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掌編  メリーゴーラウンドのある風景

窓からメリーゴーラウンドが見えるアパートメントに滞在したことがあった。イタリアの最東端Wという小さな町だ。ボクはそこでひとりの小説家と出逢った。

メリーゴーラウンドは夏の間だけやって来る移動遊園地のものだった。
クリーム色と赤に塗り分けられた王冠のような屋根がついていて、カタカタとまわる鈍い音と共に、ユニコーンの木馬に乗る子どもの姿がアパートメントの部屋から一望できた。
夜はぼんやりとした白熱球と露天の甘い匂いが人々を誘う気配を感じ、その時の情景と時折聞こえる歓声は映像的な記憶としてボクの胸に焼きついた。

ヨーロッパ各地を撮影しながら根無草のような生活をしていたボクは日本では考えられないような変わった風習には慣れていたけれど、遊園地が窓から一望できるなんて初めてだ。

窓にはカーテンがついていないことが多く、鎧戸やブラインドがあっても日中は開けっ放しでシエスタ中も部屋の様子が丸見え。この町の人たちは他者からどう見られようとお構いなしで、自分を隠そうとしないのだ。
他人の人生に関心を寄せないこの土地の習性は、人が好きなくせに人間関係が苦手なボクにとって妙に居心地がよかった。

コの字型の建物の真ん中には中庭があり、ボクの部屋から真正面のようすがよく見えた。窓辺に赤いゼラニウムが飾られたその部屋には男性がひとりで住んいるようで、ダイニングテーブルと椅子が一脚、紙の束とペンが整頓されていた。
室内の壁には、大きく引き延ばされたモノクロ写真がかかっており、ボクはそれがずっと気になっていた。写っているのは誰かわからない。ポスターほどの大きさに引き伸ばされた子どものポートレイトだった。

窓を開け放つとき、無意識のうちにそのポートレイトに焦点を合わせていた。美しい顔立ちの男の子だった。写真に撮られることに慣れておらず、ちょっと拗ねたようにレンズを睨んでいる表情が印象的だった。
きっと白人の子だ。モノクロなので色素の薄い髪や瞳は白っぽく映り、肌の淡いグラデーションは滑らかなのがわかる。
朝、窓を回転式のレバーを下げて広げると真正面の部屋から目に飛び込んでくるその少年はどこか物悲しい雰囲気を放っていた。

ある日、移動遊園地を撮影するために出かけた。
午前中は人気がなく、クリーム色の屋根は近くで見るとひどく色褪せている。ところどころ錆びたユニコーンの乗り物は本当に作動しているのだろうかと疑わしいほど時代遅れだ。
カメラを構えシャッターボタンに指先を乗せたそのとき、後ろから声をかけられた。

「よくお逢いしますね」

真正面の住民だった。
窓越しに部屋の中を見るだけで実際に逢うのは初めてだった。初老に差し掛かったくらいのその男は、麻のジャケットとサマーハットをかぶり、上品な出立ちとは不似合いな大きなキャンパスバッグを斜め掛けしている。

「こちらにはバカンスで?」

男は気さくな口調でボクに尋ねた。

「いえ、仕事です。旅行雑誌に載せるための写真を撮っているんです」

「それはよろしいことで」

「ええ。あなたは?」

すると男は後方にそびえるメリーゴーラウンドに視線を向けた。

「私は小説を書いています。以前はローマにいたんですが、田舎の方がのんびりして空気もいいですから越してきました。穏やかに過ごしているとアイデアもどんどん浮かびますしね」

二十世紀後半、光を求めて絵描きたちが移り住んだというこの土地は、都会で成功した者が別荘を持ったりバカンスの避暑地になっていた。彼もそうなのだろうか。

「優雅でいいですね」

「ええ、お陰さまで筆がすすみます。
ですがね、最近は危なっかしくって仕方ないんですよ。実は、私の書いたものとそっくり同じ小説を出す輩がおりましてね。ストーリーも登場人物の性格までもが同じものをです。ひどいと思いませんか?」

澱みないその口調は、なん度も繰り返し誰かに話してきたような口ぶりだった。ボクは頷いた。本当はあの写真について尋ねたかったけれど、黙って耳を傾けた。

「先日なんて、そいつが図々しくも新聞のインタビューに答えていたんです。『海を見ながらビールを飲んでいたら、突然、新しい物語りが生まれてきたんです』なんて言ってたんです。私の作品なのに!」

