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36の魔法・ 軍師と絵師の奇妙な関係 - - 言葉遊びの遊悠エッセイ

  竹林の奥で密談する、軍師の低く鋭い声。
 波しぶきが顔にかかりそうなほど激しい、北斎の青い海。

  「兵法三十六計」と「富嶽三十六景」。

  時代も場所も異なるこの二つの情景を、細い一本の糸のように結びつけている数字があります。

  調和と波乱の数、『36』。

 完璧な丸でもなく、尖った角でもない。36という数字には、人間が作り出した『分類の美学』が詰まっています。

 すべてを網羅したいという欲望と、網羅しきれなかった余白。そんな人間臭いドラマが、古典の名作には隠されています。


 まずは、少しだけ頭の中を整理してみましょう。

 「兵法三十六計」は、いざという時のための「裏技」を36パターン集めた、いわば人生のカンニング竹紙で「戦術の極意」。そして「孫子」は、戦わずして勝つことを理想とした「戦略の王道」。

 対するは、葛飾北斎の「富嶽三十六景」。言わずと知れた、浮世絵の王様です。

 一方は、敵とどう戦うか。もう一方は、富士をどう愛でるか。まるで正反対のベクトルのように見えますが、実はこの二つ、根っこの部分で「36」という数字の魔力に憑りつかれている点では、双子のような存在なのです。


 そもそも、なぜ「36」なのでしょう。

 数学の世界では、36は非常に座りのいい数字です。6を2回かければ正方形になり、1から8までを順番に足していけば、綺麗な三角形の形に並べることができます。

 古今東西、人間は「収まりのつかない混沌」を整理するために、この調和の取れた数字を愛してきました。

  「これだけあれば、この世のすべてを説明できる」

という、ある種の完結への祈りが、36というパッケージには込められている気がしてなりません。

 「兵法三十六計」が戦場のあらゆる難局を36通りに分けたように、北斎もまた、富士山という一つの存在を36の視点で解剖しようとしました。ある時は建築現場の職人の股の隙間から、ある時は、逆巻く怒濤の向こう側に。
 彼らに共通していたのは、「網羅したい」という圧倒的な執念です。


 ここで、少し突飛な話をします。
 実は、葛飾北斎という人は、絵師の皮を被った「軍師」だったのではないか、と思うのです。

 彼の代表作「神奈川沖浪裏」を思い出してください。あの巨大な波は、ハイスピードカメラもない時代に、波の砕ける一瞬を完璧に捉えています。でも、現実にあんな形の波は立ちません。彼は、見る人の視神経がどう反応し、どう驚くかを計算し尽くして、視覚的な「罠」を仕掛けたのです。

 自分の名前を何度も変え、転居を繰り返し、常に自分を新鮮に見せるマーケティング手法。これはまさに、三十六計にある「金蝉脱殻(きんせんだっかく)」 - - 蝉が抜け殻を残して飛び去るように、正体を隠して敵を翻弄する計略そのものではありませんか。
 北斎は、江戸の街という戦場を、筆一本で攻略した戦略家だったのです。


 しかし、この二つの物語には、さらに面白い「オチ」が用意されています。

 「三十六計、逃げるに如かず」。

 どんなに緻密な戦略を立てても、ダメな時は逃げるのが最善である。この潔い諦めが、一番最後に控えている。

 一方で、北斎の「三十六景」はどうだったか。

 実は、あまりにも売れすぎて、後から10枚も追加されています。結局、46枚になってしまった。
 「36で完璧だ!」と豪語しながら、いざとなれば逃げ出し、あるいは人気に負けて増築してしまう。この、理論からはみ出してしまう人間臭い「揺らぎ」こそが、私がこの二つを愛してやまない理由なのです。


 私たちは、完璧な正解を探して、今日も36の選択肢を迷いながら生きています。

 仕事で窮地に立たされたら、兵法の知恵を借りて、こっそり逃げ道を確保すればいい。
 心がささくれたら、北斎の描いた富士を眺めて、世界の広さを思い出せばいい。

 36という数字は、単なるカウントではありません。それは、私たちがこの複雑な世界を乗りこなすための、ささやかで、かつ壮大なサバイバル・ガイドなのです。

 今度、あなたの目の前に「36」という数字が現れたら・・・

 それは、軍師の微笑みか、

 あるいは老絵師の悪戯っぽい目配せか。


【注1】『孫子の兵法』と『三十六計』は、いずれも中国古代の軍事思想を代表する傑作ですが、その性質や成立背景には大きな違いがあります。
 (1) 孫子の兵法
  紀元前5世紀頃、呉に仕えた軍略家・孫武によって記された世界最古かつ最高の兵法書。
 (2)三十六計
  中国に伝わる様々な計略を36通りに分類・編纂したもので、南北朝時代の歴史書などにその源流が見られる。

【注2】「三十六」という数は、完全性・まとまり・象徴的区切りとして古代中国や仏教文化でよく使われ、日本でもそれが受け継がれています。
  ・芸術・文学(古典)
   富嶽三十六景、三十六歌仙、三十六家集
  ・仏教・宗教
   三十六童子、東山三十六峰
  ・歴史・思想・兵法
   三十六計、西域三十六国
  ・占い・陰陽道・民俗
   三十六禽、三十六神将
  などなど

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