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【HUNTER×HUNTER考察】クレイジースロットから読み解くカイトの人物像

はじめに

『HUNTER×HUNTER』には数多くの魅力的な念能力が登場しますが、その中でも私が特に興味を惹かれた能力が、カイトの気狂いピエロクレイジースロットです。

「なぜカイトは、あれほど扱いづらい能力を選んだのか。」

この疑問は、長年多くの読者の間で議論されてきました。

私も長くその答えを考えてきましたが、作中の描写を読み返すうちに、一つの仮説へたどり着きました。

それは、気狂いピエロクレイジースロットは単なる武器を具現化する能力ではなく、カイトという人物の人生や価値観そのものを表現した能力なのではないか、というものです。

本記事では、その仮説をもとに考察を進めていきます。

1. 問題提起――なぜクレイジースロットは、これほど使いにくい能力なのか

まずは、カイトの念能力気狂いピエロクレイジースロットについて振り返ります。気狂いピエロクレイジースロットは、ピエロの見た目のスロットを具現化し、そのスロットを回すことで、出た数字に対応した武器を具現化する能力です。最大の特徴は、使用者であるカイト自身が武器を選べないことにあります。

カイトの能力の作中での説明

この能力については、昔から一つの疑問が語られてきました。

「なぜカイトは、こんなにも扱いづらい能力を選んだのか?」

作中でもカイト自身が、数字が決まって武器が具現化されると「ハズレか」とぼやき、さらに「全くもってうっとうしい」と不満を漏らしています。
これらの描写を見ると、気狂いピエロクレイジースロットはカイト自身の性格や戦闘スタイルに合わない、使い勝手の悪い能力としてあえて設計されたようにも見えます。
ネット上でよく目にする理由としては、気狂いピエロクレイジースロットはジンが考えた能力だから、カイトには合っていないという説です。
しかし、この解釈には違和感があります。その理由は、『HUNTER×HUNTER』における念能力には、一貫した特徴があるからです。

念能力は、その人物の性格や価値観、人生経験を極めて色濃く反映します。キルアの幼少期からの訓練による体質を応用した電気能力、クラピカの復讐心から生まれた鎖、モラウの経験と応用力を体現した煙の能力など、主要人物の能力はいずれも本人の生き方と高い整合性を持っています。

私は『HUNTER×HUNTER』という作品では、この能力と人物像の一致度は、数ある能力バトル漫画の中でも際立って高いと考えています。
だからこそ、一人だけ例外が存在するとは考えにくいのです。
もし気狂いピエロクレイジースロットが本当にカイトに合わない能力なのであれば、それは『HUNTER×HUNTER』という作品全体の能力設計とも矛盾します。

では、なぜカイトは自分自身でも不満を漏らすような武器を自由に選べない能力を持つに至ったのでしょうか。
その理由を念能力の性質、具現化系能力の特徴、そしてカイト自身の人生経験という三つの視点から仮説を立てて考察していきます。

2. 前提整理ーー念能力は人生を反映する

ここで、本記事の前提となる念能力に対する考え方を説明しておきます。私は、『HUNTER×HUNTER』における念能力とは、自由に設計できるものではなく、その人物の性格や価値観、人生経験を色濃く反映して発現するものだと考えています。もちろん、作中には能力を自ら設計しているように見える人物も存在します。

能力開発の様子が作中で描写されている人物として、最も代表的なのがクラピカです。
クラピカは、幻影旅団を捕らえるためには罪人を冥府につなぎ止める鎖が最も適していると考え、自ら鎖を能力の中核に据えました。
さらに、その能力を成立させるために、寝食を鎖と共にして具現化の修練を積み、幻影旅団以外に使えば死ぬという極めて重い誓約と制約を課しています。
また、一部の能力は絶対時間エンペラータイムによる寿命の消費という大きな代償まで支払っています。

クラピカの具現化修行の説明

この描写だけを見ると、念能力は目的に合わせて自由に設計できると考えられそうですが、私はむしろ、その逆の事を感じました。
つまり、目的に合わせた能力を実現するには、それに見合うだけの狂気とも言える修練や代償が不可欠だということです。
本人がこんな能力が欲しいと願っただけで、その能力を自由に獲得できるのであれば、これほど苛烈な修練や誓約は必要ありません。
私は、クラピカは能力を自由に作れた人物ではなく、目的に合わせて能力を極限まで磨き上げた特殊な例なのだと考えます。この考え方は作中全体の描写とも一致しています。

