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【note創作大賞2025|エッセイ部門 応募作品_会いたくなる日】


#創作大賞2025 #エッセイ部門

祖母が、私の前で「死なせて」とつぶやいた。

介護とは、ただ優しさだけで成り立つものではありません。言葉にならない疲れや、矛盾する感情を抱えながらも、それでも暮らしは続いていくのです。

これは、「優しさだけでは語れない介護の現実」と、家族という不器用で切実な繋がりの記録です。日常の中で失われていった言葉、譲れなかった想い、過ぎてからようやく気づく温もり。

私は今、とても会いたいです——
二度と戻らないあの日々へ、心の奥底から。



人生の半ばで半身不随になり、思うように体が動かなくなることが、どれほど苦しいことだったのか──今でも私には想像ができません。 物心ついた頃には祖母の体はすでに”ハンディーキャップ”を抱えており、私にとってはその姿の祖母が当たり前だと思っていたからです。杖を左手に持ち、重たそうに足を引きづりながらいつも人の後ろから遅れてついてくる、それが日常の祖母の姿でした。話し方も辿々しく、私との会話がうまく噛み合わないことも多かったので、長い時間祖母と話をしようとしたことはありませんでした。祖母の言葉を拾い上げることが苦手で、何を伝えようとしているのか耳を傾けなかったのです。

当時、まだ人として未熟すぎた私には、祖母の言葉は微かに記憶に残る程度で、その本当の意味を理解するまでとても長い時間がかかりました。



祖父母との生活の始まり

私はふとした事情から、中学2年生の時から祖父母と暮らし始めました。農業をしながら祖父母と一緒に暮らしていた叔父夫婦が、借金を理由に夜逃げしたことが事の発端でした。その借金は、母と博多に住む叔父夫婦が代わりに返済したと聞いています。しかし、もともと祖父母との折り合いが悪かった叔父夫婦は、きちんと話し合う機会があったにも関わらず、一方的に家を出てしまったのです。

叔父夫婦が家を出て1年が過ぎようとしていた頃、遠路、県を跨いでバスと電車を乗り継ぎ、祖父母が揃って毎週母を尋ねてくるようになりました。ハイカラなスーツと強面のサングラスをかけ颯爽と歩く祖父の後を、祖母がゆっくり時間をかけながらついてくる、そんな光景が数ヶ月ほど続きました。

母は6人きょうだいの末っ子で、生まれた時から「いらない子」と言われて育ったと聞いています。成績優秀だった母が高校や大学へ進学を望んだときも、「女のお前が学校へ行ってどうするんだ!」と言って聞く耳を持ちませんでした。特に祖父に対しては、子供思いの優しい父親という記憶はなかったようです。普段から意見の相違でぶつかることも多く、決して円満な関係とは言えませんでした。

さらに、DVが原因でシングルマザーになったことも、祖父母にとっては自慢の娘に値しなかったのかもしれません。そんな母が、他のきょうだいが誰も祖父母を引き取らない中で決めました。

「祖父母と一緒に暮らそう」

祖父母と暮らすと決まった時、私は深く考えずに、ただ“家族が増える”と喜んでいました。しかし、その生活は思っていたものとは違いました。



祖母の介護と生活の現実

祖母は脳梗塞が原因で半身不随の体でした。もともと非常に内向的な性格で、おしゃべりな方ではありませんでしたし、近所や昔からの知り合いともあまり連絡をとりませんでした。家族の中で存在感を示すことはなく、”ただそこに黙って居る”だけの存在だったかもしれません。一見、表情に乏しいせいで内面的な感情がわかりにくく、人に対して無関心に思えました。

ただ毎日を淡々と過ごしながらいつも何かに耐えている、そんな雰囲気がありましたが、実は愛情や意志を言葉ではなく、生活の中で静かに何かを伝えている人だったのかもしれません。多くを語らなくても、所作や暮らしの積み重ねから深い想いが感じ取れる人でした。

不自由な手でも、同居を始めた頃は簡単な食事を作ることができました。ご飯、味噌汁、煮物、漬物と緑茶、毎食同じメニューです。しかし、生活機器には疎く、鍋敷がくっついたままの鍋を火にかけて火事寸前になったり、炊飯器の開け方が分からず手でこじ開けようとして蓋を壊したり、全自動洗濯機の使い方がわからず蓋を何度も開け閉めしていました。繰り返し教えても、新しい情報を頭で処理できないのです。それが歳をとるという現実なのかもしれません。

