167.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第32節「京都撮影所女性文芸大作シリーズ」
新年あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願い申し上げます。

映画村のお正月風景











うららかな映画村のお正月でした。
「京都撮影所女性文芸大作シリーズ」
今節では、俊藤浩滋と共に任俠映画を支え、後に実録映画『仁義なき戦い』や女性文芸映画『鬼龍院花子の生涯』、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した『楢山節考』、そして『極棒の妻(おんな)たち』など、京都撮影所を代表する映画を企画した日下部五朗プロデューサーの数々の作品を紹介します。
1. 文芸映画路線開始 五木寛之原作 松坂慶子『青春の門』
日下部は、1981年正月作品として深作欣二監督、松田優作主演にて佐木隆三原作『海燕ジョーの軌跡』を企画しましたが、脚本をめぐり松田と決裂、頓挫しました。
正月作品の公開日に間に合わせるべく日下部は、野上龍雄に脚本を頼んでいた五木寛之原作のベストセラー『青春の門』を俊藤の協力を得て菅原文太主演、蔵原惟繕監督で映画化します。
日下部は松竹から松坂慶子を迎え、鶴田浩二、若山富三郎、渡瀬恒彦も助演。公開まで日がないので原因を作った深作にも共同監督として助っ人をお願いしました。三国連太郎の長男佐藤浩市がこの作品で映画デビューします。
1月の予定日に何とか間に合い、公開されるとヒット。翌1982年1月には日下部が再び企画した桃井かおり主演『青春の門 自立篇』(蔵原惟繕監督)が公開されました。

©東映
『青春の門』の成功により、日下部は文芸映画路線にヤクザ映画に代わる新たな鉱脈を見出します。
2. 宮尾登美子シリーズスタート 夏目雅子『鬼龍院花子の生涯』
1981年、映画の原作となる文芸作品を探していた日下部は、宮尾登美子の小説『鬼龍院花子の生涯』に出会いました。
ヒットの可能性を感じ、すぐに宮尾と交渉し、映画化権を得て企画に取り掛かります。
ちょうど俳優座映画放送社長の佐藤正之から、フジテレビを離れた五社英雄監督の映画起用を頼まれ、『二百三高地』に主演した仲代達矢の出演とともに俳優座の協力も得ました。
はじめ映画化に反対していた岡田をエロス小説として説得した日下部は、東映初主演となる大物女優岩下志麻を仲代の相手役として口説き落とします。
日下部は佐藤の紹介で松恵役に夏目雅子を起用しました。カネボウのキャンペーンガールとして売り出した夏目は、日下部の盟友鈴木則文が監督した『トラック野郎 男一匹桃次郎』でマドンナ役を務め、東京撮影所(東撮)の戦争大作『二百三高地』(舛田利雄監督)にも出演。日本テレビ『西遊記』の三蔵法師役などでアイドル人気も高い若手女優でした。
「なめたらいかんぜょ」。1982年6月に公開されると、夏目雅子の奮闘もありこの女性文芸大作は大ヒットします。

©東映
この作品を契機に、日下部は宮尾登美子小説を原作に、1983年9月池上季実子『陽暉楼』(五社英雄監督・緒形拳主演)、1984年1月名取裕子『序の舞』(中島貞夫監督)、1985年1月十朱幸代『櫂』(五社英雄監督・緒形拳主演)、1987年1月十朱幸代『夜汽車』(山下耕作監督)、1992年5月『寒椿』南野陽子(降籏康男監督・西田敏行主演)、1995年10月『蔵』(降籏康男監督・松方弘樹主演)と次々映画化し、京撮女性文芸大作路線を確立しました。

©東映
3. カンヌ国際映画祭パルム・ドール授賞 坂本スミ子『楢山節考』
実録映画や時代劇大作、女性文芸大作などの娯楽作品でヒット作を連打する日下部は、これまでと違った芸術作品で国際映画祭での受賞をめざし今村昌平監督の深沢七郎原作『楢山節考』に取り組みます。、
緒形拳主演に、東映と今村プロプロダクションが出資、足掛け3年にわたる山中でのロケ生活の末完成した今村プロ制作の文芸映画は、1983年4月に公開され、5月の第36回カンヌ国際映画祭に出品しました。
下馬評では松竹が大島渚監督で予算をかけた大作『戦場のメリークリスマス』が受賞するのではと噂され、松竹も受賞に向けて一大キャンペーンを張っていましたが、結果、『楢山節考』が最高作品賞であるパルム・ドールを受賞します。
授賞式には日本から参加していた日下部と出演女優の坂本スミ子の二人が登壇の栄誉を得ました。
この作品は東映初の日本アカデミー賞最優秀作品賞も受賞します。ヒットメーカー日下部に、新たな勲章が加わります。

©今村プロ・東映
4. 社会派映画 十朱幸代『花いちもんめ』
これまでほとんどの作品でハードな世界を扱ってきた日下部は、NHKのドラマを見て、一転、老人の認知症の介護という重いテーマをコメディタッチで描く『花いちもんめ』を伊藤俊也監督で企画しました。
千秋実がアルツハイマー症の老人、介護する嫁を十朱幸代が演じた泣き笑い映画は1985年10月に公開され、千秋の迫真の演技もあり諸方で評判を呼びます。
結果、東映で2作目となる日本アカデミー賞最優秀作品賞、千秋は最優秀主演男優賞、脚本を書いた松田寛夫は最優秀脚本賞、その他にも数々の映画賞で作品賞などを受賞しました。

