キャッシュレス社会の価値観・財布よりも電池が命 - - ITと技術のよもやまばなし
令和の一文無しは充電0%から始まる
夕方のラッシュで賑わう駅の自動改札機前。文字通り「凍りついている」ビジネスマンがいました。
スマホを改札にかざした瞬間に画面が暗転し、そのまま微動だにしない。後ろには長い列。彼はポケットやカバンをさぐった末、あきらめて列から外れていきました。
その時の、世界から拒絶されたかのような寂しそうな背中。
電子マネーのチャージが不足していたのでしょうか。自動チャージもできない様子。銀行口座には、それなりの残高があったはずです。それなのに、手元のガラスの板が光を失っただけで、電車にも乗れない「一文無し」になってしまったのです。
キャッシュレス社会。確かに便利になりました。
小銭でポケットをジャラジャラさせる必要はありませんし、スマートに会計も済ませます。
けれども、私たちは本当に自由になったのでしょうか。むしろ、財布という物理的な束縛から逃れた代わりに、バッテリーという目に見えない鎖に繋がれただけではないのか。
そんな気がするのです。
「1万円札」から「リチウムイオン」へ
人類の取引の歴史は、要するに「価値の軽量化」の歴史でした。
大昔の物々交換から始まり、重い貝殻や金属を使い、やがて国家の信用を載せた「紙切れ(紙幣)」が発明されました。
そして現代、貨幣はついに「電子」という、重さすら持たない情報へと究極の進化を遂げたのです。
高級ブランドの長財布を持つことがステータスだった時代は、あっさりと過去のものになりました。今、ビジネスの現場で最も頼りになるのは、仕立てのいい財布ではなく、カバンの底に忍ばせた10000mAhのモバイルバッテリーなのです。
ですが、ここに技術の皮肉があります。
スマートフォンは薄くなり、処理速度はパソコン並みになりました。それを動かしているのは「リチウムイオン電池」。これは、基本的には10年以上前から構造が変わっていないアナログな化学反応なのです。
アプリが便利になり、セキュリティが強固になり、画面が美しくなる。そのたびに、スマホの裏では猛烈に電力を消費していきます。決済アプリを開くだけでも、暗号化通信を行い、生体認証を起動し、位置情報を確認している。
つまり、システムが賢くなればなるほど、自らの命の炎を激しく燃やし尽くしている状態なのです。
単一障害点としてのスマートフォン
ITの世界には「単一障害点(SPOF)」という言葉があります。
そこがたった一つ壊れるだけで、システム全体が完全に停止してしまうアキレス腱のような場所のことです。
現代のキャッシュレス社会における最大の単一障害点は、まさに個人のスマホの「電池残量」なのです。
金融機関が何千億円もの巨費を投じて堅牢なクラウドシステムを構築し、24時間365日絶対に落ちないサーバーを用意したとします。通信キャリアが日本中に基地局を建てて、電波を網の目のように張り巡らせます。
一方で、ユーザーの「昨日、充電ケーブルを挿し忘れた」とか「動画を見すぎて残り3%」という、あまりにも個人的でアナログな理由で、その巨大な決済システムは1円の価値も移動させることができなくなるのです。
技術者たちがどれほど知恵を絞っても、最後の最後は「化学反応の残量」にすべてを握られている。
これほど間の抜けたパラドックスがあるでしょうか。
ビジネスの現場でも、この力関係は顕著です。
出張先での割り勘、タクシーの支払い、急な連絡。すべてがスマホに集約されています。その結果、名刺入れを忘れるよりも、USBケーブルを忘れる方が致命傷になるのです。
「すみません、スマホの充電が切れてしまって」という言い訳は、現代ビジネスにおいて「財布を家に忘れました」と同義。あるいは、それ以上に「自己管理能力の欠如」として冷ややかに受け止められかねません。
私たちはスマホを便利な道具として飼い慣らしているつもりです。しかし実はスマホのバッテリー残量に一喜一憂し、カフェに入る基準を「コーヒーの味」ではなく「コンセントの有無」で決めている。
どちらが主人で、どちらが召使いなのか、分からなくなってきます。
物理貨幣という、最強のレガシーシステム
スマホの画面が暗くなるたびに、ポケットの中の古めかしい「革財布」の偉大さを思い知らされます。
電源不要。通信不要。OSのアップデートもいらなければ、ハッキングの恐れもありません。24時間365日、メンテナンスフリーでいつでも100%確実に稼働する。これほど完成された、耐障害性の高いシステムが他にあるでしょうか。
私たちはデジタルという最先端の波に乗っているつもりで、実はとても脆い氷の上を歩いているのかもしれません。
スマホの機嫌を損ねてしまったときのために、スマホケースの裏側にそっと「折りたたんだ千円札」を忍ばせておく。
最先端のIT技術に囲まれた現代を生き抜くための、これが案外、最もスマートで、最も美しいバックアップなのかもしれません。
あなたのスマホのバッテリー、帰りの電車まで持ちそうですか。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!