例えば現在連載中の王位継承編には、多くの一般的な念能力者が登場しますが、彼らの能力を見ると、戦闘だけを目的として設計されたものは決して多くありません。
職業や趣味、日常生活、価値観といった、それまで積み重ねてきた人生そのものが能力として現れているケースがほとんどです。

趣味や価値観が能力として発現した代表例

つまり、『HUNTER×HUNTER』の念能力は、「こういう能力を作ろう」という発想から生まれるというより、その人物がどのように生きてきたかが能力として形になるという側面の方が強いのです。

だからこそ、気狂いピエロクレイジースロットはジンが考えた能力だから、カイトには合っていないという説には違和感を覚えます。
もし師匠の助言だけで本人の資質や人生経験とかけ離れた能力を作れるのであれば、念能力はその人らしさを映し出すものではなく、単なる設計技術になってしまいます。
しかし、作品全体を通して描かれてきた念能力は、そのような性質ではありません。
ならば、気狂いピエロクレイジースロットもまた、カイト自身の人生や価値観を反映した能力であるはずです。
では、その人生とはどのようなものだったのでしょうか。

3. カイトの人生の仮説

気狂いピエロクレイジースロットがカイトのどのような人生を映し出した能力なのかを推測するために、私はカイトの幼少期からの経験として作中の描写からある仮説を立てました。

まず、クレイジースロットから出現する武器を見てみます。
現在までに判明しているのは、鎌、ライフル、ロッド、刀(作中でカイトが使用していた刀が能力によって具現化したものと仮定した場合)の四種類です。
気狂いピエロクレイジースロットのピエロの台詞を基にするのならば、全体では九種類の武器が存在すると考えられます。

また、少なくとも判明している武器には一つの共通点があります。
いずれも、山や森林などの自然の中で使われていても違和感のない道具であるということです。
ライフルは狩猟に用いられます。鎌は草木を刈り払い、道を切り開く道具としても使われます。ロッドは杖として利用できますし、刀も山刀や鉈のような用途を考えれば、自然の中で携行されていても不思議ではありません。

もちろん、これだけでは単なる偶然かもしれませが、私はもう一つ気になる描写があります。
第1話で、ゴンがキツネグマの縄張りへ入り込んだ際のカイトの「お前の親父はそんなことも教えてくれなかったのか!!」という発言です。

ゴンに襲いかかったキツネグマをカイトが処分した後のシーン

この台詞は、一見すると何気ない一言ですが、この表現に強い意味が込められているように感じます。
例えば、普通の動物学者であれば、「この時期のキツネグマは危険だ。」「この爪痕を見たら近付いてはいけない。」と、そのように説明すると思うのですが、カイトは、親が教えているはずだという前提で話しています。
つまり彼は、キツネグマが生息する地域では、そのような知識が親から子へ受け継がれる生活文化として存在することを知っていたのです。

これは単なる生物学の知識ではなく、その土地で暮らす人々の生活や文化まで理解していることを示しています。
ここから私は、カイトはハンターになる以前から、自然と密接に関わる環境で生活していた可能性があるのでは?と考えました。
そして、その生活の中で、多種多様な武器や道具を日常的に使っていたという仮説を立てました。

例えば、猟師という生業であれば、この人物像は非常によく当てはまります。
親子代々自然の中で暮らして、その土地の生活・文化を理解し、猟銃を扱い、藪を切り開くための鎌や鉈を使い、状況によっては棒や刃物も使い分ける。
気狂いピエロクレイジースロットの武器構成ともよく一致します。
ただし、私が主張したいのはカイトは猟師だったということではありません。
ここで重要なのは、生業ではなく人生経験として、カイトは幼い頃から自然の中で生活し、多種多様な武器や道具を、自分の手足のように扱ってきた。
その経験こそが気狂いピエロクレイジースロットの原点だったと考えています。

