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アキレスと亀の間で歪んだものは何か?――無限が狂わす時間感覚

アキレスと亀のパラドックスをご存じでしょうか。
アキレスが亀に追いつくことは、常識では分かります。
数学的にも、高校数学の範囲で説明できます。
それなのに、
いざ「アキレスと亀の何がおかしいのか」を説明しようとすると、
どうもうまく言葉にできません。
今回は、この説明しきれなさがどこから生まれるのかを、
数学だけでなく、私たちが時間や無限をどう見ているかという
認識の側から考えてみたいと思います。

アキレスと亀のパラドックス

アキレスとは、古代ギリシャで俊足の英雄として知られる人物です。そのアキレスが、少し前を進んでいる亀を追いかける、という設定です。

アキレスがまず、亀のいた場所まで進む。すると、その間に亀は少しだけ前進している。アキレスが次に、その前進した亀の場所まで到達する。すると、その間に亀はまたわずかに前進している。

これが無限に繰り返されるのだから、アキレスはいつまでたっても亀に追いつけない。

これが、アキレスと亀のパラドックスです。

なるほど、と思ったでしょうか?

直感ではウソとわかるのに、なぜか反論しにくい

たぶん、多くの人はどこかで「いや、そんなわけない」と感じるはずです。

日常生活では、前を歩いている友達に向かって走り出して追いつく、なんてことは普通にあります。足の速い人が、歩いている相手に追いつけないなどということは、直感的には明らかにおかしい。

それなのに、アキレスと亀の説明は少し反論しにくい。

なぜなら、途中の一つ一つの説明は、たしかに間違っていないように見えるからです。

アキレスが亀のいた場所まで進む。
その間に、亀は少し前に進む。
アキレスがまたその場所まで進む。
その間に、亀はまた少し前に進む。

この一つ一つだけを見れば、たしかにそうだと思えます。

けれど、そこから「だからアキレスは永遠に亀に追いつけない」という結論が出てくると、急におかしくなる。

パラドックスとは、一見正しそうな前提から、ありえないように思える結論が導かれてしまうものです。

だとすれば、パラドックスの裏側には、私たちがどこかで見失っているものが潜んでいるのではないでしょうか。

「まだ距離がある」が無限に続く??

確かにこのパラドックスでは、アキレスがどんなに走っても、「まだ距離がある」という状態が続くのだと説明されます。

しかし、ここが言葉の難しいところです。

「まだ距離がある」と聞くと、私たちはつい、毎回それなりの距離が残っているように感じてしまいます。

けれど、説明からわかるのは、あくまで「アキレスが亀のいた場所にたどり着いたとき、亀はそこから少し前に進んでいる」ということだけです。

その「少し前」が、毎回同じ大きさだとは言っていません。

むしろ、アキレスが亀に近づくにつれて、その距離はどんどん小さくなっていくはずです。

では、時間がたつにつれて、その「少し前」という距離はどう変化していくのでしょうか。

私たちは、「まだ距離がある」という言葉に引きずられて、無意識のうちに、その距離を一定のもののように感じてしまっていないでしょうか。

距離は無限に残っているのか??

アキレスと亀は進むスピードが違います。アキレスの方が速いので、時間がたつにつれて、両者の距離は縮まっていきます。

そのため、アキレスが亀の過去の位置にたどり着くまでの間に、亀が進むことのできる距離も、どんどん短くなっていくはずです。

「少し前」という漠然とした距離を無限に積み重ねていくと、たしかに、いつまでも距離が残されているかのように感じます。

しかし実際には、その「少し前」は毎回同じ大きさではありません。時間がたつにつれて、アキレスと亀の距離はどんどん小さくなっていきます。

つまり、無限に「まだ距離がある」と言えるとしても、その距離が無限に大きく残っているわけではありません。むしろ、その距離はゼロに近づいていく。

そして、ある時点でアキレスは亀に追いつきます。そこから先は、アキレスの方が速いので、今度はアキレスが亀を追い越し、両者の差を広げていくことになります。

同じ速さなら時間も縮む??

このとき、私は、アキレスも亀も加速せず、それぞれ一定の速度で進むことを想定していました。もちろん、アキレスの方が亀よりも速いものとします。

一定の速度で進んでいるなら、進むべき距離が短くなるほど、そこに到達するために必要な時間も短くなります。

先ほど述べた「まだある距離」は、時間の経過とともにどんどん短くなっていきます。そして、その距離が短くなるなら、それを移動するための所要時間も短くなっていくはずです。

つまり、追いつく直前には、「まだある距離」も、それを移動するための時間も、限りなくゼロに近づいていきます。

ここで見落とされやすいのは、距離だけが小さくなっているのではない、ということです。

距離が小さくなれば、時間も小さくなる。

アキレスと亀のパラドックスでは、「まだ距離がある」という言葉ばかりが目立ちます。しかし、その「まだ距離がある」に対応する時間もまた、どんどん小さくなっているのです。

僕たちが見失ったのは・・・

私たちが見失っていたのは、「まだある距離」と、その距離に対応する移動時間のスケール感ではないでしょうか。

私たちは、空間や時間を、自分の身体感覚と結びつけてイメージしています。

たとえば、1センチや1ミリという距離なら、なんとなく想像できます。1分や1秒という時間も、感覚としてつかみやすいでしょう。

けれど、1ミクロン、つまり0.001ミリという距離になると、急に想像しにくくなります。1ミリ秒、つまり0.001秒という時間も、身体感覚としてはほとんどつかめません。