晩年は認知症がかなり進んでいきました。自分の名前は言えず、文字も書けません。夜中にトイレへ行った後自分の部屋まで戻れなくなり、鍵のかかった玄関を開けて外に出ていくことが何度かありました。2階で寝ていた私たちはそのことを知らず、明け方になって警察官と近所の人に連れられて家へ戻ってくるのです。

使われることのなかった椅子型おまるが残る、祖母の寝室(イメージ)


体が不自由なため、尿意を催してトイレへ辿り着く前に漏れてしまうこともありました。朝起きると、廊下は尿の川。便を掴んだまま壁をつたうため、壁にべっとりと手形の跡が残っていたときもあります。見かねた母が、周りに相談して大人用のおまるを部屋に設置しましたが、ほとんど使われることはありませんでした。

そんな中、何年もかけて町役場と交渉を重ねてきた成果があったのか、ようやく介護専門のヘルパーさんを派遣してもらうことができました。デイケア訪問は週2回でした。

ヘルパーさんが来ない日は、母が仕事の合間を縫って祖母のおしめを替えていました。しかし、娘に下の世話をされる恥ずかしさと苦しさで体を硬くしながら「いやだ、いやだ」と泣くのです。老人とはいえ大人の体重と、硬直した筋肉の硬さが邪魔をして、うまくおしめを変えることができません。私と2人がかりで無理やり体を押さえこみ、手際良く下の処理をしなければなりませんでした。

食事も流動食でなければ喉に詰まらせてしまう危険性があったため、一度調理が終わった食事をミキサーで全てペースト状にし、スプーンでひとさじずつ時間をかけて口の中へ入れてあげなければいけません。カロリーや栄養バランスにも気を使います。どれだけ美味しく作った料理でも、日によっては食欲がないのか、全く食べてくれないときもありました。

当の母は文句も言わず、無言で、日頃の仕事の疲れが溜まった体に鞭を打ちながら、疲れ切った様子で介護をしていました。私も母も、体よりも精神的な疲労感の方が大きかったと思います。



祖父の人物像と家出事件

祖父は昔気質の九州男子でプライドが高く、わがままで、同居前から私や母に不満をぶつけることが日常でした。祖母とは正反対の性格で、とても外交的でおしゃべりが好きな人でした。毎日のようにゲートボールへ行き、話題の中心にいることが好きな性格で、目立つことに優越感を感じていたようです。ファッションはいつも
イギリス風の少しタイトなスーツ、こだわりの帽子と暗めのサングラスが好みで、機能性を重視しただけのシンプルな祖母の服装と真逆でした。装飾にもこだわりがあり、部屋は趣味が良いとは言えない小物が所狭しと並べられていたり、車のフロントガラスに色々な装飾品をつけているせいで、ブレーキを踏むたびにガチャガチャとぶつかる音が、祖父の”こだわり”を強調していました。

実は、 小さかった私は祖父が嫌いではありませんでした。むしろ、私を子供扱いしないで厳しく接する態度に尊敬さえ感じていました。

食べることのなかった、祖父へのお弁当(イメージ)


祖父の食事は、デイケアセンターから平日だけ毎日、昼と夜にお弁当が届くように母が手配をしていました。しかし、食事は家族が作るものだという固定観念があるのか、わがままに育ってきた祖父は、結局、配達された食事に一切手をつけませんでした。「味気がない」といって、家族が常に手作りで作った食事を望んでいたのです。母は仕事で、私は勉強や部活などで帰りが夜遅くなることも多く、それも祖父にとっては理解できないことだったのかもしれません。祖父にとっての”食事”とは、家族が作った食事を祖父中心に食すことがあるべき姿だと思っていたようです。

朝食はお気に入りのブラックコーヒーと葡萄パンを自分で買いに行っていましたが、他の食事は自分の分だけを自炊する生活を送ったことのない祖父は、頑固なまでに”出来合い”に感じる食事を拒否し続けました。そういう生活を送っていれば、当然栄養不足になり、病院の検査で引っかかります。帰宅すると、眩暈がすると言われて救急車を呼んだことが何度もあります。医師に、「家族の負担が大きいようですので、少しの間、検査入院という名目で面倒を見ましょう」と言われた時は、正直ホッとしました。

