長編連載小説 先祖からの感謝状(その1~2)
大学一年生の井上颯太は、婚約者で今は正式な恋人の白河明日香と、自分の記憶に残っている奇妙な記憶や違和感の正体を確かめたいと相談を持ち掛けている。幼馴染の二人だが、やがて幾つかの体験を経ながら互いの出会いを捉え直し、新たな角度でこれを考えるようになって行く。
1
「俺さあ、今でも時たま頭がへんになったのかなあって思う事があってさ。それが俺の記憶なんだよ、記憶がさあどっかこう、変なんだ・・」
井上颯太は家族にさえも言った事が無い、自分でも、ただのおかしな記憶だとしか言えない話を、恋人の白河明日香にだけは話して見ようと思えた。
颯太と明日香は、いまでこそお互いが納得し合える恋人同士だが、それ以前に幼馴染でもあり、幼稚園から今二人が通っている大学まで、ずっと一緒だ。
二人は意図せずして、何故かそうなった。
この結果には、自動的にそうなるべくしてその約束が果たされたのだ、と言う、予定されていた事が当たり前に進んだ感がしているのだ。
ずっと以前から、この結果が決められていた・・。これは確信的なものでこそ無いにせよ、二人ともにこう思っている事は事実なのだ。だから、明日香にだったらこれについて話をしても、直観的に分かってもらえると言う気がして、自動的に颯太の口がこれを話し始めていたと言う感じだ。
「話し半分って思ってくれても良いんだけどさ、俺には変な記憶があって、こないだまで、自分の前世は女の子だったって思っていたんだ。明日香と一緒にいる時には男だけど、俺一人になると、俺は俺では無くなっちゃって、その前世の記憶の誰か・・」
ここで一息入れて、颯太は更に説明を続けた。
「誰なのかは分からないんだけど、とにかくその前世の女の子だって言う気になってさ、それで高校に入っても人前で俺は、俺って言う言葉を使えなかったんだ。明日香なら覚えてるだろ?」
明日香がそこに、相い槌を打つと颯太はまた続けてこう言った。
「自分を俺って言うと何だか恥ずかしくってさ・・、そう言うのが。
だから、明日香の前でも俺、自分を僕って言ってたろ?初めて俺って言えたのは、明日香にそう言ってみた時なんだ。あの時、明日香がそれを自然に受け止めてくれたお陰で、俺もだんだん恥ずかしくなくなって・・。
明日香、覚えてるよね?俺がそういう奴だったと言う事を・・」
颯太はここでようやく説明に区切りを付けた。それに対して、明日香が答えて言う。
「覚えてると言うよりも、今だって現在進行形よ。言われなくっちゃあ分からなかったぐらいだよ、颯太のそう言うところ・・。だって一昨年あたりからじゃない、颯太が初めてあたしに、俺はって言ってくれたのは・・」
明日香がそれをちゃんと覚えていてくれたことが颯太には、意外の感もあったが、同時に颯太を安心させてもくれた。
「そうだよね、そうか、やっぱり覚えててくれたんだ?で、あの時、らしくない、って思わなかった?」
「ううん、別に思わなかったわ。だって颯太も男の子なんだもの、俺がって言っても当たり前だし。僕はって言ってる颯太も好きだし。今でもたまに颯太は僕って言うし。あたしはどちらの颯太も颯太だなって自然におもうよ」
明日香はごく当たり前にこう言ってくれた。それが明日香への信頼にも繋がり、颯太は話の核心部分をこう切り出した。
「本当はまだ僕と言う方が、自分としてはまだ言いやすいんだ、俺って言うのは自分ではまだぎこちが無い気がして・・。そ・それでさ、明日香。俺には自分が前世で女の子だったという記憶があって、それもどうして自分が男の子の服を着ているのか?とっても不思議だったんだ・・。」
颯太はまたここで話しを句切り、遠くを見る様な眼をして記憶を辿った。
「俺さあ、子供の頃に、あたしは女の子なのにって、両親の前で怒って見せたりしたけどさ、あの時は両親もあっけにとられたって言うかさ、不思議そうに俺を見てたよ。どうしてあたし、男の子の服を着てるの?あたしは女の子なのに!って、言って俺が激しく怒ったもんで・・」
「ふうん。それで颯太?その記憶っていつごろからあったの、その自分が女の子だったんだって言う記憶・・」
明日香は、まだ少し要領を得ない、と言う感じで念を押すように尋ねた。
「意識が芽生えた時にはすでにそうだった。それを思い出していたんだ。
だから自分が不思議だったんよ。三つの時には自分が女の子なんだとか、だったんだ、って言う強い記憶が残ってて、それで俺、なかなか人前では俺って言う言葉を使えなかったのさ。恥ずかしさが先に立って」
「じゃあ颯太、その記憶のせいで、ずいぶん苦しんだわけね?」
「うん。苦しんだって言うか、恥ずかしいし・・、男の子として振る舞う事がさ。今でこそ、それは記憶に過ぎないものになっているけど・・高校の二年生ぐらいまでかなあ?あの頃はまだ、かなり抵抗があったよ。でもそれを隠してたんだ。でも今、俺には明日香と言う恋人がいるし・・」
「あたしも予定説って言うのかなあ?運命が予め決まってて、あたしたちの運命も、それなんじゃあ無いのかなって時々思う事があるわ。颯太とはこうしてずっと一緒に生きていける、生きていくように予定が立てられてるのよ。あたしも颯太との事はずうっとそんな気がして仕方が無いの」
「明日香もそうだったんだ?俺もなんだか二人の事を振り返ると、意識しないでずっといままでお互いにそばにいて、いつも肝心な時にはその思い出を一緒に抱いたり味わったりしたもんなあ。予定説、か・・。そうなら、良いな。俺たちの生涯を、神様はどう予定してくれているのかわからないけど・・」
こう言いながら、颯太の眼がすでに遠くを見ていた。陽の光が次第に赤みを帯びて、少し風が冷たい。
「きっと、今までよりも信頼し合えるようにって。だって、今もそうじゃない?颯太がそんなに大事な記憶の事を、あたしに話してくれる気持ちになってくれて、あたしもますます颯太が信頼できるよ!前世の記憶で颯太が女の子だったなんて、そこまで詳しく話してもらえて嬉しい!」
明日香は今の話を極く素直に受け止めて、そんな言い難い事を自分にだけ話してくれた颯太の事がもっと好きになった。
可愛い明日香が颯太の腕に縋り「ねえ、中へ入ろうよ、夕日はきれいだけど寒いわ。何かあったかいものを食べにいきたいな」と、甘えるように言った。
二人は学食の三人掛けの丸いテーブルに掛けて、温かなビーフシチューを食べながら、尚さっきの前世に関する話を続けていた。
「じゃあ颯太、過去の人生の記憶が、その女の子のものだけじゃあなく他にもあるの?」
「うん。だからおれ江戸時代か、その少しあとにも生きていた気がするんだ。その時は男だったってわかるんだ。だから倫理なんてさあ俺、いっぺんだって自分では勉強しなくとも自然、それを記憶してるし、すらすらっと出て来るんだよね。なんだかすごく不思議な感じがするんだ・・」
「そう言えば颯太って、そんなとこあるよね。何だか予言みたいに言うし。それが当たったりしたよね」