具現化系能力者には、その対象を極めて鮮明にイメージする能力が求められます。
クラピカも、鎖を完全に具現化するために、常に実物の鎖を携帯し、鎖の質感や重量、冷たさまで身体に染み込ませるほどの修練を積んでいました。
一方、カイトは鎌や銃、ロッドなど、複数種類の武器を具現化しています。
もし、これらすべてを念能力の修行だけで一から具現化できるようになったのだとすれば、それぞれの武器に対して同様のイメージ修練を積まなければなりません。
しかし、その先に得られるのは、特殊な能力を持たない武器そのものの具現化に過ぎません。
複数の武器を具現化するためだけに膨大な修練とメモリを割き、肝心の能力へ十分な特殊効果を付与する余裕がなくなる可能性があるのならば、それは能力設計としてあまりにも非効率です。
私は、念能力への理解が深いカイトや、特にその師であるジンが、そのような能力設計を選ぶとは考えにくいと思っています。
そのため、カイトは念能力を習得してから具現化する武器のイメージを覚えたのではなく、念能力を習得する以前から、武器を具現化するための素地をすでに身につけていたと考えました。

この考察には一つ注意すべき点があります。
作中では、カイトは幼い頃にスラム街でジンと出会い弟子になったと語られています。
つまり、カイトの人生は自然の中で育ち、そのままジンの弟子になったという単純なものではかく、もっと複雑だったはずです。

例えば、幼少期は自然の中で生活していたものの、何らかの事情でその環境を失い、スラムへ流れ着いたのかもしれません。
あるいは、ジンが自然や未知の生物を調査していた時期に、偶然カイトと出会って弟子として猟師のような生活をしていた可能性もあります。本物の狩人ハンターですね。
ジンは特定の対象だけを追うハンターではなく、世界中のあらゆる未知の事象へ関わるハンターです。
そのため、自然と深く関わる場所でカイトと出会っていたとしても、不自然ではないでしょう。

もちろん、作中では、カイトの詳細な経歴は描かれていないため、これらは推測の域を出ません
そのため、私は猟師だったと断定したいわけではなく、あくまでも、カイトという人物像を最も自然に説明できる一つの仮説として提示しています。
もし読者の皆さんの中で、猟師よりも、この人物像に近い生業や生活様式を思い付く方がいれば、ぜひコメントで教えてください。

今回の考察において、本当に重要だと考えているのは職業ではなく、カイトは幼い頃から自然の中で多種多様な武器や道具を使い、それらを自分の身体の延長として扱ってきた人物だったという仮説です。
その人生経験こそが、気狂いピエロクレイジースロットという能力の土台になっていると推察しています。

もしこの仮説が正しいのであれば、気狂いピエロクレイジースロットは単に複数の武器を具現化する能力ではなく、別の効果を得るため能力だった可能性があります。
次章では、その役割について考察していきます。

4. クレイジースロットの真の役割

ここまでの考察が正しいとすれば、気狂いピエロクレイジースロットという能力の本当の役割は何か?という疑問が生じます。
ネット上では、九種類もの武器を具現化するにはメモリの問題などで負担が大きいため、あるいは能力の効果の底上げを図るために、その代償としてランダム性という制約を設けている、という考察がよく語られていますが、違う理由があるのではないかと考えます(ただし、後者の目的は可能性として十分ありえると思います)。

前章で述べたように、カイトが幼い頃から様々な武器や道具を身体の一部のように扱ってきた人物だとすれば、それらを具現化すること自体は、すでに人生経験の延長線上にあります。
つまり、カイトは気狂いピエロクレイジースロットがなくても、複数の武器を具現化できた可能性があります。
その根拠として、クラピカの修行描写に注目しました。

クラピカは鎖を具現化するため、鎖を常に身に付け、触れ、観察し続けていました。
作中では、その結果として、目を閉じても鎖の質感や重さを鮮明に再現できるようになり、やがて幻覚を見るほどになったと描写されています。
私はこの描写は、具現化修行とは、現実と区別がつかないほど鮮明なイメージを再現する修行である、という事を示していると思います。

実は、このような感覚は現実にも存在します。
例えば、プロゴルファーはクラブを持っていなくても、自分のクラブを握った時の重さやグリップの感触を鮮明に思い浮かべることができますし、野球選手も、バットを振っていなくても、手の中にバットがあるような感覚を再現できます。
また、大工や職人など、毎日同じ道具を使う仕事をしている人の中は、仕事を終えて道具を置いた後もしばらくは、手の中にその道具が残っているような感覚を覚えます。