そんなある日、夜逃げをした叔父がまるで自分の家のように堂々とした態度で私たちの家を訪ねてきました。快く受け入れている祖父に少し苛立ちを覚えながら、”おもてなし”の準備を始めました。すると、昔話に花が咲いたのか、祖父はとても楽しそうでした。”歳をとると、昔の良いことばかりを思い出すもの”まさにそのままでした。調子に乗ってきた叔父が、「俺たちは爺さんと婆さんによくしてきただろ?」と私たちを馬鹿にするように喋り出しました。すると、「そうだよ、お前たちはよく世話をしてくれたのになあ」と、まるで私たちが悪者であるかのような会話を始めたのです。あまりにも大きな声でわざとらしく話すので、台所でお茶を淹れていた私の耳にも、話の内容がしっかりと聞こえました。

ずっと黙ってテレビを見ているふりをしていた母が、「そこまで言うなら、兄さん(叔父)と一緒に住めばいいでしょ!」と突然感情的に怒鳴ったのです。普段は感情など表に出さないようにしている母が、ここまで怒るのは珍しいことでした。すぐに私と母は手早く荷物をまとめ、家出の準備を始めました。ようやく行き過ぎたと理解した祖父が、珍しく弱気な態度で「ごめん、行かないでくれ」と泣きついてきました。しかし、堪忍袋の緒が切れた母の決心は変わることなく、急いで車に荷物を積み、家出の準備を整えました。

そそくさと逃げるように私たちの家から出ていく叔父を横目に、私たちは最低限必要な荷物をまとめ終わると、そのまま無言で近くのビジネスホテルへ向かいました。久しぶりに祖父母から解き放たれた”自由”に、なぜか私はほっとしました。当初は1、2日程度だろうと思っていたのですが、最終的に1週間のホテル滞在になりました。母も私と同様、”解放された”と感じていたようです。

1週間が経ち家へ帰ると、まるで”捨てられた子供”のような顔をした祖父がいました。私たちは黙ったままそれぞれの部屋へ行き、お互いに一言も話しませんでした。

このことに、よほど衝撃を受けたのか、祖父は今までのように横柄な態度をとることが無くなりました。



思春期の私と母

私は家が嫌いではありませんでしたが、時々祖父母の“相手”をするのが面倒で、家に帰りたくないと思うときもありました。意図的に生徒会に入って、わざと帰宅を遅らせたりしました。放課後、駅前で楽しそうに笑いながら話をしているスクールメイトを横目に、「私は一体何をやるために生きているのだろう、しんどいな」自分自身に愚痴を言いながら、”どうして私だけ”と泣きそうになったこともあります。こんな思いをするくらいなら「どっちもいなくなればいいのに」と思う自分と、「家族としてずっと一緒にいてほしい」と思う自分が、心の中でいつも喧嘩をしていました。

”普通”の学生生活を送ってみたい。それが当時の私の望みでした。勉強ができない、介護が辛いと感じていた私には、学校にも家にも、”居場所”がないように思えたのです。


母の強さと孤独
母とは毎朝、車で一緒に家を出ていました。近くに駅もバス停もない”ド”がつく田舎です。母の職場も私の学校も同じ方向だったので、一緒に家を出る方が効率が良かったのです。学校の近くで降ろしてもらう時、母は「行ってらっしゃい」と笑っていましたが、その笑顔の奥に疲れが見える日もありました。私は学校が終わると帰りは電車と徒歩で帰ることが多く、家に着く頃には外が暗くなっていることもありました。時々母と一緒に帰ろうと思い職場へ行くと、母は仕事の時だけイキイキと楽しそうでした。今思うと、私が学校や部活で帰宅を遅らせていたように、母も仕事をすることで祖父母と向き合う時間を減らしていたのかもしれません。

それでも母は祖父母を見捨てませんでした。 そんな中、祖母が不自由な体で畑仕事をして大怪我をし、病院へ運ばれることに頭を悩ませていた母が、完全バリアフリーの新築一軒家を、所有していた土地の一角に建てました。値段は特注だったせいもあり5千万円越え。それでも、私と祖父母のために沢山のことを我慢して、日々の生活をなんとか回していました。母はひとりで必死に働き続け、丁度10年でローンを完済しました。他のきょうだいからも少しは援助をもらったようですが、それだけでは到底ローン完済には至らなかったでしょう。

私の気持ちとしては、お金よりも、1週間でいいから祖父母のお世話をしにきて欲しいと思っていました。当時の私は妙に冷めていたところがあったので、遠くから偉そうにコメントだけしてくる叔父や叔母が嫌いでした。その時の記憶があまりに深く染み込んでしまったのか、彼らを今でも好きになれないままです。