「ああ、あの明日香が危ない目に遭う所だった時か・・。あの時はそれが何かが、はっきりとは分からなかったんだ。でもほら、俺の心の中の、ビジョンみたいなものに、突然出て来た人の話をしているうちに、だんだんその俺のビジョンに出て来てた人が、明日香の早くに亡くなったお爺さんで、明日香が大きな怪我をするから護ってくれと言う意味なんだって、二人で考えて行ったらそれが分かったんだったよね!」
颯太がその二年前の思い出を、ついこの間の事にように言った。
「そうそう!あの時はほんとうに、予言そのものだったわ。だって、颯太が言う、その心に映じたビジョンについて順番に考えて行ったら、その意味が上から練習場の天井が崩れて、あたしのいる辺りにそれが落ちて来るって、分かったんだもの。あたしだけじゃなくあの時は、部活のみんなが助かったんだよ」
二人は高校生の時、吹奏楽部に所属していて、明日香の座っているオーボエや、サックスがいるあたりの天井が突然砕けて崩落して来たのだ。
颯太のその「予言」のとこを担当の顧問や音楽の指導に当たってくれているトレーナーや指揮者に話しても、荒唐無稽な事として信じてもらえずに、とにかくそこが危ないからと用心して、みんなその場から離れていた。
その、にさんち後だった。まさしく颯太と明日香が予想した場所に、天井が崩れ落ちて来たのである。
若しもあの時、そこに明日香たちがいたら、サックスをはじめとした、複数の部員たちから、命にもかかわる様な怪我人が出ていた事は間違いが無かった。
顧問も、トレーナたちや指揮者も、どうして天井が崩れると分かったのか、そればかりを頻りと不思議がっていた。
だから颯太が言ったように、なんだかそんな予感がしていたのだ、としか説明できなかったが、実際にそう言う事故が起きたにもかかわらず、最後まで大人たちはそれを信じてくれなかった。
明日香はいまも、颯太の心の中に、ビジョンとして自分の祖父が出て来た事が不思議だった。また、現実に吹奏の何人ものメンバーを助けてくれた颯太が頼もしくもあった。
颯太にならば、そんな過去の人生が幾度かあったとしても、明日香はそれを疑う気持ちは全く無い。それどころか、普段こそそれを口に出さないだけで、この人にはそういう過去の人生がきっとあったのだと明日香は自然、信じるようになっていた。大きな怪我から助けてもらったのは現実なのだから。
二人がいま通っている、この大学に入った時だってそうだった。
お互いが同じ大学を受験していた事を二人とも、自分たちが入学するその日まで知らなかった。颯太も明日香も今の大学が第一志望校だったからである。若しもお互いにそれを知っていたら、どちらかが落ちてしまった時悲しみも倍になって帰って来る。それで二人とも、受験が最後まで終わってから第一志望をどこにしていたのかを話したって良いだろうと思っていたのであった。
だから入学式で、偶然二人がばったりと出会ったあの時は、二人とも驚いて、人目をはばからず、抱き合って喜び合ったほどだ。
「そういう予定が立ってるのよ、きっと」
こう言って、明日香が静かに微笑んだ。
颯太はその優しく可愛らしい微笑みを見ながらただ「うん」と、一言答えた。
二人はそれをなんの抵抗感も無く確信出来た。これ以外にいま、二人には言葉は必要無かったのだ。
禅で言う以心伝心とか、面授にも似てこうなのだとしか伝えようのない事だ。が、二人にはそれが、互いに言葉で言うよりも強く伝わっていた。
2
時節はまた少し巡り、もうすぐ二人が大学に入学して初めての、長い夏休みに入る。二人はすでに、両親からも高校生の時から正式な恋人同士と言う事で、きちんとした付き合いを許されており、お互いの家が近所にあると言う事も手伝い、颯太と明日香との行き来は極く自然なものになっている。
二人には、その時調べたい事があり、明日香も足しげく颯太を家に訪ねていた。
その日も颯太の母が、明日香のためにと特に明日香の好きな、冷たく冷えたファンタグレープに、氷を入れて瓶ごと二人に持って来ると、熱心に井上家の由緒書きや、昔の言葉の字引きに首っ引きな二人に「明日香ちゃんも颯太も一体、なんの捜査なのかしら?」と、からかうように言い、まだ封を切っていないあんぱんを、一緒に盆の上に置いてにっこり笑った。
颯太の母はいつでも優しい。例えて言えば『ドラえもん』に出て来る、
しずかちゃんのママみたいなイメージだ。
明日香はこの颯太の母を、もっと小さな幼稚園児の時から、ずっと知っている。
「あ、おばさま。お邪魔してます。うわ!美味しそうなあんぱん!ありがとうございま~す!」と明日香が、颯太の母に甘えながら喜んでいる。
「井上家の先祖の事が気に掛かるの?そうか!明日香ちゃんももう、うちの家族みたいな人だものね」と、言うのに対して、
「うん。だからそのご先祖の中に、俺と似た人がいないかと思ってさ。調べたらほら、このご先祖が長崎で亡くなったって書いてあるだろ?この先祖が俺となんらか、つながりのある人の様な気がするんだ」
こう言って颯太が、母や明日香の二人に、自分と何か関係がありそうな先祖について指でその部分を示しながら説明した。
由緒書きの、そこだけが圧されてへこみ、開いたまま閉じなくなっている。
颯太は首と肩を簡単なストレッチでほぐしてから、母の持って来てくれた冷えたファンタグレープを一口ゴクリ!と飲んでから、明日香と二人で美味しそうにあんぱんを頬張った。
颯太と明日香は、小さい頃からファンタグレープが大好きだったのを、颯太の母も良く覚えていた。
明日香が家に遊びに来ると必ず、ファンタグレープにとても喜んでくれる明日香が、幼いころから何処か他人とは思えなかった。
今の二人は、お互いの両親が公認の付き合いだ。
二人が大学を出るまでは、きちんと節度ある付き合い方をする事。これが唯一の、二人の両親同士が彼らへ出した結婚への条件である。これを守ったら結納の儀を取り交わし、互いが正式に婚約者となる。
大学で再度の出会いを果たした颯太と明日香に、何処か縁を感じた二人の両親も、大人として最低限これは守ってくれる様にと、両親同士が話し合って決めた条件だった。
そんな節度の無い無責任な事だけは、お互いにしない事、と二人も既に決めた上で付き合っている。二人がそれだけ、お互いを大事に思い合っているからである。
だから両親のそんな心配は要らない事だった。
それでも、恋人同士キッス位はするんだろうから、その時には節度を持ってしてくれよと、お互いの父親同士も言った。
二人には、そんな事は至極当たり前な事のように思えた。古風でもなんでもない。
人目もはばからずにキスを交わそうだなんて、二人にはそんな事さえ、思いも及ばない事だった。でもさすがに大学の入学式で、二人が偶然出会ったあの時だけは、例外だと考えていた。
あの時は、嬉しさ余ってお互いが、反射的にお互いを抱きしめただけだったのだが。
「あら、颯太とそのご先祖様が、どんな関係があるの?」
それに颯太がまた答えて「それをね、今頻りに調べているんだ。それにしても、先祖の由緒書きって、ずいぶん大雑把な事しか書かれていないものなんだね・・」
