。その中で形成されたのは、「自力で生き残らなければならない国家」という意識である。世界は信用できない。合意は破られる。妥協は弱さと見なされる。ならば、耐え、報復し、相手に痛みを返すしかない。
もちろん、この心理は危険である。被害者意識は、しばしば自らの暴力を見えにくくする。自分たちは攻撃されてきた。だから防衛しているだけだ。そう語る国家は、自らの抑圧や介入を正当化しやすい。
被害者記憶は、いつ覇権へ変わるのか
ここで、ロシアや中国との比較が必要になる。
ロシアは、NATOに包囲されているという感覚、祖国防衛の神話、戦略縦深の思想を政治的に利用してきた。侵略を防衛の言葉で語り、拡張を安全保障の必然として説明する。そこでは、過去の被害記憶が現在の攻撃を正当化する装置になる。
イランにも、列強介入の記憶がある。1953年のクーデター、革命以降の制裁と孤立、周辺地域での米国の軍事行動。それらは、イラン社会に深い不信を残している。
中国もまた、百年国恥、列強侵略、半植民地化の記憶を強く保持している。しかし近年の中国は、単に包囲される国家という段階にはとどまっていない。南シナ海での行動、台湾への圧力、一帯一路、海軍増強を通じて、中国は秩序を受ける側から、秩序を形成する側へ移行しつつある。
ここに、被害者記憶の危うさがある。
「我々は被害者だった」という記憶は、正当な歴史認識である場合がある。実際、列強による侵略や介入は存在した。しかしその記憶は、時として現在の拡張や抑圧を免罪する言葉へ変わる。
被害を受けた国家が、つねに正義であるとは限らない。かつて屈辱を受けた国が、力を得たときに他者を圧迫しない保証はない。被害者記憶は、解放の記憶にもなりうるが、覇権の燃料にもなりうる。
だからこそ、イランを論じるときにも、単純な善悪の配置では足りない。
イラン体制の抑圧は批判されなければならない。女性への抑圧、反体制派への弾圧、宗教的統制、地域での代理勢力支援は、免責されるべきではない。しかし同時に、外部からの空爆や体制転換論が、イラン民衆にとって「解放」として受け取られるとは限らないことも見なければならない。
「解放」は誰の言葉なのか
「解放」とは誰の言葉なのか。
アメリカは、しばしば民主化、人権、解放を掲げてきた。だがイラク、リビア、シリアの経験は、別の問いを残した。
解放のあと、国は残るのか。
独裁者が倒れたあとに、行政は機能するのか。学校は開くのか。病院は動くのか。警察は治安を守るのか。異なる宗派や民族は、武装勢力に分裂せずに共存できるのか。外部勢力は撤退するのか。それとも、別の代理戦争が始まるのか。
こうした問いに答えない「解放」は、民衆にとって希望ではなく、恐怖になりうる。
反体制派ですら、国家崩壊を前にすると「国」の側へ戻っていく。これは裏切りではない。自由への欲望が消えたわけでもない。彼らは、自由と亡国を同じものとして受け入れられないだけである。
「普通の国」になりたかっただけなのに
人々が求めていたのは、普通の国になることだったのかもしれない。
開かれた国。平和な国。繁栄する国。世界と共存できる国。若者が未来を描ける国。女性が身体を管理されずに生きられる国。外国へ逃げることだけが希望ではない国。政治的忠誠を示さなくても、普通に働き、学び、家族と暮らせる国。
それは革命国家の夢ではない。帝国の夢でもない。むしろ、普通の生活への欲望である。
だがその道は、内側からも外側からも閉ざされ続けた。体制は抑圧によって社会を閉ざし、外部は制裁と軍事圧力によって社会をさらに硬化させた。相互不信が交渉を壊し、強硬派が台頭し、民衆はそのあいだで押しつぶされる。
ここで最も見落としてはならないのは、民衆は抽象概念ではないということだ。
民衆とは、爆撃される都市に住む人である。薬の価格に苦しむ人である。娘の服装を心配し、息子の徴兵を恐れ、母の病院を探し、国外の親戚と連絡を取り、停電の夜にパンを買いに行く人である。
彼らは、政権でも国家装置でもない。しかし戦争が始まると、彼らの生活は国家の運命と強制的に結びつけられる。
瓦礫の上で、人はなお祖国を探す
だから、人々は必ずしも政府のために戦うのではない。
それでも祖国が壊れようとするとき、人は政治思想を超えて、帰属を守ろうとする。墓、都市、言葉、記憶、匂い、家族、歴史。それらは、政権よりも古く、国家装置よりも深い。
国家とは、制度だけではない。
もちろん、国家を神聖化してはならない。国家は暴力装置でもあり、しばしば民衆を抑圧する。だが「国」は、それだけではない。国とは、人間が帰属してしまう風景でもある。そこには、逃れがたい愛着がある。ときに厄介で、ときに危険で、それでも容易には切り捨てられない結びつきがある。