最初は新しい家に大喜びだった祖父母でしたが、私たちと一緒に過ごす時間が少なかったことへ次第に不満を募らせていたようです。交わす言葉は減っていき、冷たい視線を向けるようになっていきました。自分のことで精一杯だった私も、わざと無視をしたり心無い言葉をかけてしまったことがあります。

私は大学を卒業した後、就職ではなく留学を決めました。閉じ込められたような世界から飛び出し、外の世界を見たいという思いを止められなかったからです。滞在先のイギリスでは言葉、宗教、食事、文化や習慣など、さまざまな困難とぶつかりました。特に、勉強が好きではなかった私に、言葉の壁は想像以上に高く厚いものでした。それでも、言語だけでも習得したかった私は歯を食いしばりながら勉強をしていました。



旅立ち、別れ、そして今

そんな中、突然急逝の連絡を受けました。

祖父がテレビの前で倒れ、そのまま帰らぬ人になったのです。夜遅く帰ってきた母が、倒れている祖父を見つけてすぐに救急車を呼びましたが、一瞬目を開けて何か言おうとしたそうですが、結局、救急車が到着する前に息を引き取ったそうです。 まさか、生まれた時から当たり前にいた家族が、こんなに突然いなくなるなんて、想像したことがありませんでした。頭では理解しているのに、体が追いつきません。私は赤い縁取りの公衆電話の中で、そのまま何時間も泣き続けました。通りすがりの人たちが怪訝な眼差しを向けて通り過ぎて行きますが、そんなことを気にする余裕はありませんでした。


祖母も、祖父の死から3年後、滞在先の老人ホームで2週間以上食事が摂れなくなり、昏睡状態のまま意識が戻らなくなりました。その時、母は仕事を早めに切り上げて、毎日老人ホームで寝泊まりをしていたようです。老人ホームから直接仕事へ向かおうと車を運転していた時に、老人ホームから危篤の知らせが入り、すぐに引き返したそうです。母が祖母の元へ戻った数時間後、静かに息を引き取りました。



実は一昨年、私は癌を発症し、しかも転移をしているとわかり、長い病気との戦いを経験しました。幸運にも無事に生還を果たし、今年に入って夢のひとつだった起業の準備を始めました。祖父母に続いて私の介護を終えた母が、「一緒に住もうか」と提案してくれたことがあります。しかし、母とこれから死ぬまで一緒に暮らす想像ができませんでした。長く離れて暮らしていたので、すでに人生への価値観に大きな段差があったことと、母と祖父母との、ある意味戦いとも言える記憶が強すぎたからかもしれません。近い将来母の介護で人生を束縛されるのが怖かったのと、今やっと追いかけている夢に制限がかかることが嫌だったのです。自己中心的だと言われても構いませんし、後々死ぬほど後悔するかもしれません。それでも私は”親と暮らす”ことはできませんでした。

何があっても最後まで祖父母を見捨てなかった母を、世界一尊敬しています。私は年老いた親と暮らすことに肯定も否定もしません。できません。ですが、もし親しい友人が年老いた親と暮らすと言ったら、後々のことを心配しつつも、心からすごいと思うでしょう。

ただ、最近になってようやく祖父母のことが少しだけわかるようになってきました。祖父母の生き方は違うものだったと思いますが、お互いに思っているところは同じでした。私が目標にしている人生の歩み方ではありませんが、2人とも、自分の人生を最後まで一生懸命に生き抜いたのです。

今、とても会いたいです


なぜか最近になって、なんでもなかった日常を愛おしく感じています。また一緒にご飯と味噌汁だけでもいい、同じテーブルで食事をとりたいです。日向ぼっこをしたいです。だらだら昼寝をしたいです。テレビで時代劇を観たいです。 でも決してやり残したことがあって後悔しているわけではありません。

矛盾していますが、人は何かができなくなった時に初めて以前できたことに愛情を感じてしまうのかもしれません。それを理解するのは、”長い時間が経って”からということが少し悔しい気がします。どうして今そんな気持ちになっているのか分かりません。

でも、家族という特別な存在と一緒に過ごした大切な時間を、もう一度味わいたくなる時が、急に湧き出てくることがあります。できなかったことも、言えなかったこともたくさんあるけれど、それでも私たちは、確かに一緒に「暮らして」いました。


それだけは、今も変わらず私の中で静かに生き続けています。



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