さらに、これは特別な職業だけの話ではなく、誰でも重い荷物を長時間持った後には、荷物を下ろしてもしばらく手に重さが残っているような感覚を覚えたり、スマートフォンを長時間持った後に、手の中にまだスマートフォンがあるような錯覚を覚えたりした経験があると思います。
具現化系能力の修行とは、この身体感覚を極限まで高める訓練なのだと思います。
つまり、実物を見なくても、その質感や重さ、手触りを完全に再現できる状態まで感覚を研ぎ澄ませることで、初めて具現化が可能になるという事です。

もしこの仮説が正しく、カイトの経歴が第3章で私が推測した様なものなのであれば、カイトは念能力を覚える以前から、複数の武器に対して前述の感覚・状態へ到達しており、複数の武器を具現化すること自体は、それほど大きな問題ではなかった可能性があります。
ならば、クレイジースロットは何のために存在するのでしょうか。
ここで、私は、この能力の役割は具現化系能力そのものが抱える弱点を補うための補助システムだと考えました。

ここで重要になるのが、ヒソカがカストロ戦で語った内容です。ヒソカは、人間のような複雑なものを具現化・操作する能力について、高い集中力が必要という趣旨の説明をしています。

ヒソカがカストロをネギトロにしつつ分身(ダブル)の問題を解説するシーン

これはカストロの敗因として語られていますが、私は同時に、具現化系能力全般が抱える弱点も示している描写だと考えています。
具現化系能力者は、戦闘中に敵へ注意を払つだけではなく、具現化した道具を維持するために集中し続けなければなりません。
つまり、戦闘中も能力そのものへ一定の意識を割き続ける必要があります。
さらにカイトは九種類もの武器を扱います。
もし自由に武器を選べたとしたら、「今回は鎌か。いや、ライフルの方がいい。ロッドの方が適しているかもしれない。」、そうした判断を毎回行わなければなりません。
戦闘中に敵に意識を向ける、集中して武器を維持する、さらに武器を選ぶ、この三つを同時に処理することになります。
これは、一瞬の判断が生死を分ける戦闘では決して小さな負担ではありません。

そこで意味を持つのが気狂いピエロクレイジースロットです。
ルーレットによって武器が強制的に決定されることで、何を具現化するかという判断そのものが不要になります。
カイトは、出た武器を受け入れ、それを具現化することだけに集中すればよくなるのです。
さらに、一度出した武器を交換できないという仕様にも同じ意味があります。
途中で武器を交換できてしまえば、別の武器の方がよかったのではないかという判断が再び生まれます。
しかし交換できないのであれば、迷いそのものが消え、与えられた武器を最後まで使い切る、ただ、それだけになります。
つまり、ランダム性も武器固定も、単なる使いづらさではなく、複数の武器種を具現化して取り扱うことで生じる判断の負荷を能力そのものへ肩代わりさせ、戦闘中にカイトが敵だけへ集中するための仕組みだったという事です。

これらの点から、私は、気狂いピエロクレイジースロットとは単に複数種類の武器を具現化する能力ではなく、複数の武器種を扱う際に生じる具現化系能力の弱点を補うための補助システムだと考えました。

また、ここで興味深いのは、カイトが自分の長所だけでなく、その長所が状況によっては弱点にもなり得ることまで理解していた点です。
私の考察では、カイトは幼い頃から様々な武器を自在に扱えることが最大の強みでしたが、具現化系能力者として戦う場合、その強みはどの武器を選ぶかという判断を増やし、かえって戦闘の隙になり得ます。
カイトは、その弱点から目を背けず、複数の武器自在に具現化可能という自分の長所(多分)を欠点として認めて、気狂いピエロクレイジースロットという能力を設計しました。
この能力設計からも、カイトが自分の長所だけでなく弱点まで正しく受け入れ、それを自身の能力として昇華できるほど精神的に成熟した人物である事が伺えます。

5. 良い目・ハズレの解釈

第3章では、カイトは幼い頃から自然の中で様々な武器や道具を扱いながら生きてきた人物ではないか、という仮説を提示しました。
もちろん、これは作中で明言された設定ではありません。
しかし、少なくともカイトは自然の中で多種多様な武器を自在に扱えるだけの経験を積み、その経験が気狂いピエロクレイジースロットという能力へ反映されている可能性は高いと考えています。

もしそうであれば、自然の中では必要な道具を自由に選び直すことはできません。
その場にある道具だけで危機を乗り越えなければならない。
今ある道具をどう使うかこそが、生き残るための発想になります。
この人生観が気狂いピエロクレイジースロット全体の設計思想になっていることも考えられます。
そして、この前提に立つと、長年議論されてきた気狂いピエロクレイジースロットの良い目とハズレという台詞にも、新しい意味が見えてきます。

