「忖度」の正しい取扱説明書、空気を読んだ優しさの形 - - 言葉遊びの遊悠エッセイ
居酒屋の大皿に、ポツンと残された最後の唐揚げ一つ。
誰もが食べたいと思っているのに、誰も手を伸ばさない。誰かが
「これ、食べないの?」
と声をかけると、
「あ、どうぞどうぞ」
と譲り合う。あの数秒間に繰り広げられる無言の探り合いこそ、私たちの日常に根深く息づく「忖度」の正体なのかもしれません。
2017年あたりからでしょうか。ニュースの画面でこの言葉を見ない日はなくなりました。権力者の顔色を窺う裏取引だとか、保身のためのゴマすりだとか、なんだか黒くてドロドロした悪役のイメージがすっかり定着してしまった感があります。
でも、ちょっと待ってください。この言葉、本来はそんなに意地汚いものだったのでしょうか。
漢字をじっくり眺めてみます。
「忖」は心に寸を当てる、つまり手尺で慎重に人の心を測るという意味です。「度」もまた、物差しで推し量ること。二つ合わさると「相手の気持ちにそっと定規を当てて、心を汲み取る」という、拍子抜けするほど繊細で丁寧な動作になります。
ルーツを辿れば、中国最古の詩集『詩経』にまで行き着きます。
「他人に心あれば、予これを忖度す」
とあり、もともとは誰かの悲しみや苦労を静かに思いやる「優しさの極致」を表す言葉でした。夏目漱石が小説の中で使っていた頃も、純粋に相手の意図を察する綺麗な意味だったのです。
それがいつの間にか政治の舞台で
「指示は出していない、勝手に察しただけだ」
という都合の良い免罪符に使われ、すっかり悪者にされてしまいました。
なんだか言葉自体が少し可哀想になってきます。
海外の言葉に目を向けてみると、これがまた面白い。
英語で忖度を表現しようとすると、せいぜい
「Read between the lines」
(行間を読む)
や
「Anticipate needs」
(ニーズを先回りする)
あたりでしょうか。
政治的なニュアンスを込めるなら
「Play politics」
(世渡りをする)
になります。
つまり、英語圏には「相手の状況を完璧に察し、指示される前に先回りして動き、万が一の時は責任までそっと被る」という、日本的な高度な暗黙知を一言で言い表す単語が存在しないのです。
ここで少し、突飛な想像をしてみましょう。
完璧な論理と思考を持つシリコンバレー生まれの最新鋭AIが、オフィスに派遣されてきたらどうなるか。
疲れ切った上司が
「あー、あの件、適当によろしく」
と呟いたとします。
最新AIは即座にフリーズするはずです。
「『適当』の数値的定義が不明確です。エラーです」
と画面を赤く点滅させるかもしれません。
ところが、日本のベテラン社員は違います。
「部長は昨日奥さんと喧嘩していたから機嫌が悪いな」
「明日は役員会議だから、A4用紙1枚でサクッと読める短めの要約を求めているはずだ」
脳内のスーパーコンピューターをフル回転させて、指示されていない完璧な回答を導き出してしまうのです。
忖度とは、人間という曖昧な生き物が、言葉の足りない社会を円滑に回すために編み出した、地球上で最も高度なローテク・AIなのかもしれません。
自分の保身や権力者に媚びるために使う「悪魔の忖度」は感心しません。責任の押し付け合いを生むだけですし、組織をダメにします。
でも、相手を思いやり、ギスギスした現場の摩擦を減らすために使う「天使の忖度」なら、もっと胸を張っていいと思うのです。
言葉にされない思いを汲み取り、先回りして差し出すおもてなしの心。それは、文化が生み出した一つの優しさの形でもあります。
居酒屋の最後の唐揚げを、そっとトングで半分に切って「半分こにしません?」と差し出す。
少し疲れた顔をしている同僚のデスクに、何も言わずに温かい缶コーヒーを置いてみる。
そんな「小さな天使の忖度」を一つ発動させてみるのも、悪くないかもしれません。
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