と颯太が言うと「昔の人が書き残したものって、今のものとは違うのよ。
大雑把なものに見えて、肝心な所はちゃんと書かれているわ」と、母もグラスにファンタを注ぎ、炭酸が爽やかな音を立てているそれを一口飲んだ。
颯太の母も、可愛い娘が遊びに来た時みたいに、嬉しそうだった。
いつでも明日香が来ると母は、こんな風に一緒にその話の輪に入って、
ひとしきり話をしていくのである。
二人はその夏、或る謎をめぐって、それを調べるための旅に出る事にした。
もちろん両親もそれに反対しない。お互いが、結婚まではきちんとけじめを守るものと、お互いに信頼しての事だった。
颯太も明日香もお互いを大切にして、そう言うけじめはしっかりしている事を二人の両親は分かっていた。
そこで謎を巡る旅とは、颯太の先祖を調べた上で、その生きていた土地を訪ねて行く事だった。
颯太が母にそれを話すと、母は「面白そうだわ。そんな調査旅行ならあたしも一緒に行きたいけれど、明日香ちゃんと一緒にご先祖の事を調べてくれるなんて、なおさら嬉しい事よ。二人で行ってらっしゃい」と、もろ手を挙げて賛成だ。
颯太は家にあったその先祖の由緒書きによって、先祖の誰がどんな役目の武士、と言うよりも「官吏」だったのか、明日香と二人で入念に下調べを終えたところだったのだ。
でもそれは、一人一人の先祖たちについて、至極く大雑把にしか伝えておらず、到底颯太や明日香に納得が行くようなものでは無かった。
颯太はそれで先祖の土地を実際に訪ね、またその人が眠る菩提寺へも行って見たかったのである。
調べてみたその、先祖の由緒書きによれば、倫理道徳や哲学に詳しい先祖と言えば、颯太から見て六代前の井上英一郎と言う侍がそれらしいと見当をつけて見たのだった。
英一郎は、江戸時代の中期に生きた幕臣で、殊に哲学や倫理に詳しく、学問所の講師陣にも名を連ねていた事までは分かった。だが、英一郎は幕臣旗本だったのに江戸では無くて同じ天領の、長崎へ長く出張っている時、急な病で倒れ、オランダ医学の力も及ばずその地で亡くなっていた。
だから英一郎だけ、菩提寺その墓所が、江戸では無くて長崎に作られたのだ。
颯太がここまで分かった事を母に話すと、母も一緒にその先祖の由緒について見て、この英一郎と言うご先祖様は、オランダ語も出来たのかしらねえ?どうして長崎へ出張で出向いて行ったか、理由が書かれていないわねと、新たな不可解事をまたひとつ言った。
「そうよ!どうして出張していたのか?御旗本だから、幕府の命令で出向いて行ったのは推測できるし、英一郎さんと言うこの方の、得意だったことが倫理や哲学みたいな事なのは、それを教える学問所の先生だった事からもわかるけど、外国語についてはなんにも書かれていないわね・・」
明日香が言うと颯太も「そうか!語学かあ・・。それは見落とすとこだった、気付かなかったなあ・・」と、まるで時代劇の目明しか何かみたいな口ぶりで言った。
颯太の生まれついての倫理や哲学の記憶が、この先祖、英一郎に由来したものだとまでは言い切れないが、ともかくこんな経緯で二人は、揃って長崎への旅に出ることになった。
「気の済むまで調べていらっしゃい。私も二人の土産話を楽しみに待っているわ!」
颯太の母は、その朝こう言って二人を送り出してくれた。
3
午前の東京駅。新幹線の乗り場はまだ、朝の新鮮な空気に満ちており、人は確かに多いのだが、混雑しているという感じがしない。
初夏の朝の空気は、東京駅と言う都心のこの大きな駅にいてさえ、爽やかに感じられるものだ。
「長崎のその御寺に着いたら、颯太の栄一郎さんって、言うご先祖様の似顔絵とか人物像とか、あるんじゃあ無いかしら?それを見せてもらったら、また何かが分かるかも知れないわね!」
明日香は恰も、自分の家の先祖を調べるように嬉しそうだった。
颯太ももちろん、そんな明日香が一緒に長崎まで付いて来てくれて、こんなに嬉しい事は無い。
疚しさや、こそこそした感も全く感じさせない二人は、他からみて無邪気そのものだ。とても大学生の結婚を前提としたカップルと思えない。幼馴染が、お互いにはしゃぎ合っているみたいだ。
駅弁をお互いが好きなものを二つ買い、それを二人で味わおうと言う事になり、都合四つのお弁当に、それに加えて念のためにサンドイッチと御茶も取りあえず五~六本、冷たく冷えたのを買い込んで、新幹線に乗り込んだ。
なにせ二人はこれから、遠く長崎までの旅に出るのだから、途中でお腹を空かせたくない。そんなこんなでホームへと上がって行くと、そこへちょうど、二人が乗る予定の『のぞみ』へと変わる、ピカピカの回送列車が入線して来た。回送列車なので、すでに車内の掃除も終わっていた。
二人が少し待っていると、その斜め左手にあるドアーが開いた。
そこからが、二人一緒の初めての旅立ちとなった。
オランダ語と言えば、まっ先に思い浮かぶのは長崎だ。
だが、オランダ語のみならず、一般に外国人への対応は全て長崎にいた通訳が行なう事になっていた。
二人が懸命に調べた上で分かったのは、長崎を公用で訪ねる人たちもまた、その関係の医師や学者が多く、長崎への「長の出張り」で、足掛け七年が経った頃、英一郎が「俄の病」によって亡くなった事までだった。
これ以上の事は、現地へ着いてから母も言っていた様に「気が済むまで」二人で調べようと思っている。
「ここにある学者と言うのは、この当時ならオランダ医学の学者や医師、オランダ語の研究者、それに東洋哲学が専門の幕臣旗本なんかが長く滞在したらしいから、俺の記憶に生来住んでいるご先祖の記憶は、オランダ関係者では無いだろうと思うんだ。だって俺にはオランダ語なんて分からないし、東洋の哲学や倫理が記憶でスラスラ出て来るんだから、英一郎さんがオランダ語に関係があった人なら、同じようにオランダ語だって教わらなくても出来たりしないのかな?」
颯太が都合の好い事を言った。
「あら?颯太、英語はどうだったっけ?」
明日香は、相変わらずはしゃいで返す。
「オランダ語だってば、英語じゃアないよ。それよりねえ、明日香?サンドイッチさっき買ったやつ、あれ食べようよ。俺、腹が減っちゃって・・」
「ア!良いわね。あたしも丁度今、そう思ったところなの!」
明日香はさっきの袋から、サンドイッチを二人分テーブルに載せた。ハムカツに生野菜やトマトの挟まれた、ジューシーなミックスサンドだ。
「御茶も飲む?」
「うん!」
二人は外国語の事は忘れて、黙々とサンドイッチに御茶を飲んでいる。
それまで長崎の話に無我夢中になっていた二人が気が付けば、時間はすでにそう言う時を刻んでいたのだった。
二人はサンドイッチをオードブルとして、序でに駅弁も食べたかったが、旅路は未だ先が長い。
乗り換える広島まで空腹を抱えて行くのは真っ平だった。
まだ京都を過ぎるまでは少し我慢して・・、と申し合わせて、二人は再び話に花を咲かせた。
二人のこうした話の中には、時に貴重なヒントになる事が出て来た。
さっきの疑問みたいに、颯太の先祖、英一郎はオランダ関係者か、それともオランダ技術や言語が出来た人なのだろうか?