反体制でも、亡国は望まない。
この感情を理解できなければ、外部から語られる民主化論は、何度でも民衆を見誤るだろう。独裁を憎む人々が、なぜ空爆には怒るのか。体制を批判してきた人々が、なぜ国旗の下へ戻るのか。その答えは、彼らが自由を捨てたからではない。
彼らは、自由が瓦礫の上にだけ置かれることを拒んでいるのだ。
瓦礫の上で、人はなお祖国を探す。
それは政権への忠誠ではない。国家装置への服従でもない。自分たちの死者が眠り、子どもたちが言葉を覚え、家族が食卓を囲み、都市が記憶を宿してきた場所を、なお失いたくないという感情である。
戦争は、その感情を破壊するどころか、しばしば強く呼び覚ます。
そしてそのとき、「解放」という言葉は、瓦礫の中で問い返される。
誰が、誰を、何から解放するのか。
そのあとに、国は残るのか。
この問いに答えないまま語られる解放は、民衆に届かない。届かないどころか、彼らを再び旗の下へ押し戻す。
人は政府のためだけに祖国を守るのではない。
人は、帰る場所が失われることを恐れる。
だから瓦礫の上でさえ、人々はなお祖国を探し続ける。
参考文献
日本語文献・資料
防衛研究所『中国安全保障レポート2025』。中国の対外影響力、軍事・安全保障協力、秩序形成志向を確認するための補助資料。
同志社大学グローバル・スタディーズ研究科関連資料「リビア・シリアにおける平和執行と国連安保理」。人道的介入と国家崩壊リスクを考えるための補助資料。
日本語以外の文献・資料
European External Action Service, “Nuclear Agreement – JCPOA.” 2015年7月14日に成立したJCPOAの目的と制裁解除枠組みを確認するための一次資料。
U.S. Department of State, “Joint Comprehensive Plan of Action.” IAEAによる履行確認とJCPOA実施過程を確認するための公的資料。
The White House Archives, “President Donald J. Trump is Ending United States Participation in an Unacceptable Iran Deal,” May 8, 2018. 米国のJCPOA離脱と制裁再開方針を確認するための一次資料。
National Security Archive, “CIA Confirms Role in 1953 Iran Coup,” August 19, 2013. 1953年イラン・クーデターにおける米国関与を確認するための資料。
World Bank, “Islamic Republic of Iran Economic Monitor / Poverty-related reports.” 2010年代以降のイラン経済・貧困化傾向を確認するための統計資料。
Vali Nasr, “Why Iran Isn’t Breaking,” Bloomberg, March 13, 2026. 戦争がイラン国内のナショナリズムを強め、長期戦が米国の計算を変えうるという分析の参照資料。
DAWN MENA, “A War Launched on Assumptions That Proved Wrong: Vali Nasr on Miscalculations in the U.S.-Israel War with Iran,” 2026. 対イラン戦争における誤算、体制転換論、イラン社会の硬化を論じる参照資料。
U.S. Department of Defense, “Military and Security Developments Involving the People’s Republic of China 2025.” 中国の台湾・南シナ海を含む主権主張、軍事力増強、地域秩序形成志向を確認するための公的資料。
Council on Foreign Relations, “China in the Indo-Pacific: December 2025,” April 8, 2026. 中国の南シナ海・台湾周辺での軍事活動と外交・経済活動を確認するための資料。
UNDP, “The Impact of the Conflict in Syria,” 2025. シリア内戦後の国家機能、保健、経済、社会的影響を確認するための資料。
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