「スキルアップ」という脳内ファンファンーレが鳴り響く - - 言葉遊びの遊悠エッセイ
「スキルアップ」という言葉は、現代ビジネスが生み出した最も残酷で、最も成功した宗教なのかもしれません。
私たちは自ら進んでお布施を払い、自ら進んで修行を課す。そして、誰も到達できない「理想の自分という神」を追いかけ続けているのですから。
平日の夜、疲れ果てて滑り込んだカフェ。隣の席から、こんな声が聞こえてきました。
「やっぱりタイパを意識してスキルアップしなきゃ」。
声の主は、スーツのネクタイを少し緩めたビジネスマン。その隣では、IT技術者とおぼしき若者が、ノートPCの画面を睨みつけながら
「モダンな技術スタックにキャッチアップしないと生存権がない」
と呪文のように呟いています。
なぜ私たちは、ほっと一息つくための空間でさえ、見えない何かに追われ続けなければならないのでしょうか。
現代社会はまるで、全員が動く歩道の上を逆向きに走らされているかのような、妙な切迫感に満ちています。
ここで時計の針を途方もなく巻き戻してみましょう。私たちが毎日のように口にする「スキル」という言葉の故郷へ。
スキルのルーツを探っていくと、かつてヨーロッパの北の海を航海していた古ノルド語、つまりバイキングたちの言葉に突き当たります。
彼らが使っていた「skil」という言葉の本質的な意味は、何か技術ができることではありませんでした。それは、「区別する」「見分ける」「判断する」ということだったのです。
霧深い海の上で、どの波が危険かを見分けること。どの交易品が本物かを区別すること。つまり、本来のスキルとは、あれもこれもと手札を増やす「足し算」の行為ではなく、「これは要る、これは要らない」と容赦なくふるいにかける「引き算」の知恵だったはずなのです。
それなのに、現代の私たちはどうでしょう。
資格をコレクションし、ビジネス書を乱読する。まるでドラえもんのポケットのように、便利グッズを詰め込もうとしています。
これでは見分けるどころか、荷物の重みで身動きが取れなくなってしまいます。
そもそも、この「スキルアップ」という言葉自体が、日本人が得意としてきた和製英語の系譜にあります。
昭和から平成にかけて量産された「バージョンアップ」や「イメージアップ」と同じ、ドメスティックな造語なのです。
海外のビジネスシーンで「Skill up!」と真顔で言うと、相手は少し困惑した顔をするかもしれません。なぜなら英語圏において、その表現はリアルなビジネスではありません。完全にSFやファンタジーのゲーム世界で使われる言葉だからです。
もしも私たちの現実が、彼らの想像するような「SF的なゲームの世界線」に迷い込んでしまったら、一体どうなるでしょうか。
深夜のオフィス。徹夜でプログラムの不具合を直し終えた瞬間、頭の中でゲームのレベルアップ音が鳴ります。
「ピロピロー♪ 〇〇は複雑なシステムを効率よく動かす方法を覚えた! 対応力が5上がった!」
翌朝のミーティングでは、上司がホログラムのステータス画面を見つめながらこう指示を出すのです。
「君もそろそろ中堅なんだから、余ったスキルポイントは『理不尽な仕様変更への耐性』と『大人のスルー技術』に極振りしておいてくれよ」
なんだか急に、日々の泥臭い労働が馬鹿馬鹿しく、そして少し愛おしく思えてきませんか。私たちはゲームのキャラクターではないのに、なぜか人生のステータス画面をレベルアップさせようと必死になっているのです。
日本におけるこの言葉の変遷を振り返ると、かつては前向きな自己投資の響きを持っていました。
しかし令和の今、それは「やっておかないと市場価値が落ちて社会から振り落とされる」という、ある種の生存泳法へと変質してしまいました。
最近では、美味しいコーヒーの淹れ方を学ぶことさえ「コーヒーのスキルアップ」と言ったりします。趣味の領域までビジネスのロジックで回収しようとするあたり、私たちの呪縛はかなり深いところまで達しているようです。
そろそろ、この息苦しい呪縛から逃れてみませんか。
古き北欧の民が教えてくれたように、本当のスキルとは「見分けること」なのです。
世間が煽る「あれもこれも」という声に耳を貸すのをやめて、「自分にはこれは必要ない」と静かに切り捨てること。
それこそが、この複雑な現代を生き抜くための、最も洗練された技術なのです。
今度の週末くらいは、スキルアップのためのグッズを片付けて、ただぼーっと冷えたビールでも飲みませんか。
何も生産しない、何も向上させないその時間を豊かに味わうこと。それこそが、私たちが今最も発動すべき、極上の「skil」なのですから。
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