彼は短く舌打ちした。相変わらず視線はメリーゴーラウンドに向けられていて、どんな表情をしていたのか見えなかった。

「まったく可笑しな話です。そんなことをしたって私の人生を乗っ取ることなどできないのに」

小説家の男はキャンパスバッグをぐっと掴み直した。使い込まれたものらしく、あちこちの生地がほころび黒ずんでいる。

「ですからね、こうして肌身離さず持ち歩いているんです」

「え?」

「原稿をです」

「いつもですか?」

「そうです。あなたにはいつかお見せしましょう」

やっと振り向いた男のジャケットの肩口がひきつっている。

「小説ってものは特定の誰かにまつわる記憶の集合みたいなものです。だから、その個人の記憶を消してしまうなんてできっこないのです。
記憶は自分のものでありながら、自分の意思でコントロールしたり分別してゴミに出したりできないものだからです。

つまり誰かが私の小説を盗んだとしても私がその記憶を失う事はない。
まあ、人の人生を覗き見て勝手に想像し、わかったようなふりをしているだけなんですよ。まったく困りますな」

男は一気に話すと名刺を一枚くれた。そしてボクからすこし離れサマーハットを片手に芝居じみたお辞儀をして「ではご機嫌よう」と去っていった。舞台で観衆に挨拶する王様みたいだった。


数日後、遅くまで写真データ整理をしていた夜だった。めずらしく正面の部屋にも照明が灯り、小説家の男がオレンジ色の光の中でだらしなく背を丸めて座っているのが見えた。ハッとした。明らかにようすが違い、ダイニングテーブルが空の酒瓶や紙屑で乱雑に散らかっていたのだ。

嫌な予感がしてすぐに目を逸らそうとしたけれど抵抗できなかった。
男は、壁にかかった少年の写真に話しかけるようになにか呟き、やがて声をあげて泣きだした。

嗚咽しながら男は床に膝をついた。そして壁の少年の首筋に掌を置き、唇を近づけた。少年のうなじと男の唇が密着していた。どこにも隙間はなかった。男の手は少年の滑らかな頬に触れ、やわらかな銀色の髪を撫で、もう一方の手は肩にあてがわれた。小さな生き物に触れるようなデリケートな動きだった。

皺だらけの手の感触や、息づかいや、激しく鼓動する心音が中庭を越えてここまで聞こえてきそうだった。
男は壁の写真にぴったりと重なり合い、よだれと涙に濡れ、彼自身が壁の写真に埋もれてゆくようにすら見えた。

ボクは想った。男は何かに怯え、少年に抱き上げてもらいたがっているのだ。子どものように啜り泣く声がボクに届いた。月のない、密度の濃い夜だった。

小説家としての男は決して成功者とは言えないようだった。
名刺を頼りにインターネットで検索し履歴を見ると、とある賞に当選し一冊だけ出版したあと話題になる事はほとんどなかった。

彼の本を取り寄せ読んでみた。
奇妙な小説だった。美しい少年に男が溺れてしまう話だ。
あるとき男が避暑地で美しい少年と出逢う。男は少年と幸せなひと夏を過ごしていたが、やがて行方不明者として捜索されていると知り、逃走する。少年は無事家族の元へ帰るが、告訴はなかった。男は別の街へ移り、繰り返し少年を探しつづける。そんな話だった。

夏の間、小説家の壁のポートレイトを眺めながらボクは町のスナップを撮り歩き仕事をこなした。
ゼラニウムは枯れかけ、少年のポスターは男の涙で濡れた頬の部分だけ波打っていた。

夜になるとグラスのウィスキーを舐め、ベッドに横たわりながらスマートフォンからいつもの画像をひらいた。三歳のときにボクが撮った息子と画面越しに目が合った。生きていたら七歳になるはずだ。
はず、というのはおかしいのか。いや、おかしくてもいい。ボクの記憶の中で生きつづける息子は、いつまでも悪戯好きそうな瞳をまっすぐに向けていた。

やがて夏が終わり、移動遊園地も幕を閉じて別の土地へ旅立ってしまった。
メリーゴーラウンドがあっけなく景色から消えてしまったことに驚きながら、ボクは窓辺に立った。がらんとした風景の中に、なにかが唐突に消えてしまうことを恐れている自分がつるりと姿を現したように感じた。

そのとき、息子が遊具で遊んだり、アイスクリームの甘ったるい匂いのするバラ色の頬を抱きしめることは自分には決して訪れないのだ、という事実が内側から波のようにのぼり、胸を突いた。
その残酷さをまったく引き受けきれないまま流れ渡っている自分の生き様が、陽の光に無遠慮に照らされたようでたまらなくなり、瞼を閉じた。


翌朝、小説家の男の壁から写真が外されているのに気づいたボクは大家を尋ねた。
大家は、急に引っ越しましたよと告げ、ボク宛に預かったという薄汚れたキャンパスバッグを手渡した。
中身は真っ黒に塗りつぶされた原稿用紙が詰まっているだけだった。


 (了)



                            

小さな物語が五十二本になりました✨ すこしふしぎだったりビターテイストだったり。ごゆるりとどうぞ。


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