幕臣旗本と言えばそれなりの役目があって長崎へ「出張った」のだろう。
英一郎は旗本七百石。家禄こそ大きくは無いが旗本に相違はない。
英一郎も何らかの才を見出され、学問所の講師から長崎への「長の出張り」を命じられたものだろう。長崎に住んだ足掛け七年の暮らしはどんなものだったのだろう?
出島にはオランダの医師やオランダ人学者、商人。中国大陸や朝鮮半島、沖縄など海外の人たちの大勢が、ここに出入りをしていた事を思えば、英一郎もそんな国際色の鮮やかな、長崎の暮らしに胸をときめかせていたのではないだろうか。それにしてもどうして東洋哲学の専門家が長崎へ行けたんだ?
颯太も明日香も、問題がここに来るとそこでまた振出しに戻されてしまうのだ。
颯太の先天的に持っている、哲学や倫理に関する生まれながらの記憶が、英一郎のもので無く、全くの別人と言う事だってあり得る事も、すでに二人は十分に心得ていた。
それならそれで、長い夏だ。改めてそっちへ足を延ばしたって良い。
二人はとにかく、颯太のそうした記憶の根源が、誰に由来したものなのかを突き止めたかったのである。
「颯太みたいに先天的に、何かの記憶を持って生まれる人って、稀にいるって聞いた事はあったけど。でも、それが颯太にあったなんて、初めて聞いた時は驚いたわよ。それも倫理や哲学の記憶なんて珍しいわね」
明日香が言う。
「そう言う記憶の持主には音楽や数学の才能を持って生まれた人や、話したり聞いたりした事がぜんぜん無い、どこかの外国語に堪能な人なんかが多いと言うわ」
いつの間に調べていたのか明日香は、人が誰にも教わらないのに、先天的に持って生まれた記憶の事を、色々と知っていた。
「颯太はその他にも、女の子だった前世の事も記憶しているなんて・・。 人って色んな過去の人生を生きて今に至ってるのね・・。あたしも自分が前世で誰だったのか、知りたくなって来たわ。でも、あたしにはそう言う記憶がぜんぜん無いのよ。あたしって、根っからの凡人なのね・・。」
明日香は二本目のお茶の蓋を開けて、それを一口飲んだ。
「大方のみんなは、俺みたいなこう言う記憶が無くて当り前だろう?
ただ単に俺が特殊なだけなんだよ。俺にはこんな記憶って、ちっとも嬉しい事じゃあ無いんだよ。謎めいて不可解なだけでさあ。でも今回、明日香とこんな調査の旅が出来て、自分の特殊な記憶を少しだけ見直すことだってて出来るんだ!ほんとに良かったって思ってるよ」
「うん!あたしもよ。颯太のこんな面白い記憶を巡って、旅をするなんてロマンチックよね!」
4
長崎に着いた翌日、二人が真っ先に出向いたのは、栄一郎が葬られている『永昌寺』だった。
すでに三百年以上もの時を経てそこにある、颯太の六代前の先祖、栄一郎の墓は、何とか形を保って蒼く苔生している。
周囲は広く空き地となって幕臣旗本の墓に対するその当時の敬意が示されている事が分かる。
ご先祖と同じ時代をこの地で過ごし人たちの中には、こうした出張先、今で言わば赴任地での死亡も、決して珍しい事では無かったのだと推測が付いた。
この『永昌寺』だけでも栄一郎の外にあと四か所、こうした墓所が祀られているという。それらは全て当時、相応の役目を帯びた武士たちのものだ。長崎らしく、この地で亡くなる人たちもまた、武士以外に様々な国の人たちがいた。
その人がどの国の誰であれ、その一人一人が様々な役目を帯びていたのだろう。
皆が希望に溢れ、初めての赴任先へ出向き、胸躍るその気持ちや当時オランダの外交官にも当たる、オランダ商館長の豪勢な旅の記録や、絵画などを見せてもらいながら、それぞれの立場はあれど、この地をおとなう全員が、それぞれに才能を活かしてここで輝いていたであろう事を、かなり細かに知る事が出来た。
また、栄一郎の帯びた役目もほんの少しだが、推測する事が出来た。
二人はかなり長く滞在しなければ確かめるべきを確かめられずに帰京しなければならなくなってしまうだろう。
ひと夏掛かっても栄一郎やこの地で亡くなった人たちの事を知る事で、その人たちが生きた時代が明らかになり、その人の供養にもなるだろうと殊勝にも二人は遠い過去へと思いを馳せた。
ともかく長崎では、まだもっと、いろんなことが分かりそうだ。
『永昌寺』の若い副住職が、彼ら颯太や明日香に年齢も近い事もあって、 至極く面倒見の良いその副住職は、二人の世話役を買って出てくれただけでなく、颯太と明日香はこれから先滞在する彼らの宿を『永昌寺』の離れに定める事となった。
その離れは、大事な客をもてなしたり寛いでもらうのに使う別棟で、襖絵には幽玄な水墨画が描かれ、欄間も手彫りで、それらが何百年前も前に造られたのものだと言う立派な部屋だ。
住職もまた、とても丸い人柄の親切な人で、明日香の様な活発な娘も颯太の純な素直さも喜んで受け容れ、二人に何くれとなく教えてくれた。
『永昌寺』は二人にとって、長崎を知るうえでの何よりも心強い味方となってくれたのである。
「あんた方みたいに、長崎で亡くなった六代前のご先祖様を知りたいと、わざわざお出でになる方は、滅多にはおらんでのう。古文書を読む人も少なく、あったとしても滅多に読まれぬから、あんた方みたいにお若い方が、それを読んでここまで来てくれたことを、仏もさぞかし喜んでおられるだろう。
ここに幾ら何日滞在してもちっとも構わぬが、あなた方がいる間は、何も遠慮は要らないから相談してくだされよ。
それでなあ、颯太さん。あんたのそのご先祖様の英一郎さんだが、私の記憶では確かその方は、長崎のオランダ商館長と公儀の間を、幕府役人として両者の橋渡し役として何かをするために、この地へやって来たお人のはずだ。
いま、細かくは覚えておらぬが明日、その英一郎さんに関する資料を蔵から出して見よう。絵画も含めて幾つかの記録があったはずだから、それを綺麗に掃除した上で、その人となりやお役目など、調べてみましょう」と言ってくれた。
長崎に着いてすぐに、こんな親切を受けることになるとは予想外の事だ。これも何かの縁。
思いを巡らせる間に、殊更「縁」と言う言葉が浮かんだ、えにし。
颯太はそれを発音して見た。「えにし、か・・。」
「これって、ご先祖のくれた何かの縁なのかなあ?こんな親切なお寺に泊めてもらえるだなんて夢みたいだね!英一郎さんに関する資料だって、いくつかあるって言うのも予想しなかったね」
「そうよね!せめて肖像画の一つかふたつが残されていたらって、必死で願っていたんですもの。ほんとうにこれは縁、えにしなのね!とんとんと謎が解けていきなそう気がしない?」
「うん!思ったよりすごい何かが分かるかも知れないね!」
そんな話をするうちに二人は寺の人たちが日常で使う別棟である、庫裏へ呼ばれた。
ニコニコした副住職が「夕飯の時間だよ」と来てくれたのだ。
「お寺で畏まらずに、通常普段着で過ごしてくれる様に、いつでだって庫裏にも顔出してくれていいんだからね」と、副住職は心から二人の逗留を喜んでいた。
その夜は数々の野菜や魚の天ぷらをメインに、他の精進料理が歓迎の膳をにぎわせた。
前菜にと、お手製の胡麻豆腐まで作ってもらった事に、二人は感謝感激していた。それに酒好きな住職と副住職の二人は、土地の酒が入った一升瓶を幾つも並べて、二人に勧めてくれた。
