私自身の被災体験(阪神・淡路大震災と東日本大震災)
地震や火事、洪水などの災害によって家が壊れたり、避難所で生活したりなど、一般的にイメージされる直接の被災者に私はなったことはありません。
ただ、二度の大震災をその地域の近くで体験しました。
記憶を呼び覚ましながら、当時のことをメモがてら書き出します。
阪神・淡路大震災
1995年1月17日の明け方。
当時10歳だった私は大阪府の実家で寝ていました。
両親と兄弟と並んで布団に横になっていましたが、突然部屋がガタガタと揺れました。何が起こったのか分かりません。父親が私たちに覆いかぶさってきたことは覚えていますが、両親や兄弟が何かを言っていたのか、言っていないのか、覚えていません。
私の地域は震度4だったそうです。
今震度4の地震が発生しても、なんだその程度かと思ってしまいますが、大きな地震を経験したことのない私にとっては、ものすごく大きな揺れだったと記憶しています。もしかしたら両親にとってもそうだったんじゃないかなぁ。
夜が明けたその日はいつも通り小学校に登校したはずで、教室の天井が一部ズレていたことを覚えています。
両親があまりテレビを見せないようにしていたのか、その時期のニュースなどの記憶はあまりありません。ただ、高速道路が横倒しになっている景色はテレビ越しに覚えています。
そこまで鮮明な記憶が無いのは、小学5年生で小さかったからか、それとも被害を受けなかったからか。
自分事ではなく興味がなかったのかも。
成長するにつれ、メディアから入ってくる情報の方が印象が大きな地震です。
東日本大震災
2011年3月11日の午後。
都内の職場で仕事をしていたら、揺れ始めました。
椅子に座ったまま動けず、机の下にすら隠れることができません。机の下に隠れたのは数名ほど。みんな、うぉーと言いながら机にしがみつきました。
揺れが落ち着き、すぐに応接室のテレビをつけると、どの局も地震放送に切り替わっていました。
都内の震度は5弱。
凄く揺れたね!とそこらで騒いでいましたが、そうこうするうちに、津波の映像が。
テレビの画面の中、始めは急激ではありませんでした。
じわじわと内陸に迫る津波。
そのうちに船が傾き、車が浮き始めました。そこからはあっという間です。私はテレビのリモコンを握りしめ、同僚ともども言葉を発せませんでした。
そして、原発事故の知らせ。
都内の電車も止まり、歩いて帰宅できる人たちは家を目指しましたが、私は自宅が離れていたので会社に留まり、帰宅困難者(当時まだ名前や定義すらなかった)となりました。
実家の親にもメールをしましたが、当時の安否確認や連絡はX(旧twitter)が役に立ちました。
近くのコンビニで残っていた食料を買い、余震が続く中、何人かと応接室のソファーで夜を過ごしました。
通電していたのは何よりです。
布団が無くても暖房をつければ暖かい。寝るときに電気は消しましたが、テレビは夜通しつけっぱなしにしました。
翌日の昼頃、すし詰めの電車に乗って、数時間かけ自宅に帰りました。
その後も会社のサーバが止まったり、計画停電や物流の停滞などあり、普段通りの生活が戻るまでは時間がかかりました。
まとめ
こう書いてみると、直接的ではありませんが、私も間接的には被災者なのだと今なら分かります。
特に東日本大震災の際は帰宅困難者という被災者の一部でした。
ただ単に困っただけじゃないかと思う方もいると思います。
ですが、この困った人を減らすことが、助けを求める他の人の命を救うことになるかもしれません。
災害、特に地震はいつ起こるか分かりません。
その時に向け、まずは自分や周りの人が困らないような対策をしていきましょう。