作中、複数のキメラアントの兵隊長を一掃するため、カイトが能力を使用して2番の鎌が具現化された際に、カイトは「2か・・・ハズレだ」とぼやき、気狂いピエロクレイジースロットのピエロは「何が出てもありがたく使え!」と返答しました。
普通に考えれば、この二人は正反対のことを言っていますが、私は、この二つはどちらもカイト自身の本心なのではないかと考えました。

ここで注目したいのが、『HUNTER×HUNTER』という作品における念能力の描かれ方です。
念能力は単なる超能力ではなく、能力そのものに、能力者の性格や価値観、無意識までもが反映される描写が数多く存在します。

例えば、ゴンのジャジャン拳は、ゴンらしい単純さと真っ直ぐさをそのまま形にした能力です。クラピカの鎖は復讐への執着そのものです。ヒソカのバンジーガムも、ヒソカの戦闘観をそのまま表現しています。
つまり、念能力とは人格の延長線上にある存在なのです。
そう考えると、自律して会話する気狂いピエロクレイジースロットもまた、単なるマスコットではなく、カイト自身の心の一部が人格として具現化した存在だと考えることもできます。

もしそうならば、どんな武器でもありがたく使えという気狂いピエロクレイジースロットの姿勢も、ハズレというカイトの言葉も、どちらもカイト自身の内面から生まれた本音になります。

一見すると矛盾しているようですが、実際には役割が違います。
気狂いピエロクレイジースロットが表しているのは、カイトがプロハンターとして培ってきた哲学です。
武器に当たり外れはない、与えられた道具を最大限に使いこなす、最後に結果を決めるのは武器ではなく、自分自身であるというプロハンターとしてのカイトの信念・哲学です。
一方で、ハズレという言葉は、戦闘へ入る直前のカイト自身のセルフトークであると考えられます。

現実でも、一流のスポーツ選手には試合前のルーティーンがあります。
ゴルファーは毎回同じ素振りを行い、野球選手は打席で決まった動作を繰り返し、武道家は試合前に一定の所作を行います。
これは精神状態を最高まで高めるためのスイッチです。
敢えて私たちにとって理解しやすいような状況を考えるとしたら、学校のテスト直前に「全然勉強やってないわ〜」と言うような感じではないでしょうか。

私は、カイトにとってハズレという言葉も同じルーティーンの役割だったのではないかと考えています。
「今回は条件が悪い、だからこそ、それを覆さなければならない。」そう自分へ言い聞かせることで、自らを極限まで集中させるためです。
つまり、ピエロは「どんな武器でも使いこなせ。」と言い、カイトは「今回は不利な条件だ。」と自分を追い込みます。
この二つは矛盾しているのではなく、どちらも最終的には、自分自身で状況を打開するという同じ結論へ向かっているのです。

だから私は、「良い目」と「ハズレ」は対立する考え方ではなく、一人の人間の中に存在する二つの思考なのだと考えています。
この解釈に立つと、ネフェルピトー戦でカイトがハズレと言わなかった理由も自然に説明できます。

あの戦闘では、気狂いピエロクレイジースロットが武器を出したにもかかわらず、カイトは普段のような台詞を口にしていません。
私は、そこにも意味があると思っています。
ピトーと対峙した瞬間、カイトは相手が自分を遥かに上回る存在であることを即座に理解しました。
通常であれば、自らを極限まで集中させるためのルーティーンを行う余裕が、あの場面ではありませんでした。
最初から極限の状態に入っていたということです。
精神を切り替えるためのセルフトークを挟む余裕もないほど、カイトは一瞬で命を懸けた戦闘へ入っていました。
だからこそ、普段なら口にするはずのハズレという言葉が描かれなかったのだと考えます。

さらに、この考え方は気狂いピエロクレイジースロットの、一度出した武器は、使用するまで交換できないという、もう一つの制約にもつながります。
普通に考えると、扱いづらい制約と考えられていますが、むしろ、この仕様は武器が悪かったという言い訳を能力そのものが許さないために存在するのだと思います。
武器に当たり外れはなく、与えられた武器で最後まで戦う、結果を決めるのは武器ではなく、自分自身である。
これは、自然の中で限られた道具だけを使って生き抜いてきた人間の価値観とも一致します。