「長崎は案外冷える所でね。このお寺では昔から、真冬などには朝も酒を呑んで体を温めるんだよ、そうしないと凍えてしまうからね」
副住職が二人に、純米酒を大きめな湯呑茶碗で勧めてくれる。
「この平たい茶碗がまた良いんだよ!酒に合う茶碗でね!さあ、さあ呑もうや」
ニコニコした住職と、面倒見の良い副住職との話はその晩、止まるところを知らなかった。
住職の話に特に注意しながら、何かヒントになる事は何でも聞き逃すまじと、初めは緊張気味だった颯太であったが、明日香も一緒に美味しいお酒をたっぷりとご馳走になって、いつしか長崎の初めの夜は更けて行った。
(続く)
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翌朝は禅寺では「放参」と言われているお休みの日だ。
『永昌寺』でも、みんなは遅めの朝食に、また酒を呑んだ。このお寺ではそれが伝統なのである。朝からの酒は、慣れぬ者には特に効くものだ。
この日は友引で通夜も無く、勿論葬儀も無い日なのである。
このお寺に逗留中は、颯太も明日香も朝に夕なに酒を勧められる事になる。
ぬる燗の酒を、平べったい湯呑み茶碗でぐうと飲む。これがまた、各段に旨いのである。
「なんでこう柔らかいお酒になるんですか?」と尋ねた二人に住職が、ご本尊様のお陰だよ、と言って笑った。特段の理由など無いのである。然しこの寺の酒は冷えた純米酒も、燗をつけた酒でも、とにかく「旨い」のだ。
御本尊様がこうやって旨い酒にしてくれているのだ。住職も副住職もそう信じていた。
この朝の酒にはむしろ、明日香の方が先に馴染んだ。颯太が「うわばみだ」と言ってからかったが明日香は平気である。
明日香は「だってとっても美味しいんですもの!ご本尊様のお陰様ですからね!」と言って、囲炉裏端でぬるく燗を付けた甘口の酒を、本当に美味しそうに呑んでいる。
酒の肴にと、かまぼこや、厚焼きの甘い玉子焼きに、からすみが銘々に出た。
盛り合わせには大皿の上にチーズもある。そら豆も今茹でているからと、副住職がこれまた上機嫌で言う。ウインナーも茹で上がったばかりで、まだ湯気を立てていた。
颯太はそれまでは、清水に浸されて冷やされた純米酒を、矢張り茶碗で飲んでいた。
が、明日香のその旨そうな酒の吞みっぷりを見て、颯太もぬるく燗を付けた方の地酒を平べったい湯呑みに注いで呑んでみた。
これが独特な、甘みを持って喉に心地よく「する~っ!」と、呑めてしまうのだ。
「あっ!美味しい」と、思わず発したまま、颯太はポカンとしている。
「ほうらねっ!」と、明日香が声をかけるまで、颯太の意識は何処かへ飛んでいた。
「でも、朝のお酒はやっぱり効きますね!」と、言いながらも颯太はさらに、ぬる燗酒を注いで、甘い玉子焼きを肴にぐいと呑んだ。
「旨い!」それだけで二人は余計な事は言わない、余りの旨さに声も出ないのだ。
明日香はただ黙々と呑んでいる。
それまで颯太が知らない、明日香の新たな側面を見て颯太は嬉しいばかりだった。
「いい嫁さんになるよ!」と、副住職が明日香を囃した。
それでもなお明日香は「美味しい・・」と、酒を呑んでいた。
「今日はお寺もお休みなんだ。友引だからねえ。安心して酒が呑めるのも、この日のお陰さ」
「ここが禅寺だからと言って、いつも精進ばかりじゃないからね、そこは安心して逗留して下さいよ。旅のお疲れだってまだ取れ切ってない。そういう感じだから、尚の事、酒を呑んでぐっすりと眠るんですよ。緊張もしなくって良いんだから」
穏やかな住職もそれを引き受けて行った。
「その昔、颯太君のご先祖様が生きていらした時代にはまだお寺は、お米や砂糖、酒がたっぷり飲めるところとなっていたんだ。御振る舞いの席ではお寺によっては、一人宛一升近くの酒を振る舞い、引き物として、おこわや饅頭、そして砂糖を持って帰ってもらったと言うよ。
この『永昌寺』でも御振る舞いがあってねえ、その時は同じ様に、お檀家を迎えて、御祈祷の後で自由に飲んで食べて頂くんだ。ビュッフェスタイルって言う奴さ。
引き物には砂糖が今でも喜ばれるし、お檀家の中には造り酒屋さんもあって、お酒をたんと!お布施してくださるから、お酒に事欠かないんだよ。 どうぞ好きなだけ呑んでくださいよ。遠慮なしね!」
副住職は饒舌になってこう言った。
明日香は呑むと、酒を味わって普段よりもずうっと静かになる。
颯太は、こう、静かに酒を呑む明日香が、またなおさら好きになった。
惚れ直すってこう言う事か?と、ちらと思ったほどだった。
女の酒は、絡み酒が多いと聞いていたが、明日香は呑みっぷり良く、然も黙々と呑んでいる。それもいつの間にか独杯だ・・。
「それで良いんですよ、それが一番!良いお酒ですねえ!」
こう言うと、副住職も真似をする様に独杯で、ぬる燗を茶碗に注いだ。
「資料は今朝のうちに用意したよ。でも、明日ゆっくりと見る方が良いよ、一緒に見て分かるところは解説するからさ。それに明日は、地元の学芸員の山本さんと言う人も呼んであるから、山本さんに詳細をお尋ねしようよ。
私も自分のお寺の古い仏さまに、そういう色々な由緒いわれがあったのを聴けるのは初めてなんだよ」
副住職はそう言って、美味しそうにかまぼこを摘まんだ。
「颯太君がその子孫だなんて、ねえ・・。こう言う事は、信じられないくらい珍しい事だよ、稀と言っても良いほどだよ」
しみじみ言うのへ住職も深く頷いて「本当になあ。他の古い仏さんたち、誰も来ぬからなあ。気の毒に思ってお寺では大事にしてはおるのだが、古文書なんど、良い歳をした大人でも、読めぬようになったからなあ。時代は進んでも、ご先祖様に関わる、由緒書きの古文書も読めぬのはまったく仕様が無いことだ、これでは時代が本当に進んでおるのか、逆に遅れて行くのか、見当が付き兼ねるわい・・」
「由緒書きみたいな古文書くらいなら、高校生でも読めますよ。あっ!そうか!そう言うお宅では、それ自体を無くしてしまったのか!」
こう気付いた颯太は、中途でそれを言うのを止めた。
そうなのである。武家の子孫でも全部が全部、自分の先祖がどこのどういう武士で、どんな役目を帯びていたのかを知っている訳では無く、多くは由緒書きを見ても、読む事が出来なかったり、自分の家は足軽です、等と言っていた時期さえあった。
その間に先祖の佛たちが真に置いてけぼりにされたと言うわけである。
一億みな平等、うちなんか先祖は足軽ですって言いなさい、と言う事にして置けば、何はともあれ無難で良いからだ。
「武家の子孫でござい」などと言ったら最後、妬みや僻みによって周囲からどんな事を言われるか、知れたものでは無かった昭和と言う時代が長く続き、その野蛮な昭和という時代の、野蛮な平等論が多くの武家の先祖や、その周辺をぶち壊しにしたという事である。
先祖が中下級の武士だった家のその子孫たちは、武士や士族階級がなくなり武士が否定される世の中になってから、自分の先祖までその悪平等の為に滅ぼされたと言えるだろう。
無理にでも「うちの先祖なんか足軽だったんですよ」と、嘘吹かねばならなかったと言う事だろうか。
事実そう言った、元は士族階級の者たちの中には、自分の先祖たちの菩提寺が何処なのか、子孫に伝えないまま忘れ去られたものが少なくはない。
自分の井上家もこの間までは「足軽だ」と言っていた間に、そうなった家の一つだったのだろうか・・?
