掌編 その窓はささやかに抵抗している
スタジオで化粧品メーカーの撮影を終えた僕は、クルーが帰った後、一人でデータチェックをしていた。
ギャラがいいだけで受けた仕事だった。最近は男性モデルを起用することも多く、ルッキズムはNGでもヴィジュアルは大事という奇妙な心理戦に画策しているようで気が乗らない。今日もツルりとした中性的なハーフの男性を撮った。会話は弾まず、シャッターを切る瞬間に生まれるライブ感は最後までやってこなかった。
タバコを取りに立ち上がるとテーブルに置かれた一冊の写真集が目に飛び込んできた。忘れ物だろうか。
表紙には湖が映っていた。静かな風景に見えるけれど、どこか妙だ。
透明な水辺に飴色の屋根瓦が浮かんでいる。その連なりの奥には物寂しげな教会の十字架が水面からぽつんと突き出ている。
すぐに水没した地域の写真だとわかった。恐らく多くの建築物が取り壊され川や畑も沈んでしまったのだろう。ごく一部の建物の先端だけが水面から覗いているのだ。
タイトルは『窓辺/アンドレ・デリッチ』。知らない写真家だ。
なぜ『窓辺』なのか? 単にダムで沈む風景を撮っただけのアマチュアだろうとあまり興味が湧かないままページを捲った。
クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナとの国境に近いアルマ村には、かつて慎ましくも平和な村の暮らしがあった。政府がここに発電所とダム建設を発表し、村人が反対したものの計画は遂行され、村は水の底に沈み人々は故郷を去った。
1944-2018/アンドレ・デリッチ
想像していた写真ではなかった。
そこには水没した三〇年間の記録写真と短い文章で、すでに消えてしまった村と人々の悲しく切実な過去が溢れていた。国の一方的な命令で、表向きは村民の同意に基づく開拓という名の〈搾取〉によって失われた土地だ。
アルマ村出身の写真家が残したそれらの記憶は、かつてこんな村があったと言う物語りではなく、ささやかな抵抗と大きな意義を世界に放っていた。
さらに、〝フランスに亡命したひとり娘にいつの日か見せてあげたい〟というデリッチ氏の願いに触れ、ページを捲る手が止まらない。
野バラの咲き乱れる石畳、豊かな果樹園、ベンチで編み物をする老婆、丸々と太った市場の男たち、古めいた教会、高らかに挙げられた罵倒する腕──
その裏にある、はかり知れない歴史の傷が化石のように時間に押込まれることなく写真に息づいている。
彼が撮り始めたのは四十二歳。今の僕と同じだった。
脈々と続いてきた村民の生活や愛する人々を取り巻く風景のすべてが失われる……そんな日が来るなど誰も予想していなかったに違いない。それを丸ごと撮らなければならない運命が写真家を待ち受けていたと思うと、僕は目頭が熱くなった。

写真集の最後の一枚は、窓辺に座る女性の後ろ姿だった。
なぜだろう、これまでの村の記録写真とは雰囲気が違う。大きな窓から注ぐやわらかな光の粒子に包まれたそのフィルム写真に僕は釘付けになった。
ふいにタイトルを思い出した。
『窓辺』に写った女性の視線の先は紛れもなくアルマ村の風景だった。
小高い室内から撮影したのか、漆喰の壁や飴色の屋根、遠くにはうっすらと山脈が見渡せる。
きっと彼の娘だ、と直感した。あえて顔を写さないのは国勢に危ぶまれないための策だったのだろう。
写真は光と闇、両極の世界が必要なのはいうまでもなく、それらの境界を担うのがレンズと言う「窓」だ。デリッチが残したその一枚は、時代の失踪と愛する人との間に自分が立っていることを常に意識していなければ生まれない作品だった。
僕はテーブルに写真集を開いたまま、この風景はもう存在しないという事実にしばらく呆然とした。
長い年月をまなざした慈しみが、自然への畏敬と日常の豊かな営みが、国の力に抗うことのできない無念さが、生命の疼きが、冷静に写されていることに圧倒された。その痺れるような感動は僕と写真との関係に問いを投げかけていた。
僕は二十年以上、写真活動をしてきた。世界を撮り歩き創作に打ち込んだ時期もあったけれど、自己満足作品だといわれ鳴かず飛ばずのままここ数年はスタジオに籠もっている。
世界に通用するような突き抜けた才能がないことは自覚していた。
けれど本当は、デリッチのように被写体にひたむきに向き合う覚悟がなかっただけなのかも知れない。
「すみません」
スタジオのドアが開き、床に一筋の光りを照らしながら先程撮り終えたハーフの男性モデルが入ってきた。
「忘れ物して……」
彼の琥珀色の瞳が『窓辺』に注がれていた。
僕は慌てて写真集を閉じ、手渡した。もう何も見つめるものがなくなって顔を上げると、彼と目があった。
「あの女性、ボクの母なんです」
大事そうに写真集を胸に抱えながら片言の日本語で彼が言った。
驚いた僕に、どうでしたか? という表情で彼が目配せし、黙ってうなずくと、静かな水面に風が波紋を描くように微かな笑みが広がった。
(了)1987文字
花澤薫さんの企画、#一枚の写真から文芸賞 に参加させていただきました✨
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