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『ペース帳』― 恋をしても、私でいるための記録

第三話|沈黙は、穴じゃなくて毛布だった

土曜の前日、ペース帳のページをもう一枚増やした。

デートの前にやること(15分) ・机の上だけ空ける ・明日の服を決める ・お茶を淹れる(自分のため)

デートの後にやること(10分) ・シャワー ・ペース帳に一行だけ書く ・スマホは充電器に置く(握ったまま寝ない)

自分への指示書。世界で一番、私の扱いが難しいのは、私だった。


悠真と歩いたのは、川沿いの道だった。桜の季節が終わったあとで、葉が光っていた。悠真は川に向かって石を投げようとしたけど、手を止めて私を見た。

「小春さん、疲れてない?」

驚いた。隠せていると思っていたのに。

「……ちょっとだけ。嬉しいと、疲れるんです。変ですよね」

「変じゃない。嬉しいって、情報量多いもん」

その言い方が可笑しくて、笑った。悠真も笑った。

「じゃあ、ベンチで休もう。話さなくていいやつ」

ベンチに座ると、風が通った。沈黙が来た。でも、その沈黙は穴じゃなくて、毛布みたいだった。

しばらくして、悠真が言った。「俺、前に付き合ってた人に『何考えてるか分からない』って言われたことがある」

「……それ、しんどい」

「しんどかった。だから、小春さんがペースの話してくれたの、ありがたかった。分かる形になるから」

分かる形。

胸の奥が、温かくなった。

「私、思い込みが激しくて。勝手に結論を出して、勝手に疲れて、勝手にいなくなりそうになります」

「うん」

「だから……いなくならないように、ルール作ってもいいですか」

「もちろん」

私はペース帳をバッグから出した。少し恥ずかしかったけれど、開いた。悠真は笑わなかった。地図を見せられているみたいに、真剣に頷いた。

「これ、いい。……俺も欲しい」

「え」

「ペース帳。俺のも作ろうかな。『考えすぎたら散歩』とか」

私は噴き出した。それから、胸の中の警報が、少しだけ音量を下げた。


家に帰って、「デートの後にやること」をやった。シャワーを浴びて、髪を乾かして、ペース帳に一行書いた。

『今日は、沈黙が怖くなかった』

それからスマホを充電器に置き、ベッドに潜った。部屋は完璧にきれいじゃない。でも、床に散らばっていた袋入りの靴下は、ちゃんと引き出しに入っている。たったそれだけで、世界が少し整って見えた。


次の日曜、私は誰とも会わず、部屋の「平面」を守った。机と床を空けて、洗濯をして、食材を少し買った。生活が戻ると、心も戻る。心が戻ると、「好き」が怖くなくなる。

夜、悠真からメッセージが来た。20分だけ返信した。

「今日はリセットできた?」
「できた。小春さんは?」
「机が見えた。奇跡」
「それは革命」
「革命記念日」

画面の文字が、ちいさな灯りみたいに見えた。

恋は、生活を崩すものじゃなくて、生活の中に置けるものかもしれない。大きな波じゃなくて、呼吸のリズムみたいに。

目を閉じて、陶器の猫の置き物を思い出す。まんまるの目で、好きなものを見つけてしまう、私。そのまんまるは危ういけれど、愛らしい。だから、守り方を覚えればいい。

恋をするときは、相手のペースじゃなく、自分のペースを先に抱きしめる。崩れそうになったら、戻る場所を作る。

次の土曜も、その次の土曜も。私は、生活を手放さないまま、悠真の隣に座る練習をした。

ゆっくり。でも確かに、私のまま。

この話が「分かる」と思ったあなたへ。 自分のペースを守ることは、わがままじゃない。 それは、好きでいつづけるための、いちばん静かな努力だと思う。

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