こう考えると颯太にも、まだ幼い小学三年生ぐらいの頃までは、実際に「うちは足軽です」って言っておきなさいと、言われた覚えは確かに幾度かあった。
そうだったのか。あれってそんな意味だったんだな・・。だからうちだって、江戸時代からの、井上家の菩提寺なんか、どこなのかさえ長い間、知らないままでいた。
颯太が明日香と紐解いていたあの、由緒書きが見つかって、井上家の手元に戻ったのは、ついこの前の事なのだ。このお寺を訪ねる事が出来たのも、颯太や明日香がそれを調べたために分かった、ほんのたまたま、偶然からだった。
颯太は真面目に、こんなお話しってお寺ならではのものだよ、こういう時にしか聞けない貴重なお話しなんだと思う・・。
そこに、悪平等の哀しい側面や腹立たしい所と、いままで騙されていたんだと言いたくなる子供の頃の記憶とが入り混じる・・。
ネガテイブな様々の想いが彼の頭の中を駆け巡った。多くがそれを忘れたまま、何かの拍子に自分の家の由緒書きが出てきたりする。でも、それに対して多くは、いまさらの感を抱くだけだ。
こんなものが、今さら何の役に立つんだ・・?と、
自分のような家は、この国の悪平等や他人を妬み、僻み切って歪んだ精神の貧しさがもたらした、悲しい結末の犠牲者では無いか・・。
中下級武士の子孫だと、先祖の墓さえ知らなくたっていいと言うのか・・?!
先祖が侍だった事が、そんなに悪なのか?
明日香は美味しそうに酒を注ぎ、ウインナーを摘まんでいた。そら豆もある。颯太が物思いにふける間に、明日香は美味しそうに呑み、美味しそうに食べている。
「明日香さんを、俺の嫁さんにほしいなあ!」と、副住職が出し抜けに、
ただならぬことを言うから颯太は慌てた。
「ダ・だめっ!駄目ですっ!明日香は俺の・・」と言う颯太の顔を見て副住職はなお更に大きく笑うのだった。
明日香は明日香でのんびりマイペースである。
「静かに飲む女はいい女っていうだろう?明日香さんなんて、最高のお嫁さんになる人だよ」とまた副住職が言い、そして颯太の腿を掴んで「このお!」と言った。
もちろんそれらは、すべてが冗談なのだが・・。
颯太もなんか反撃しなければ!と思ったが、こう言う時は、何と言えば良いのか分からなかった。
が、しばし間が空いてから颯太は「あ!ソウダっ!そう言われると、男冥利に尽きます!!恋人をそんなに褒めていただいて!!」
いつの間にか颯太の口からそう言う言葉が溢れ出て、ようやっと彼は勝ち誇って見せた。
「分かってるって!颯太君!俺はさっきから本音しか言わないからさ!」
副住職は酒を呑みながら、さらに悪い冗談を言った。
明日香を巡って冗談と分かっての言い合いながら、颯太の心中では未だ、穏やかならぬ、この副住職が起こした大波が揺れている。
明日香はへっちゃらだ。
ウインナーをもう一つ摘むとそれを、ぽんと!齧ってから残った半分をまた放り込む。見ればそれはそら豆だった。青々とした太陽の恵みを匂わせて、それはまだ茹で上げで、副住職が皮を剥いて丁寧に蒸したものだった。
大盛に盛られたそら豆は、ウインナーと一緒に大皿に盛られていた。
ウインナーでは無かったんだ・・・、と颯太は自分の眼が信じられなくなったが、こんどはそのウインナーを肴に酒を呑んだ。
「この寺を住持する者は、誰も娶らぬという掟がある。だから、この副住職も私の子供では無くて弟子に取ったものだよ。この『永昌寺』には、江戸期後半に、わざわざつくった掟がある。
恋愛をしない事。結婚をしない事だ、これが一番重んじられる。それを守れる者のみが、この寺の住持人となるのじゃ。さっきから福住職がいうのはすべて冗談だよ、颯太さん。だから心配しないで。あんたはよほど、この明日香さんを好いていらっしゃるんだねえ」と、しみじみ言った。
酒の宴はその夜遅くまで続いた。
6
夏の早い朝はすでに来ていた。
颯太の目覚めは極めて良い。
「ッあ~!気分が良いなーア!」
あんなに吞んだのに、不思議にも、二日酔いは全く無かった。
すっきりとした気分で歯を磨き、顔を洗った。
やっぱりぬる燗でも、燗を付けると体に良いんだろうか?と思う。
明日香は颯太の隣の、下手にある座敷で眠っていた。
まだ襖が開かれていない。
この寺の掟の二つ目は、客が座敷の襖を締めている時には、それを開けてはならない、があった。
表から、ぶ厚い襖の前で声掛けをするのは許されていた。颯太の優しい性格は、明日香が二日酔いでもしていたら大変だと言う想いでいっぱいになったが、声掛けをするべきかどうか?この部屋に水差しはあるのだろうか?と心配が次から次と現れる・・。
でもこのお寺の掟だ、如何ともし難い。襖を締めるのはその座敷の主が在室している時と、寝ている時だ。その他の時は開けて置く。よし!水を持ってまた声を掛けて見よう、と颯太は大きな本堂を通り抜けて庫裏へと向かった。
「お!颯太君。おはよう!丁度良かったよ、紹介するね。こちらが学芸員の山本さん」
時刻はまだ七時前だった。この時刻から考えれば、昨夜大酒を飲んだ明日香がまだ眠っていても、むしろ当然と言えた。
さっきから時間ばかりを気にしていた颯太はそれを知り、やや心が静まった。
「あ、どうも!失礼いたしました。ボ・僕は、井上颯太です!颯太と呼んで下さい、みんなからもそう呼ばれています」
七時前なら起きないのも無理はない・・。やれやれ。
昨日、明日香は普段呑めない日本酒を、自分の何倍も呑んだんだ。
そういうのがお転婆なときの明日香なのだ。
「颯太君。明日香ちゃんと一緒に居酒屋なんて行かないの?女の子は居酒屋へ行きたがるだろ?」副住職が聞いた。
「行きます。けど、明日香って、居酒屋では何故かビールを少ししか飲めないんです。昨日、日本酒をあんなに呑んだのもきっと、こちらのご本尊様のお陰で美味しいお酒だったからでしょう。僕だってあんなに美味しいお酒!生まれて初めてでしたから」
「あっはっは!そうか!そいつはありがとう!そう言ってもらえると、御本尊様もきっと喜んでいらっしゃるよ!」
山本学芸員も「あっ!ってえ事は、昨日も呑んだんですね!はは~ん!