現実でも、一流の人間は道具のせいにしません。
限られた道具で結果を出すことこそが、本当のプロフェッショナルだからです。
カイトもまた、そのような人物だったのだと思います。
どんな武器を引いても、それを最大限に使いこなし、必ず状況を打開する。
当たりの武器を待つのではなく、どんな武器でも当たりに変えてみせる、気狂いピエロクレイジースロットの制約とは、その覚悟を能力という形で表現したものなのでしょう。

6. ジンの発言との整合性

ここまでの考察に対して、おそらく最も大きな反論となるのが、ジンの発言です。
作中でジンは、気狂いピエロクレイジースロットについて俺が考えてカイトに教えた能力と受け取れる趣旨の発言をしています。

ジンがカイトに念能力を教えたとゴンに伝えるシーン

この台詞をそのまま受け取れば、気狂いピエロクレイジースロットはカイトではなくジンが設計した能力ということになります。
しかし、私はこの解釈には違和感があります。

なぜなら、ここまでの考察で立ててきた仮説が正しいと考えたら場合、気狂いピエロクレイジースロットという能力は、あまりにもカイトという人物の内面と深く結び付いているからです。
武器をランダムに決定すること、一度出した武器を使い切るまで交換できないこと、どんな武器でも使いこなすという思想、そして、武器ではなく自分自身を信じるという哲学、これらは単なる能力の仕様ではありません。

もし私の考察が正しいのであれば、それらはすべてカイトの人生経験や価値観が形になったものです。
そう考えると、ジンが能力を作ったという解釈は、念能力というシステムそのものとも少し噛み合わなくなります。

第2章でも述べたように、通常、念能力は好きな能力を自由に設計できるものではありません。
もちろん能力の方向性を考えたり、目的に合わせて修練したりすることはできます。
しかし、その能力は最終的に本人の性格や価値観、人生経験を反映したものになります。
クラピカも幻影旅団を捕らえるという目的から鎖の能力を構築しましたが、それを実現するためには膨大な修練を積み、さらに旅団以外に使えば死ぬという誓約や、寿命を代償とする絶大なコストを受け入れなければなりませんでした。
目的を決めれば自由に能力が手に入るわけではないのです。
だからこそ、私はジンがカイトへ与えたのは、能力そのものではなく、能力設計の考え方だったのではないかと考えています。

例えば、「お前は様々な武器を具現化できるんだから、それを活かせる能力を考えてみろ。」、あるいは、「複数の武器を具現化するなら、戦闘中の判断そのものを能力へ組み込んだ方が強い。」、そのような設計思想を与えたのではないでしょうか。
そして、その助言をもとに、カイト自身が自分の人生経験や価値観を反映させながら完成させた能力が気狂いピエロクレイジースロットだったと考えられます。

また、仮にジンが具体的に助言したとするのならば、能力のコンセプト以外に具現化する武器と数字などとのイメージ付けを決めさせることはしたのではないかとおもいます。
気狂いピエロクレイジースロットでは数字ごとに武器が固定されています。
2なら鎌、4ならライフル、というように、数字と武器が一対一で対応しています。
これは単なる演出ではなく、具現化の速度と精度を高めるための訓練方法だった可能性があります。

人間は反復によって条件反射を身に付けることができます。
いわゆるパブロフの犬と同じように、「2」という数字を見た瞬間に鎌の感覚が自然と立ち上がるまで訓練を繰り返せば、この数字はどの武器だったかと考える時間すら必要なくなります。
つまり、数字を見ることが、そのまま武器を具現化するスイッチになるわけです。
これは、第4章で述べた具現化する武器の判断を能力へ委ねるという考え方とも一致します。

戦闘中の具現化系能力者にとって最も重要なのは、対象のイメージをいかに素早く、正確に再現できるかだと考えられます。
そのための訓練方法や発想をジンが助言したと考えれば、彼が「能力を考えて教えた」と表現したことにも違和感はありません。
つまり、ジンが与えたのは完成品ではなく、能力を組み立てるための設計思想と、それを実戦で最大限機能させるための考え方です。
そして、カイトはそれを土台として、自らの人生、経験、哲学を織り込みながら能力を完成させたのだと思います。

私は、この解釈が最も『HUNTER×HUNTER』という作品らしいと考えています。
ジンは、ゴンに対しても答えを与える人物ではありません。目的地へ導くことはあっても、答えそのものは本人に見つけさせる人物として描かれています。

