理想的・完璧な従業員とは?
学習する組織を目指すとき、理想的・完璧な従業員がそれを困難にするらしい。
俺が思い浮かべる理想的な従業員とは、持ち上がるどんな問題に対してもマネジャーの手を煩わせることなくやすやすと対処できる人かな。大騒ぎすることなく黙ってミス(自分のも他人のも)を直す、何でもそつなくこなす、組織やそのプロセスに全力を注ぐ、そんなイメージだ。意外にも、そういう従業員は実在するという。大きな組織なら、精力的に仕事に取り組みしかし出しゃばることのない人物が何人かはいるのだ。けれども、俺もかなりビックリしたんだけど、本当に問題になるのは、そういう理想的な従業員は組織が学習するのを困難にしてしまうことだというんだ。
ちょっとショックを感じた。俺は理想的・完璧な従業員を目指してきて「結構やれている」なんて思っていたからさ。盲点を突かれたと思ったよ。ただふと「そういえば」と気づいた。ピア・カウンセリング集中講座でリーダーが語った言葉を思い出したんだ。
私たちは完璧だ。何でもやれる。もちろん障害があるし、自分のスキルだけではできないことも多い。そのときは誰かに教えてもらうし助けてもらう。それでその課題を解決する。ね、完璧じゃん。
ふつう理想的・完璧な従業員といえば、マネジャーの手を煩わせることのない人を意味するよね。だけどリーダーの言う完璧は違った。自己完結せず他人に開かれ力を借りることが前提だった。そしてこれが大切だと思ったのが、完璧の条件として協力者の力を引き出すことにポイントがあったことだ。他人を巻き込みその人の力を引き出すからこその完璧なんだ。
リーダーは(そして俺も)障害者だ。障害者はできないことが当たり前にある。だから一般的な自己完結する完璧主義を持っていては生きられない。だからこそリーダーは、人に開かれ協力し合うことを包含した完璧を語ったのだと思う。
そんな従業員でこそ学習する組織が作れるに違いない。
(800字)
このエッセイについて
作者意図
課題本は重厚でしたがなんとか読了しました。読書中にショックを受け、それに関連して自分の体験したエピソードが思い出された部分を取り上げました。一般的に理想的・完璧だとされる自己完結した従業員のイメージと、ピア・カウンセリング講座のリーダーが語った完璧さのイメージとを対照的に描こうと思った次第です。
完成までの経緯
この作品は第3稿です。
課題本は7月終わりまでに入手しました。8/13頃から5日間くらいかけて読了しました。8/18にアイデアをスマホのメモ帳に箇条書きしておき、8/20にエッセイとして約1.5時間をかけて書き上げました。
その後、第2稿を書こうと思い二日間寝かせ、8/23に原稿を見直しました。何か改稿すべきところはないかと思案しましたが、何も思いつかず、文言を少し微調整しただけで第1稿のまま完成としました。
ちょっと休憩と思ってYouTubeの動画を観ていたら、「『涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベルがいかに素晴らしい文学作品なのか」ということをプレゼンしていました。「そんなに言うんなら」と思ってamazonを覗いたらkindle unlimitedで読めることがわかり、入手しました。冒頭が主人公の独白で始まるのですが、「俺」を主語にして語るその語り口が、私がときどき「俺」を主語にしてエッセイを書くときの語り口とそっくりで少しびっくりしました。
「そうだ、今回のエッセイを『俺』で語ったらどうなるかな?」と思いつき、書き直してみました。「私」を「俺」にして、ところどころを「俺」という主語が語る言葉らしい言い回しに変更しました。それで第2稿が完成しました。
第2稿を完成させた8/23夜、寝ているときに、「エッセイ内に引用部分が二つあって、始めの方は字数もかなり多い。引用個所が二つもあるのは、エッセイとして面白みに欠けるかもしれない」と気づきました。そこで、一つ目の引用部分を自分の語り(地の文)として書き換えました。締切日8/24の午後です。そうやって完成したのが第3稿です。