昨日は友引で今日が四の日!」
「運が良いとこうやって重なってね!ああ、颯太君にも教えておくけど、四の付く日と九の付く日、それと昨日のような友引には、うちの御山はおやすみだからね。ここいらではお寺みんながそうしているんだ。昔からのこれも仕来りって言う奴さ。禅寺じゃあ「しくにち」って言うんだよ。お陰で今日もお休み、お休み~!」
副住職はいつもこう言う感じだ。おどけてばかりいる。
禅坊主と言うのはもっと底意地が悪くって、嫌な奴らだと、確か夏目漱石が書いていたが、実際こうして禅寺に来てみればどうも話は違う。
一緒に寝泊まりをさせてもらったら、禅寺の人たちはこんなに面白くって、優しい人たちじゃないかと、内心で颯太は思った。
「それであのう、方丈様は?」今度は、山本学芸員が尋ねた。
「ああ、いまねえ山へ出ていますので、もうすぐ帰って来る頃ですよ、キノコと若干の山菜を採りに行きました。何でも朝から鍋で一献傾けながら、資料を読もうと言って・・。」
「ああ!な~あるほどお!そっちの方が、ずうっと頭の回転も良いし!」
「酒が美味いし!」
そしてそこにいる三人は声を揃えて笑うのだった。
「方丈様」と言うのは住職とその名代に対する尊称でもあり、真四角で小さな部屋と言う意味もある。
住職の書斎に使われていた部屋が小さな今風に言えば四畳半、今で言う畳のサイズは極く小さいのものばかりだから比較にならないが、その二回りほどは広いだろう、この時代の畳一条は、今で言う畳二畳分は有ろうか。そう考えると、単独で方丈の間を建てればミニミニサイズの庵と言う按配な部屋になる。
現代の畳はとにかく小さすぎるのだ。
また、禅寺の住職が隠居すると、東堂と言われる部屋で一人、随想や回想などをしながら暮らしを楽しんでいた。これも形式は「方丈箱型」のなのだが、東堂と言うのは隠居した住職が自由に暮らすための部屋か、若しくは別棟に立てられた庵のような建物だ。
これは論理方位を用いて言われた、その建物や部屋の名だ。
日本の寺院建築で中国の寺院築建物に通じる所は、この論理方位だが、
作りとその形式やその建物の規模は、全くと言って良い程異なる。
何でも日本の形式は小さくて、質素を絵に描いた造りをしている。
日本の寺院建築で、唯一立派に拵えられているのは本堂だけである。
その他に、離れも幽玄に作られているが、それは客の使う別棟だからという理由でそのような造りとなった。
そして今、颯太や副住職たちが話をしながらそこにいる庫裏は、寺の僧侶たちが普段寝泊まりするための棟だ。
ここに庫院があり、禅の言葉では少し有名になって来た、典座と言う人たちが働く、今で言う台所がある。
他には、先に書いた方丈「箱型の」間があり、また同時にちょっとした
来客の応対をするための接賓などが置かれた。
ここ、接賓で方丈が客と茶を飲んだり気楽な世間話がなされる。
庫裏と言われるこの棟一つで、僧侶たちの食事の支度から、日常の何からなにまでが、十分に事足りるよう作られていた。
もっと大きな修行僧の道場としての格式がある大きな寺院には、この他に後堂や西堂、僧堂に坐禅堂などが付属したが、それについての説明は此処では省く事にしたい。
用いられる論理方位については簡単に、飽くまでも論理だけの方位だから本尊を中心に、向かって右手を西、左手を東と見なす。南は導師や僧侶たちの入堂する出入り口なのである。
寺院建築はこのような、事実の方位と無関係の、論理方位によって成立している。
北を枕にして釈迦は死んだ。だから寺院は全てその時の釈迦の遺骸に習って作られた建築物なのだ。北に頭を置いた釈迦の身体が寺院の造りだと言えば分かりが早いだろう。
寺院と言う建築物は、釈迦の遺体、涅槃像になぞらえられている。
それでわざわざ論理上の方位が必要になったのだ。
7
「なあるほど~お!そんなにいっぱい掟があったんですかーあ!」
山本学芸員の説明してくれたことに颯太はこう答えて、また皆を笑わせているところへ、「おや!みんなお早いねえ」と、今噂をしていたその方丈が帰って来た。
背負い籠には山の恵みがいっぱいに入っている。採れたばかりの山菜やキノコが、その籠から香っていた。
颯太の家に関する、井上家の資料はすでに山本学芸員が過去にも目を通し、そこに書かれた中味には、別にメモ書きがされていた。
山本学芸員によると井上家は長く江戸で、学問所の講師だったが「御老中配下の目付に同じ」くなり、長崎に出向いたのであった。
オランダ商館長と幕府との間を取り持つために、日本人のものの考え方や、文化に関する話を聞かせ、その時々に見せる商館長の反応を、詳細に報告していた。
「そのメモがこれさ」と言って山本学芸員は、颯太に古くてぶ厚い帳面を示した。
黒ずんだその帳面は、良く時代劇で見る様な大きな商家の帳面によく似ている。
それは颯太の先祖、英一郎が直に記したオランダ商館長と自分との間の、会話や食事、お茶の時間などに彼に供された、オランダの料理や菓子、茶と珈琲、カカオなどに関する記録であった。
これに記されたものと同じ中味の報告書が、公儀へ宛てて月に二度の割合で送られ、商館長のその日その時の自分に対する応対やその表情、発せられた商館長の重要な言葉の意味などにまで言及されていた。
英一郎のこの詳細な報告書は、公儀がオランダ商館長を知るための最も身近なレベルの手掛かりとなり、さらに長崎奉行所からの時々の報告書も交え、時にこれら二つが対比され、公儀の重臣たちによって詳細に検討されていたというのだから、その仕事の重大さは颯太にもよく分かった。
オランダ商館へは当然、通訳も連れて行く。英一郎は下級旗本として、
長崎にいた通訳たちの「御支配」という肩書で、配下の通訳を伴いその役目柄、商館長に因縁付けをした上での出入りなのだった。
「だから英一郎さんは簡単に言えば・・。言わなくとももう、分かったよねえ、颯太君?」と山本が言うと颯太は「はい、概ねの所は。英一郎さんは『お目付格』って書かれていましたし、矢張り商館長の監視役みたいな事でしょうか?」
「うん。颯太君は分かりが良いなあ、流石だよ!」と、山元が応じた。
英一郎は、オランダ商館長とその側近など、要人の監視の役目を背負い、然し表向きは、外交上の接触が役目になっていたのだろう、と颯太は考えたのだった。
早く言えば公儀隠密のような、スパイの性格も強い役目だったのだ。
颯太がそんな事に思いを巡らしている内にも、山菜やきのこ鍋の、甘くて食欲をそそる香りがして来た。