ゴンではないが、ジンがチードルにパリストンの目的について自分で考えろと返答するシーン

であれば、カイトに対しても同じような教育をしていたとしても不思議ではありません。
能力を教えたのではなく、能力の作り方を教えて、その結果として生まれたのが気狂いピエロクレイジースロットだったのだと思います。

7. 気狂いピエロクレイジースロットの隠された能力とカイトという人物について

ここまで私は、気狂いピエロクレイジースロットとは単に武器をランダムに出す能力ではなく、カイトという人物の人生観や哲学そのものが形になった能力であると仮説を立てて考察してきました。
そう考えると、最後にどうしても考えなければならない謎があります。それは、ジンが語った、「ゼッテー死んでたまるか」とカイトが本気で思わないと出ない番号がある、という言葉です。

ジンがカイトが生きている理由について説明するシーン

この番号とその能力については、『隠された0番が存在し、それが転生能力だった』という説が今のところ最も有力視されているように思われます。
実際、カイトはネフェルピトーとの戦いで命を落とした後、キメラアントの少女として転生しました。
この事実だけを見ると、転生能力が気狂いピエロクレイジースロットの隠された能力だったと言うことも可能ですが、この能力をそのまま転生能力と解釈することには違和感があります。

ここまで考察してきたカイトは、どんな武器でも使いこなす、武器ではなく使い手が重要だと考える、与えられた状況の中で最善を尽くす、そんな極めてプロフェッショナルな人物でした。
そのような人物が、本当にピンチの時には、最後だけ最強の能力で助かる、あるいは負けても転生できるという能力を、本当の切り札として用意するでしょうか。私は少し考えにくいと思います。
カイトは最後まで、自分自身の技術と経験だけで状況を切り抜けようとする人物です。
その人物像と、最後だけ救済される能力はどうしても一致しません。

では、この能力は何を表しているのでしょうか。
ここでも、カイトの人生経験が能力へ反映されていると考えられます。
もしこれまで考察してきたように、カイトが幼い頃から自然の中で多くの武器や道具を扱いながら生きてきた人物だったとすれば、人間にはどうにもならない状況を何度も経験してきたはずです。
武器も使い切った、知恵も使い切った、体力も限界まで使い果たした、それでも生きようと足掻いた。
そんな時、偶然雨が降ったり、川の近くにたどり着いて助かる、偶然崖が崩れて、襲ってきた獣が巻き込まれて助かる、偶然助けが現れる。

自然とは理不尽な存在です。
人間の努力だけでは決して支配できません。
しかし同時に、理由もなく人間へ味方することもあります。
カイトはその両方を知っていた人物だったのではないかと思います。
だからこそ、ゼッテー死んでたまるかという極限の状況で発動する能力とは、最後に大自然がほんの少しだけ味方をしてくれるような能力ではないかと考えます。
転生は、その結果の一つに過ぎません。
恐らく、別の状況なら、救援が現れたのかもしれませんし、敵が偶然ミスをしたのかもしれません。
重要なのは、最後に運命が少しだけ味方する能力であるということです。

また、この考え方は、念能力のルールとも矛盾しません。
ここで重要なのは、絶対に死んでたまるかと強く思うこと自体は精神的には極限状態ですが、能力の制約としては決して重いものではないという点です。
『HUNTER×HUNTER』では、強力な能力ほど、それに見合う大きな代償や制約を必要とします。

例えば、GI編でアベンガネは、ゲンスルーの命の音カウントダウンを除念するために、自らの身体へ巨大な念獣を背負い続けるという代償を負いました。
また、カミーラの百万回生きた猫ネコノナマエによる蘇生能力は、自分自身が一度死亡しなければ発動しません。
どちらも、死という運命を回避するための極めて重い誓約と制約を課しています。
それと比べると、絶対に死んでたまるかと思うという条件だけで、確実に死を回避できる能力が成立するとは考えにくいでしょう。
だから、この能力は必ず死を回避する能力ではなく、死を回避できる可能性をほんの少しだけ高める能力だったのではないかと考えます。

そのため、能力が発動した時の結果は、ある時は偶然助かる、ある時は敵にアクシデントが起こるという形で毎回異なります。
ピトー戦では、それがたまたま転生という形になったのだと思います。
その程度の能力だったなら、制約との釣り合いも取れているように思えます。

