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『ペース帳』― 恋をしても、私でいるための記録

第一話 | 付き合いはじめると、生活が崩れる

これはずっと、季節の変わり目みたいなものだと思っていた。
好きな人ができる。胸がふわっと軽くなる。世界の色が、昨日より鮮やかになる。それはいいことのはずなのに——翌朝には机の上が雪崩を起こしていて、洗濯物が山脈になっていて、野菜室の小松菜がしずかにしおれていく。
生活が、恋に吸い込まれていくみたいに。

私の名前は小春。古本屋「月舟」で働いている。棚の角を指で撫でると、紙の粉が少しつく。それが好き。世界がちょっとだけ、確かな手触りになるから。

昔から熱しやすい性格だった。紅茶にハマれば茶葉の産地まで調べてティーポットを三つ買う。刺繍にハマれば糸の色見本を作って夜明けまで針を動かす。集中力は自慢だったけれど、その代わり、生活という名の雑用を見失う。

部屋はいつも「散らかっている」と「片付け中」を行き来している。片付け中のときは完璧主義の神様が降りてきて、散らかっているときは神様が旅行に行ってしまう。その日、神様は旅行中だった。


閉店間際、背が高くて、髪が少し湿っているお客さんが入ってきた。雨に濡れたらしい。傘をたたみながら、申し訳なさそうに「まだ大丈夫ですか」と聞く。

「はい、どうぞ。ゆっくり見てください」

彼は迷いなく「失恋小説」の棚の前で足を止めた。私が手に取ったことのある文庫を抜いて、少しだけ首をかしげて言った。

「これ、結末が優しいやつですよね」

なぜか笑ってしまった。結末が優しい、と言い切れる人は、きっと優しい。

「優しいです。泣けるけど、刺さり方が丸いです」
「丸い刺さり方。いいですね」

彼はその言い方を気に入ったように、文庫を胸に抱えた。会計のとき、カウンターに置かれた手が、少し震えていた。寒かったのか、緊張していたのかは分からない。

「雨、ひどいですね」と私が言うと、彼は頷いた。
「こういう日に、寄れる場所があるって助かります。……ここ、落ち着く」

褒められると、胸の奥がくすぐったくなる。私はいつも余計なことを言ってしまう癖があるのに、そのときだけ、うまく言葉が出てこなかった。

「また……来ます」
彼はそう言って、ドアを開けた。鈴がちりん、と鳴って、雨の匂いが一瞬だけ流れ込む。その背中が見えなくなるまで、私は目を逸らせなかった。


次の週、彼はまた来た。名前を「悠真」と言った。

悠真は毎回、一冊だけ買った。選ぶ本はバラバラなのに、なぜか全部「自分を責めない物語」だった。私もそれが好きだったから、彼が手に取る本を見るたびに、自分の中の柔らかい場所が触られるような気がした。
気づけば、閉店後に店の前で少し話すようになった。夜の街路樹は街灯の光で葉の影を落として、ゆらゆら揺れた。その揺れのせいか、話の間に沈黙が来ても、怖くなかった。

ある日、悠真が言った。

「小春さんって、話すと安心する」
「それ、たぶん本の匂いのせいです。私じゃなくて」
「違う。……小春さんの、ペース」

ペース。

その単語は、私の心臓のところで、軽く跳ねた。


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