まして、限りなく小さくなっていく距離や時間を、身体感覚だけでイメージすることはかなり難しい。

だから、アキレスと亀のパラドックスを聞いたとき、私たちは「まだある距離」や、その移動にかかる時間を、どこかでそれなりにまとまった量として捉えてしまうのではないでしょうか。

言葉の上では、どれだけ小さくなっても「まだある」と言えます。

しかし、その「まだある」は、1メートルの「まだある」かもしれないし、1ミリの「まだある」かもしれない。あるいは、身体ではほとんど感じ取れないほど小さな「まだある」かもしれない。

この違いを見失うと、「まだある」が無限に続くことだけが強調されてしまいます。

その結果、無限に小さくなっていく距離や時間を、まるで毎回それなりの大きさをもった距離や時間であるかのように感じてしまう。

アキレスと亀のパラドックスが反論しにくいのは、そこに理由があるのではないかと思います。

私たちが見失っていたのは、「まだある」という言葉の裏側で、距離と時間が限りなく小さくなっていくということなのです。

無限個の区間があると時間は無限にかかるのか?

アキレスが亀の過去の位置にたどり着くたびに生まれる「まだある距離」を、一つ一つの区間として捉えてみます。

すると、たしかに区間は無限に分けられるように見えます。

しかし、その区間の長さは一定ではありません。アキレスが亀に近づくにつれて、一つ一つの区間はどんどん小さくなっていきます。

にもかかわらず、私たちはその区間を、ある程度まとまった距離のように感じてしまいがちです。そして、その区間を進むための時間についても、身体で感じ取りやすい程度の時間を想像してしまいます。

そのため、進路上に無限個の区間があると聞くと、そこを進むための時間も無限にかかるのではないか、と錯覚してしまうのです。

しかし、無限個の区間があることと、無限の時間がかかることは同じではありません。

時空間操作系の能力者

では、アキレスが本当に亀に追いつけない世界とは、どのような世界なのでしょうか。

自分なりに想像してみると、たとえば、両者の距離が縮んでいるにもかかわらず、その距離を移動するための時間が短くならない世界なら、アキレスは亀に追いつけないかもしれません。

普通の世界では、距離が短くなれば、その距離を移動するための時間も短くなります。

しかし、もし亀に近づくほど、アキレスのまわりの時間の流れが遅くなっていくとしたらどうでしょうか。距離は小さくなっているのに、そこを進むための時間が小さくならない。そんな世界なら、「まだ距離がある」が本当に永遠に続いてしまうかもしれません。

つまり、亀はただの亀ではなかったのです。

もしかすると亀は、自分のまわりの時空をゆがめることができる、時空間操作系の能力者だったのかもしれません。

もちろん、現実の亀はそんな能力を持っていません。だから、現実の世界ではアキレスは亀に追いつきます。

アキレスが追いつけないようにするには、亀の速さだけでは足りない。距離が小さくなっても、時間が小さくならないように、世界のルールそのものを変える必要があるのです。

僕たちは無限に触れられるのか?

アキレスと亀のパラドックスは、単に「足の速い人が亀に追いつけるか」という話ではないのだと思います。

この話が私たちに突きつけているのは、無限に小さくなっていくものを、私たちはどう理解できるのか、という問いです。

私たちは、1メートルや1秒なら身体感覚でつかむことができます。1ミリや0.1秒でも、なんとか想像できるかもしれません。

しかし、その先にある、限りなく小さくなっていく距離や時間を、身体感覚だけで捉えることはできません。

それでも、数学はそれを扱おうとします。

無限に分けられる区間。
限りなく小さくなっていく時間。
そして、それらを足し合わせた先に現れる有限の値。

ここに、極限という考え方の入口があります。

極限の定義を初めて勉強したとき、私は「なんてまわりくどく物事を語るのだろう」と感じました。

でも今は、そのまわりくどさの中に、人間の知恵と努力が詰まっているようにも感じます。

私たちの身体感覚では、限りなく小さくなっていくものに直接触れることはできません。けれど数学は、それに別の仕方で近づこうとします。

簡単には触れられないものに、なんとか近づこうとする。
極限の定義には、そういう営みが込められているのかもしれません。

アキレスと亀の間にあったのは、ただの距離ではありません。

そこには、有限な身体を持つ私たちが、有限な言葉を使って、無限というものをどう考えるのか。

その問いが隠れていたのだと思います。

まとめ

アキレスと亀のパラドックスは、言葉の弱点を突いた叙述トリックのようにも見えます

しかし、それだけで片づけることはできません。

重要なのは、その叙述トリックがなぜ成立してしまうのか、ということです。

「まだ距離がある」という言葉は、1メートルにも、1ミリにも、1ミクロンにも使えてしまいます。けれど、同じ言葉で語られているからといって、同じ大きさの距離が残っているわけではありません。

私たちは、無限に小さくなっていく距離や時間を、身体感覚としてうまく捉えることができません。そのため、「まだある」という言葉に引きずられて、そこに毎回それなりの距離や時間が残っているように感じてしまう。

だからこそ、このパラドックスは単なる屁理屈として消えなかったのだと思います。

ゼノンの問いは、自然の矛盾を示したというより、自然を説明しようとする私たちの言葉と感覚の限界を浮かび上がらせました。

その限界に明確に答えるために、極限や収束という考え方が必要になったのではないでしょうか。

無限に近づいていく過程で、アキレスと亀のあいだにある時間と空間は、それまでの有限を前提とした見方では捉えきれなくなります。
歪んだのは時間や空間そのものというより、それらを見る私たちの枠組みだったのだと思いました。

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ToDo | わからんもんコレクター 学びながら書いています。面白いと思っていただけたら、チップで応援していただけると励みになります。