もっとも、私はこの能力の答えそのものが重要なのではないと思っています。
転生能力だったのか、偶然だったのか、それ以外の何かだったのか、最後まで作中では明言されません。
私は、この答えを描かなかったことこそが、『HUNTER×HUNTER』という作品の凄さだと思っています。

もしこれは転生能力ですと断定してしまえば、この議論はそこで終わってしまいます。
しかし冨樫先生は、あえて余白を残しました。
だからこそ二十年近く経った今でも、多くの読者が様々な考察を語り続けています。
作品を読み終えた後もなお、作品が読者の中で生き続ける。
私は、この余白を設計する力こそが、冨樫義博先生の卓越した物語づくりなのだと思います。

最後に、もう一つだけ触れておきたい場面があります。
それは、カイトがネフェルピトーと対峙し、ゴンとキルアがその場を離れた後、モラウ、ノヴ、ネテロの三人と合流する場面です。
そこでモラウは、キルアに対して、「念使いは、たとえ相手が自分より遥かに格上でも、100%勝つという気概で戦う(長いので意訳)。」という趣旨の言葉を語ります。

ピトーに対してネテロ達でも勝ち目が見えないと言うキルアに対してモラウが念使いの気概を語るシーン

私は、このモラウの台詞にはキルアへの激励の言葉として以外の、もう一つ重要な役割があったと考えています。
それは、冨樫先生がモラウというキャラクターを通して、読者へ向けて「カイトは間違いなく一流の念能力者であり、一流のプロハンターだった」と伝えるためのフォローだったという事です。

実際、このシーンが載った話の最後に描かれるのは、カイトの敗北です。
初めて読んだ当時の私は、思っていたほどカイトは強くなかったのだなという印象を抱いてしまいました。
しかし、作品全体を読み返した今では、まったく逆の意味だったのではないかと思っています。
モラウが語る念使いの気概では、一流とは必ず勝つ者のことではありません。
どれほど実力差があろうと、最後まで勝つことを諦めず、自らの持てる力を尽くして戦い抜く者、それこそが一流の念能力者であり、プロハンターなのです。

そして、ここまでの人物像の推測から、カイトはまさにそのような人物でした。
それでもなお敗れてしまいましたが、それは、カイトが弱かったからではありません。
ゴンとキルアを守るために片腕を失っていたこと、ネフェルピトーという未知の存在と遭遇したこと、そして運や状況までも含めた様々な要素が重なった結果として、大自然の猛獣とも言えるキメラアントに敗北しただけに過ぎないのです。
つまり冨樫先生は、モラウに一流とは何かを語らせることで、「ポッと出のキャラ(ピトー)にカイトは敗北してしまったけど、それでもカイトは一流だったんだよ。」という事実を、読者へ伝えたかったのではないかと思います。

さらに私は、この演出にはもう一つの意味があったと考えています。
それは、これから始まるキメラアント編全体の危険性を読者へ印象付けることです。
一流の念能力者であり、一流のプロハンターですら、油断や不運、ほんの僅かな状況の違いによって命を落とす。
これからゴンとキルアが立ち向かうキメラアントという敵とは、それほどまでに理不尽で、圧倒的で、自然災害にも等しい存在なのだと。
モラウの台詞からカイトの敗北へと続く一連の流れは、一流ですら運が悪ければ敗れる世界へ、これからゴンたちは足を踏み入れる。
その事実を読者へ静かに突き付ける、キメラアント編の序章として極めて完成度の高い演出だったのだと考えられます。

あとがき

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回の考察は、作中で明言されていない部分も多く含まれているため、あくまで私なりの一つの解釈です。

ただ、私は『HUNTER×HUNTER』の念能力は、その人物の人生や価値観を映し出すものだと考えています。
その視点から改めて気狂いピエロクレイジースロットを見直すと、単なる使いづらい能力ではなく、カイトという人物そのものを表現した能力として見えてきました。

もし皆さんが、この考察を読んで「こんな見方もあるのか」と感じたり、別の解釈を思いついたりしたのであれば、これ以上嬉しいことはありません。
「ここは違うのでは?」「私はこう考えた」という意見があれば、ぜひコメントで教えてください。

『HUNTER×HUNTER』という作品は、答えをすべて語らないからこそ、何年経っても議論を楽しめる作品だと思っています。
この記事も、その議論のきっかけの一つになれば幸いです。

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