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掌編    とろける残像

彼の舌はわたしの髪を撫で、服を脱がせ、まぶたをねっとりと愛撫する。そのたびにわたしは、息もできないほどの恍惚に溺れながらシャッターを切る。


午後四時。石畳の階段を登ってあの場所へ向かう。灼けつくような夏の粒子が眩しくてたまらない。ジョーゼットのブラウスの中身はぐっしょりと濡れている。

テオの店に着くと一番奥の窓辺の席に座りブラッドオレンジジュースを注文する。窓から入ってきたハチがグラスのふちをひと回りして飛んでゆく。
シチリアの町が蜂蜜色に染まるこの時間は、別れた恋人との過去を葬るのにぴったりだ。わたしはバッグからペンタックスのオールドコンデジを取出して再生ボタンをスクロールする。1999年製カメラの背面モニターにフィルムライクの画像が次々と現れる。

なぜそんな古いカメラを使うの? と訊かれる。ざらりとした質感がわたしの感覚にあっているからと答える。高解像度なんていらない。写真という、見た瞬間そのままが記憶に定着するときのフィジカルな快感が好きなのに、ハイスペックなカメラがそれを邪魔してしまうのだ。
わたしの世界には感度の低い、どこかピント外れの滲んだ色彩が似合っている。

肩越しに店主のテオが覗いている。

「何を見てるんだい?」
「ただの記録よ」
「ぼやけてるじゃないか」
「こういう写り方なの」
「へえ、写真はその人自身って言うけど本当かな?」

答えずにわたしはストローを齧る。
そう。わたしはぼやけた世界しか知らない。

生まれつき左瞼だけ閉じていたわたしの眼は、医師の手によって切開され、世界へと開かれた。赤ん坊のときだったからもちろん覚えていない。
両親は娘の二つの眼が正常になったと喜んだけれど、瞼からこめかみまでケロイドのような傷跡が残ることや、引きつった瞼のせいで焦点が定まらず、左右非対称で輪郭がずれることは医師から伝えられなかったそうだ。
わたしに与えられた左眼の視力は生後七ヶ月から成長していない。

だんまりしているわたしにテオが、

「その髪型、ジャン=ピエール・ジュネの『アメリ』みたいだ」
と残してカウンターに戻ってゆく。

昨日、自分で切ったのだ。
「あんなに夢見がちじゃないけどね」と彼に返す。


ボリスと初めてデートしたのがこの席だった。窓越しの太陽に晒されたわたしは、隣に腰掛ける彼の視線から逃れることができずに戸惑うばかりだった。
「涙の跡みたいだ」ボリスが長い髪で隠していたこめかみの傷を指でなぞった。指は湿っていた。タバコを燻らせながら「淡い色調がいいね」と写真を褒めてくれたのもこの席だ。すぐに恋に堕ちた。

愛するものを写真に残さないと気が済まないわたしは夢中でシャッターを切った。ビロードのソファに寝転ぶボリス。拾った仔猫をモスグリーンのカーディガンに包むボリス。ターンテーブルにレコード針を落とす湿った指。わたしを気持ちよくさせるロシア訛りの薔薇色の舌。眼を瞑っていても射し込む光りをオールドコンデジにひとつ残さず拾い集める。

鳥の足跡に似たこめかみの傷跡を彼はじっとりと舐めた。舌はみずみずしく弾力があった。こんなにも熱く滑らかに動く舌をわたしは知らなかった。
彼はそれを優雅に扱うことができた。ブラウスのボタンをひとつづつ外していくときの、あるいはわたしの茂みの中からやわらかい塊を探るときの舌遣いで、瞼を裂いた。わたしは躰が溶けてなくなるような悦びを感じた。

「なにぼんやりしているの」
「文字も読めないのかい?」

彼の何気ない一言がわたしの胸に棘を刺した。
強烈すぎる光の反射がその輝きによって元の像を見えなくしてしまうように、ボリスの存在はまるで高感度カメラのような明快さでわたしをさらけ出した。

もう何も見えないの。電話で三分話して別れた。何千時間も積み上げてきた関係をたった三分で終わらせてしまったことにわたしは狼狽え、まだ懐かしいと感じるほど彼の記憶が薄れていないことにも気づいて困惑した。

ぜんぶ写真のせいだ。
だから、窓辺の熱を浴びながら過去を手放すと決めた。地中海のとろけるような夕陽が闇を溶かしてくれるから。

わたしはボディの上部にある〈消去ボタン〉をカチリと押し、画像が無限に引き延ばされ、ゆっくり温められたゼリーのように溶けてゆくのを眺めた。
四角にくり抜かれた像は崩れ、粒子が抜け落ち、記憶が失われ、やがて真っ黒な〝無〟に変換されていった。

あの淡い快楽が一体何だったのか、わたしはもう語ることができない。夜中に左の瞼が閉じてしまうのではないかと怯えることもない。

突然わたしは、切り取られた瞼をどうして残しておかなかったのだろうとひどく後悔した。シャッターを切るときのように開閉する薄くやわらかなわたしの一部を指先でつまんでみたかった。裂け目に指を差入れ、奥まで開いてみたかった。匂いや手触りを確かめ、舌で転がし口にも含んでみたかった。彼にされたみたいに。

 

(了)1993字 


花澤薫さんの企画、#一枚の写真から文芸賞 に参加させていただきました✨


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