副住職はまた新しく一升瓶を何本か持って来て、それらを盆に置くと、
もう少しあるからと言い置いてから、また何処かへ消えた。
住職一人らしい「台どこ」からは、愈々もう出来ましたよ、と言う匂いが、こちらにまで十分すぎるほどしている。
「朝からの、キノコに山菜鍋と来たぞっ!」
住職は、その大きな鍋をカセットコンロの上に置くと、未だいっぱいあるから!と、これまた去って行った。
山本学芸員は冷静にカセットコンロと鍋とを対比しながら「火をつけ忘れたんだな?」と、言いながらカセットコンロを点火して、それをとろ火にセットした。
鍋の蓋から立ち上る盛んな湯気・・。良い香りがする。
そして何よりも、いま英一郎と言う自分の先祖が、ある程度の立体感を持って颯太の心の中に姿を見せ始め、颯太は何と無しに安心する事が出来た。
そこへ思い出した様に山本学芸員が、沢山ある先の資料の中から頻りと何かを探していたが、やがて「ア!矢張りあったっ!」と、頓狂な声を上げた。
山本はこの資料の中に、色の付いた水墨画で旗本、井上英一郎の人物画が織り込んであった事を思い出したのだった。
山本はそれを颯太に手渡した。颯太もそれをじっくりと見せてもらって、あとで写真に撮った。旗本として武士が身に付けていた裃姿の絵だった。
「もういいかい?」と、尋ねる山本学芸員に颯太は「はい。どうも有難うございます!」と礼を言うと山本は、もう一枚矢張り同じ色の付いた水墨画に描かれた、英一郎の人物画を開いて示しながら「こっちも撮影すると良いよ」と言って、それを畳の上に丁寧に広げた。
「颯太君。こっちは新しく描かれた水墨画だよ。長崎に着いてすぐに描かれたものだと思う。これは公儀の役人が、無事その任地で御役目に着いた時に身に付ける、布衣と言って、こう言う官職を示す冠に、忠臣蔵で浅野公や吉良公が着ているああいう正装なんだ。
御旗本だから従五位の下あたりか、従六位ぐらいの人の布衣だねえ、代官職より一つ格が上の従五位だとおもうんだが。はっきりと官位までが記されていないので、冠の大きさや形で見れば、すこし格が上の行司さんみたいだろ?だから恐らくだけど、着任時に官位を贈られたんだろうとは思うんだが。旗本が御支配や、元締めなんかになると、官位が上がったり、その役職に相応の官位を授かることになっていたんだよ。
だからこれは、その儀式の時に着用した儀式のあとで描かれたものだと思う。
英一郎さんは、公儀の格で言うと、お目付格だったから、官位もおそらく従五位だろうなあ・・、だとしたら御旗本の出世頭だ」
大したもんだと言う表情で、山本学芸員はその二枚の水墨画を、みんなが見える接賓の出入り口に面した壁に、飯粒を潰した糊でそっと貼り付けた。
「その水墨画は颯太君が家に持って帰ると良いよ。本来はこれらの資料を全て颯太君に託してお返ししなければいけないものなんだが、まだ少し調べていない所があってねえ、それが終わったら必ず颯太君の御宅に届けさせるから」
山本学芸員は恐縮そうにこう言った。
颯太は、幾ら絵画と言う形とは言え、いきなり現前に現れた自分の先祖、井上英一郎を、畳に座ったままそこからまじまじと、出来るだけそれを目に焼き付ける様に観察した。
布衣を来た、正装の英一郎の方が、何処か生き生きと穏やかな顔をしている。
この長崎の地にやって来て、旗本としての江戸での暮らしよりも、英一郎はきっと幸せだったんだ、そうなんだきっと・・。
颯太がそんな回想に浸っている所へ明日香の声がした。
「おっはよーございまっす!」
あ!明日香の奴、嫌に明るいじゃんか、明日香!あいつ寝坊して照れてやがるんだな・・。
明日香の声が「台どこ」から大きく響いている。
「あ~!良い香り!美味しいものを作って下さって、ありがとうございまーっす!」
バカ野郎・・!
恥ずかしいじゃんか!明日香!
明日香が台どこで立ち働いている、方丈へ挨拶してから接賓へ上がって来た。明日香にはこう言う人懐こさがある。
何か、へまをしても全然悪びれずに、逆に可愛がられてしまう術を、明日香は生まれながらに身に付けている。
明日香が接賓へ上がった時、何より先に山本が、この部屋の出入り口の壁側に張った二枚の絵画を見た。
「おはよう・・。あれ、この絵って?」
「明日香、あ・おはよう。あのねこれ、俺たちのご先祖様。いま、こちらの山本学芸員さんから、この英一郎と言う先祖の事を教えて戴いていたんだよ」
「山本学芸員さん?あっ!おはようございます!あたしは颯太君とは、公認のその・・」
照れる明日香から話を引き取って、颯太が「僕の恋人で婚約者です。大学を無事に卒業出来たら、正式に結婚するつもりです。白川明日香と言います。こちら学芸員の山本さん。こちらがこの二枚の絵をいま、俺に見せて下さった所なんだ、明日香も一緒に見てくれ。やがて明日香のご先祖になる人なんだから・・」
言われて明日香もはっと!気が付いた。
「あ!そ・そうよね!あのう!明日香です!」
明日香は水墨画に向かって、畳に正座をしてお辞儀をした。
こんな若い婚約者の二人を、方丈も副住職も、温かな笑顔で見ていた。
副住職は、酒の瓶を三本まとめて静かに畳に置いた。これで都合六本の、一升瓶に入った地酒が用意されたわけである。
方丈は鍋と共に味わってくれと拵えた、白和えを器に山に盛り、更には山菜の天ぷらと得意の胡麻豆腐を持って来た。抹茶寒天までが大皿に盛ってあった。
久しく長らく、日に当たらなかった英一郎が、自分たちに微笑みかけているのに違いない・・。颯太にはなんだかそんな感じがした。
絵画の英一郎はまるで、生きている様に若返って見えた。
いまにもその絵の中から抜け出して来るのでは無いか、と思えるほどに。
「時代から言うと、裃を着ているこの江戸にいた頃の絵の方が、若くて元気なはずでしょう?でも、こうして見比べると、こちらの長崎の絵の方がずっと歳が行ってるはずなのに、逆に若くて元気そうに見えませんか?」
日付けからして颯太が言う通りであった。
この絵の方が英一郎が、ずっと年月を経た後のものなのだ。
布衣を許され、官位を授かった喜びと言う性質のものでは無い、そう言う名誉とか権勢から来る、一瞬で消える喜びでは無く、別の何かから英一郎の身体に湧いて出る若々しい力を感じるのだ。
そして布衣を来た英一郎は、みんなに向けて本当に微笑みかけているのではないか・・?
少なくとも颯太はそう感じたままを言った・・。
(続く)
