赤いリンゴを見る
精神医学では心は脳だと考えていることをふまえ、かなり哲学的な話を。
「赤いリンゴを見る」ことについて考えたい。
素朴に考えると、目の前に客観的にあるリンゴを俺の目の網膜が捉え、その光のデータが脳内の視覚野に送られ情報処理されることで、俺が主観的にリンゴを見る、となる。
哲学的に考えると、この図式ではまずいらしい。
この図式では、「見る」という情報処理をする主体が無限後退してしまい、「見るとは何か」が一向に判明しないからだ。脳内で小人=ホムンクルスが見ているとはいえない(下図)。

『生成と消滅の精神史』(下西風澄 著)によれば、この「ホムンクルスのパラドックス」を解消する方向性は、フランシスコ・ヴァレラの身体性認知科学において出ているという。
人間の視覚における認知を考えるとき、まず眼球を通じて入ってきた光のデータは網膜細胞が受け取り、その情報は視床後部にある神経核「外側膝状体(LGN)」へ送られる。さらにその情報が脳の後頭部にある第一次視覚野に送られることで視覚が実現される、という視覚経路によって説明される。しかし実際には、網膜細胞からの情報はこのLGNが受け取る情報のうちの二〇%ほどにすぎないとヴァレラは説明する。LGNの受け取る視覚に関する情報のおよそ八〇%は脳内部の複雑で緻密なネットワークを通じた回帰的な情報である。すなわち視覚において認知システムは、外界の光のデータをそのまま復元するように視覚を達成しているのではなく、自らのシステム内部のネットワークで自己生成するデータの組織化構造に外界のデータを刺激として取り込むことによって視覚を実現している。
つまり、目に直接入ったリンゴの光のデータ量は、自分が感じているリンゴの視覚像を実現させている情報全体の、ほんの20%程度しかないということだ。
それ以外大部分の80%(脳内部の複雑で緻密なネットワークを通じた回帰的な情報/自らのシステム内部のネットワークで自己生成するデータの組織化構造)とは、どんな情報なのか?
著者は明示していないが、その意を汲み取るとおそらく次のようになる。
右目と左目の光のデータのずれを処理した情報(奥行)
リンゴを持つ手が受けている重量感覚の情報
リンゴを上下左右に動かす際の光のデータの変化および手を動かす身体感覚の変化を処理した情報
二年前リンゴ園に行ってリンゴをもいだ時の記憶情報
等々。
視覚に限らず俺たちの認知が身体のこうした能動的な行為により構造化され成立していることを、メルロ=ポンティの現象学がかつて提起していた。それを参考にヴァレラは、心とは身体行為によって世界と関わることで生成させていくものだと考えた。
リンゴの赤い色合いは、世界の側に赤という情報が客観的に存在し、それを脳が表象しているのではなく、私がリンゴを手に取りながら目の前で動かし、光の反射の変化パターンを学習し、それを何度も反復していく過程の連説として、認知システムと環境のカップリングに基づいて歴史的に形成された、固有の情報量と関係性から知覚された質感である。
すなわち、「赤いリンゴを見る」とは、過去の身体記憶と現在の身体情報を総動員し、俺の身体全体でリンゴを体感することなのだ。
(807/1384字)
このエッセイについて
作者意図
課題本は自著でした。ので、本を書いたときには書ききれなかった内容を書いてみようと思いました。この本の出版企画書を出版社に送ってくださった城村先生が、「脳内で起きていることについての考察を書いたらどうか」と仰っていたことが私の心にずっと残っています。今年6月にもこのテーマでエッセイを書きましたが、さらにブラッシュアップしたいと思いました。
精神医学では、心は脳の機能だという前提で薬物療法を行います。その一方で、薬と同程度の効果がある精神療法もあり、最近では薬を使わないオープンダイアローグという「開かれた対話」による治療法も注目されています。私たちは、ともすると薬物療法と精神療法とを対立するものだと考えてしまいますが、臨床の現場では両方とも使われています。唯物論的な薬物療法と唯心論的な精神療法は、なぜ両立するのでしょうか? 最良の哲学には、それを可能にする根拠を与えるものがあります。その哲学について、「赤いリンゴを見る」を素材に書いてみました。
完成までの経緯
この作品は第1稿です。
11/13(木)に、それまでに読了していた参考図書『生成と消滅の精神史』を振り返り、アイデア出しをしました。本のどの部分を引用するのが良いかの検討です。「赤いリンゴを見る」を素材にできそうだという感触を得ました(60分)。翌日、第1稿を書き始めました(85分)。一日空けて11/16(日)に第1稿を完成させました(190分)。その翌日11/17(月)に仕上げました。自著とのつながりを明確にし、さらに表現を調整しました(65分)。
今回は、引用部分がやむを得ず長くなったので、800字という制限については、引用部分以外の地の文を800字前後にする、ということにしました。ご容赦願います。
