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16日:倉庫裏、夏の終わりの残像


1. 繰り返される「16日」

カレンダーの「16」の数字を指でなぞる。それはもう、アキラにとって単なる日付ではない。ある種の呪縛であり、同時に、一年に一度だけ過去の君に触れることを許される聖域でもあった。

外はあいにくの低気圧だ。窓を叩く雨粒が、アスファルトの熱を奪い、重たく湿った空気を街に充満させている。普通なら家でやり過ごすような悪天候だが、今日だけはそうはいかない。アキラはクローゼットの奥から、丁寧に畳まれた紺色の浴衣を取り出した。

5年前、君が「絶対アキラに似合うから」と笑って選んでくれたものだ。生地を手に取ると、かすかに古い綿の匂いと、記憶の底に沈んだはずの夏の気配が立ち上る。

2. 変わらない景色、変わった二人

車を走らせ、港の端にある倉庫裏へと向かう。かつて二人で「秘密の特等席」と名付けた、古びた防波堤。

5年前のあの日も、アキラたちは車の中にいた。窓の外は今日と同じような土砂降りで、フロントガラスを叩く雨音のせいで、カーステレオの音楽さえ遠く聞こえた。「こんな雨じゃ、花火なんて上がらないよ」とぼやくアキラに、君は「上がるよ、意地でも。私が見たいんだもん」と、わがままな子供のように言い張った。

結局、花火は上がった。雨を切り裂くようにして打ち上げられた大輪の火は、湿った空気の中でいつもより鮮やかに、そして残酷なほど短く消えていった。

「来年も、その次も、ここで見ようね」

バックミラー越しに目が合った君の瞳は、花火の光を反射して、まるで生き物のようにギラギラと輝いていた。あの時の君の、世界をすべて自分のものにできると信じて疑わないような「青い」真っ直ぐさが、今のアキラには眩しすぎて、少しだけ苦しい。

3. 降りしきる雨と「夏火」

現在の防波堤には、アキラの車以外に人影はない。エンジンを切り、窓を少しだけ開けると、潮の香りと雨の匂いが混ざり合って流れ込んできた。

アキラは車から降り、雨の中に立った。傘も差さず、君にもらった紺の浴衣はみるみるうちに雨を吸い、重く肌に張り付いていく。それでも構わなかった。こうして全身で雨を感じていなければ、記憶の中の君に飲み込まれてしまいそうだったからだ。

遠くの空で、鈍い音が響いた。

「夏火(なつび)」が始まった。低気圧の重い雲に遮られ、本来の輝きを奪われた花火たちが、それでも抗うように空を焦がす。雷鳴(イカヅチ)が空を切り裂き、その閃光と花火の光が混ざり合う。

アキラは、大きく目を見開いてそれを見つめ続けた。雨粒がまつ毛を濡らし、視界がぼやける。まるで水底から空を見上げているような感覚だ。

ふと、車の後部座席に気配を感じて振り返る。

そこには、濡れた髪を拭きながら、悪戯っぽく微笑む君が座っているような気がした。輪郭はぼやけ、透き通っているけれど、確かに君の「青いわがまま」がそこにある。 「ほら、言ったでしょ? 雨でも上がるんだってば」 幻聴だとわかっていても、アキラはその声に頷かずにはいられなかった。

4. 吹き抜ける秋の予感

花火のフィナーレが終わり、あたりに濃厚な煙の匂いと静寂が戻ってきた。 あんなに熱を帯びていた空気は、いつの間にか冷たさを増している。風が変わったのだ。

さっきまでの、肌にまとわりつくような不快なぬるさは消え、首筋を通り抜ける風に「秋」の鋭い気配が混じり始めた。それは、無理やり止めていたアキラの時間を、容赦なく動かそうとする風だった。

「今年も、会えなかったな」

独り言は、波の音に消えた。 思い出は空回りし続け、君を、そしてあの輝いていた夏を、遠い場所へと連れ去っていく。君が座っていたはずの後部座席には、もう誰もいない。ただの暗がりに、冷えた空気が溜まっているだけだ。

5. 霞みゆく夏、突き抜ける想い

車に乗り込み、暖房を入れる。浴衣から滴る雨水がシートを濡らすが、それさえも愛おしい証拠のように思えた。

窓に広がる景色が、次第に霧で見えなくなっていく。 思い出が霞んでいく。それは、君という存在がアキラの中から消えることではなく、ようやく「過去」という正しい場所へ収まろうとしているサインなのかもしれない。

風はやっと秋を呼び、アキラの胸の中に溜まっていた湿った執着を、突き抜けるようにさらっていく。

「さよなら、わがままだった僕たちの夏」

アクセルを踏む。ミラーに映る倉庫裏の防波堤は、雨の向こうへと遠ざかっていく。 来年の16日、アキラはまたここに来るだろうか。それとも、新しい季節のどこかで、この浴衣を静かに畳んでしまうのだろうか。

ただ一つ確かなのは、車を走らせるアキラの頬を打つ風が、もうあの夏のものとは違う、凛とした秋の冷たさを帯びているということだけだった。


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