小説「桶の中の相談役」
「桶の中の相談役」
※この作品はYouTubeで公開した短編を小説化したものです
六畳間の机の上に、不釣り合いな風呂桶が鎮座していた。水を張ったその底には、丸みを帯びた石がひとつ沈んでいる。
里奈は姿勢を正し、その石に真剣な眼差しを向けた。
「ねぇ、今度のバイト、どう思う?」
部屋は静まり返っている。にもかかわらず、耳の奥を掠めるように答えが返ってきた。
『……やめておいた方がいい』
「そうなんだ……」
里奈は小さくうなずき、考えるように眉を寄せた。
『……店主から邪な気配を感じる』
「……そっかぁ。お石様、ありがと」
微笑みながら桶に頭を下げる。その仕草は、誰かに感謝するもののようでいて、どこか異様だった。
――私はいつもこの石に相談している。
彼氏と海に出かけたときに拾った石。拾った瞬間、誰かの声がした気がした。
その後、彼氏と別れて石の存在も忘れかけていた頃、水に沈めるとまた声がした。それ以来、桶に水を張って沈めている。
塩を少し加えると、声はさらに鮮明になった。
私はその石を「お石様」と呼んでいる。
「前に告白してくれた人はどうかな?」
『……いいだろう』
「え、本当?」
思わぬ答えに里奈は驚き、頬を染める。返事はそれ以上なかったが、石はいつもそうだった。
ふと大きく伸びをして、気持ちを切り替える。
「よ〜し、お風呂入ろうかな。今日もありがとうね、お石様」
『……』
「あ、そうだ。いつものやろっか」
言った途端、水面がわずかに波立った。耳に響く声は、今までになく澄んでいる。
『……わしは恐ろしいか?』
里奈は間を置かずに答えた。
「世の中ほど怖いものはないよ」
声の意味はわからない。だが、そのやり取りを重ねるたびに、里奈の胸は妙な安堵で満たされていった。
――恐ろしいはずのものに身を委ねながら、私は日々の選択をお石様に依存して。
それが本当に「健康」と呼べるのかどうか、私はまだ知らない。