©東映
5. 女性主役映画 名取裕子『吉原炎上』
「宮尾登美子シリーズ」で女性文芸大作路線に鉱脈を見出した日下部は、他の作者が書いた遊郭などが舞台の小説の映画化にも取り組みます。
1987年6月斎藤真一原作名取裕子主演『吉原炎上』(五社英雄監督)、1988年1月山崎洋子原作島田陽子主演『花園の迷宮』(伊藤俊也監督)、4月田村泰次郎原作かたせ梨乃主演『肉体の門』(五社英雄監督)、オリジナルで1994年10月かたせ梨乃主演『東雲楼 女の乱』などを公開しましたが、動員は徐々に落ちて行きました。

©東映
6. 再びの時代劇大作シリーズ『将軍家光の乱心 激突』
1987年正月から日下部は、毎年TBSにて長時間時代劇スペシャルドラマを企画します。
1989年1月、日下部がおよそ9年ぶりに企画した時代劇映画大作『将軍家光の乱心 激突』(降旗康男監督・緒形拳主演)が公開されました。
TBSも出資し、千葉真一がアクション監督も務めたこの時代劇大作は、これまでにない激しいアクションが評判を呼びます。
映画興行的には期待の数字に届きませんでしたがビデオの販売収入が上がったことで収支的には採算ラインを越えました。

©東映
1990年1月には、NHK大河ドラマ『春日局』の人気にあやかり、日下部の企画で十朱幸代主演『女帝 春日局』(中島貞夫監督)を公開します。

©東映
1991年、今度はフジテレビと組み、松方弘樹主演の時代劇大作『江戸城大乱』(舛田利雄監督)を企画、12月に公開しました。
この作品で日下部は時代劇から離れます。
7. 「極妻シリーズ」発進 岩下志麻『極道の妻(おんな)たち』
『花いちもんめ』が日本アカデミー賞を受賞した頃、日下部は東京に向かう新幹線の中で『週刊文春』に家田荘子が書いたルポルタージュ「極道の妻(つま)たち」を読み、映画化の手ごたえを感じました。
早速、家田に連絡を取り、映画化権を押さえた日下部は、高田宏治に脚本を依頼します。
『鬼龍院』の岩下志麻に主演をオファーし、監督には岩下の信頼を得ていた五社英雄を起用しました。
タイトルの妻(つま)は、実際には妻でない女性も多いことから「おんな」と読ませることにします。
女優を主役にした久しぶりのヤクザ映画は1986年11月に公開されると大ヒット。世良公則とかたせ梨乃の濡れ場は話題を呼びました。
「極妻(ごくつま)」のシリーズ化に向けて動いた日下部は、プロデューサーの映画とするために、これまでのヤクザ映画のように監督や主演を固定せず、主演、監督を変えて次作を企画します。
翌1987年10月に公開の第2作『極道の妻(おんな)たちⅡ』は、高田の脚本で主役は十朱幸代、監督には圡橋亨を起用。この作品も続けてヒットしました。
高田が脚本を書いた第3作『極道の妻(おんな)たち 三代目姐』は、三田佳子を主演に降旗康男の監督で1989年4月に公開されます。
これまでと同じく高田脚本の第4作『極道の妻(おんな)たち 最後の戦い』は岡田茂の一声で、再び岩下志麻が主演を務め、監督は山下耕作が担当、1990年6月に公開されました。
1年後の1991年6月に公開された第5作『新・極道の妻(おんな)たち』は、脚本を初めて那須真知子が書き、主演は続けて岩下、監督は中島貞夫が担当します。
岩下は1998年公開の第10作『極道の妻(おんな)たち 決着(けじめ)』(中島貞夫監督)まで主演し、『極妻シリーズ』の顔となりました。
また、この第10作をもって日下部も企画からはずれ、第11作『極道の妻(おんな)たち 赤い殺意』(関本郁夫監督)からは東映ビデオが製作。この作品から2005年3月公開の第15作『極道の妻(おんな)たち 情炎』(橋本一監督)までの5作は高島礼子、2006年6月に公開された第16作『極道の妻たち Neo』(香月秀之監督)には黒谷友香が主演します。
極妻のもう一人の顔、かたせ梨乃は、第1作から1993年1月公開の第6作『新・極道の妻(おんな)たち 覚悟しいや』(中島貞夫監督)まで続けて登場、全9作に出演しシリーズを盛り上げました。
日下部自身は、「極妻シリーズ」第1作から第10作まで企画、東映ビデオが製作した第11作から14作『極道の妻(おんな)たち 地獄の道連れ』までは製作のクレジットになっています。
「極妻シリーズ」は、数多くのヒット作、話題作を企画してきた日下部の最後の人気シリーズとなりました。

©東映
8. 京撮生え抜きヒットメーカー 日下部五朗
日下部五朗は、新入社員として京撮製作部に配属されて以来、組合専従として東京で過ごした1年間以外、京都にて活動した京撮生え抜きのプロデューサーです。
京撮の現場で磨いたその感性はワンマン社長の岡田茂から高く評価され、その支持のもと数々の映画を企画製作することができました。
俊藤浩滋から修羅場での度胸とふるまい方を、渡辺達人から脚本の読み方を学んだ日下部は、先輩や後輩、そして仕事を通じて知り合った脚本家たちとの支援と切磋琢磨で、日本を代表する映画プロデューサー、ヒットメーカーとなり、岡田裕介が社長就任した頃、日下部も京撮から離れます。。
日下部は、昭和の娯楽の王様だった映画界で昭和を代表する最後のプロデューサーでした。
