STAY BANK SANRIKUでのピアノ演奏について

 大船渡のショッピングセンター「サンリア」裏の商店街の一角に、旧・気仙銀行として建設された築101年の趣あるRC建築がある。震災痕跡資料館とカフェレストランの複合施設である「STAY BANK SANRIKU」である。

 令和7年9月、ここに客として初めて訪れ、料理の待ち時間に演奏者を募集していたので名乗り出た。それから4回ほど(ステージ数でいえば20回近く?)、食事つき演奏イベントにおいて、被災ピアノプレイヤーの一人として演奏させていただいている。

 演奏するのは釜石市の唐丹小学校の体育館にあって津波で被災したピアノ。STAY BANK SANRIKUのオーナーが発見した際には、自衛隊による瓦礫撤去が完了した体育館の中で、台車の上で上下逆に置かれていたという。恐らく水抜きのためにそのような置き方をしてくれたのだろう。鍵盤は塩で固まって1音も押せない。そのため、元の部品を極力残して修繕され、一度は唐丹小学校の仮設校舎に戻され、校歌の伴奏も奏でた。その後、学校の移転に伴い廃棄が決定され、オーナーの所有となって今に至る。

 弾き心地は、やはり普通のピアノとは違う。多くの鍵盤は打鍵の際、はっきりと抵抗があって押しづらい。ある音は残響が消えない。べつの音は金属音交じりでペダルでも音が伸びずにかすれて消える。ある黒鍵は令和8年5月の演奏会中にグリッサンドで取れてしまい、セメダインで付け直している(以来、黒鍵グリッサンドは封印)。
 聴かせる音を出すためには、鍵盤を意識的に真上から、芯を捉えて打鍵する必要がある。ただし、最も大切だと感じることは、こちらがいくら工夫しても思ったような音が鳴らないかもしれないことを、常に覚悟して順応しながら演奏することと感じている。傷を負ったピアノはどうしても音色のコントロールの幅が狭い。無理に音を出そうとしていたずらに打鍵を強めると、意図せざる暴力性が音に宿ってしまう。

 こうしたことを踏まえると、技術面・精神面で、このピアノで弾きたい曲は自然と絞られていく。実際に被災ピアノで演奏したいくつかの曲について、感想を書いておく。

・間奏曲op.118-2(ブラームス)
 10年以上弾き続けていて、演奏する曲に困ったときはとりあえず引っ張り出す作品である。内向的で抒情性が豊かな、大好きな作品。
 被災ピアノでの演奏に際して特筆すべき点は今のところ2つ。
 まず、曲の「A-B-C-B-A」構成の折り返しにあたる「C」パートは、静謐な祈りのような和音で構成される。このパートで最も被災ピアノの傷の質感が露わになる。傷を負った祈り。そのハードな響きを音楽の中でどう聴かせるか。演奏のたびに試行錯誤をしている。
 また、この被災ピアノは基準ドの1オクターブ上のファ#の音が非常に出しづらい。音は金属的に掠れ、ペダルでも伸びない。この音は最終版のフレーズの最高音であり、アクセントもつけられている。穏やかなうねりの最後の波頭。フレーズの流れに深く浸り、鳴らない鍵盤の彼方に願いを放すように、存在しない曲線を点線でなぞるように弾く。

・ラルゴ(ショパン)
 「Boze, cos Polske(神よ、ポーランドをお守りください)」という曲のメロディをもとに作曲された、短いミサ曲である。作曲者の祖国ポーランドがロシアの侵略を受ける中で作曲された。
 すべての音に重厚感が求められ、逆に言えば重い打鍵が許されるため、打鍵面では被災ピアノでの演奏に非常に向いていると感じる。また、被災ピアノは鉄筋コンクリートのホール状の空間に置かれており、反響が非常に強くダイレクトに来る。その面でも、音に強い広がりが与えられ、祈りの荘厳さが増幅される。お客様方の食事の手を止めてしまいがちで申し訳ないが、お祈りの時間と思って2分前後どうかご辛抱願いたい。

・即興曲op.90-3(シューベルト)
 曲を通して、右手をオクターブに開いて分散和音の中から小指で主旋律を浮かび上がらせていく。深呼吸のようにたゆたう主旋律の裏で内声のハーモニーが素早く遷移する、立体感に浸れる構造である。右手を常に開いていると垂直な打鍵が困難となるなどの理由で、このピアノとの相性は非常に悪い。それでも、この曲は被災ピアノで最も多く弾いている。曲調が極めて瞑想的で、ピアノの状態や演奏者の心模様、ピアノと演奏者の対話の様子を実況するメディアとして機能しうるものだからだ。
 主旋律を奏でる右手小指に重心を預け、フジコ・ヘミングの音色を思い浮かべながら、打鍵の重さと歌心を意識的に強める。意識が主旋律に寄って、分散和音や左手のベースが乱れだすのを、できるだけ早く察知して抑制する。それでいて、フレーズが大きく穏やかな流れに乗るように、呼吸を整えながら先に進む。全身と心に遍く注意を払いながら前に進む。足場の悪い泥沼や林地残材の上を歩く感覚にも少し似ている。
 被災ピアノでこの作品を乗りこなすのは困難であり、かつ手ごたえのある挑戦であるだけに、継続的に弾いていきたい作品である。

・人生のメリーゴーランド(久石譲)
 オーナーが被災ピアノの「課題曲」としている作品である。ピアノ雑誌の付属楽譜を主旋律と伴奏に分け、伴奏をピアノで、主旋律を他の様々な楽器でセッションできるようになっている。ピアノ伴奏ができる人がいれば、いろいろな楽器を演奏できるお客様とすぐにセッションが成立することを目指している。これまで、ピアノ伴奏として、ヴァイオリン、エアロフォン(様々な楽器の音を出せる電子楽器)、アルトサックス、チェロとセッションした。
 有名でポップかつ深みのある、絶妙な選曲だと思う。楽しげなメロディーを止めないまま、ひとの中にある時間の重なりを映し出していく。
 STAY BANK SANRIKUの空間はコンクリートの破損面がむき出しになっていたり、演奏不可能な被災ピアノの残骸が展示されていたりする。夜になって自然光がなくなると、ミニマルな暖色照明によって、ものの色や形が非常にシャープに見えてくる。こういう環境での演奏は没入感があり、セッションの共感も深くなる気がする。

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