三月に観た映画感想
ジョン・ウィック:コンセクエンス
今まで契りによる協力が多かったが、今回は男の友情といった側面が強かった。盲目の人間がどう戦うのか、といったところも上手く処理されていた。防弾スーツが当たり前になっている世界で、当たり前のように薄っぺらなスーツが銃弾を弾いているのは笑えてしまう。この点はあまりにもフィクションなわけだが、それ以外は現実的な戦闘スタイルを目指しているせいか、個人的には些か爽快感に欠けるように感じてしまう部分もある。戦闘中、所々コミカルな演出やセリフがあり、それもまた笑いを誘う。カメラワークは大胆で、真上からの構図で戦闘を撮影している部分など面白い。相変わらず、ジョン・ウィックは多勢に無勢といった感じでボロボロになり過ぎている。それでも立ち上がり、戦っているのだから、彼の一番の強さとは、そのしぶとさのように思う。最後、ジョン・ウィックのお墓があったが、あの演出は全然死んでいないように感じられるよなぁ。
ジョーカー、ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
一作目は、ジョーカーの誕生を描いた話だ。周りから騙され、馬鹿にされ、愛されなかった男の物語。彼がこのようになってしまったのもいくつかの運が悪かったからのように思う。一つは生まれだ。アーサーは元々捨てられた子供。それが養子として引き取られたものの、行った先にはDV夫。それにより、ウェイン邸で働ける程であった母も精神が狂った。アーサーはそこで虐待を受け、脳に障害を負ってしまった。その後も、母に騙し続けられている。職場では周りに馬鹿にされている。同僚から身を守るためと拳銃を渡されるが、これも運が悪かった要素だ。その後、電車内で暴行を受けてしまったのも運が悪い。色々な負の要素が積み重なって、彼の中のタガが外れてしまったのだろう。一回外れてしまったタガは止まるところを知らない。最後には捕まってしまったが、不満多き世間から持ち上げられてしまったところからが、二作目の始まりである。
二作目は、かなりミュージカル色の強い作品であった。何かとすぐ歌を歌い出すジョーカーとハーレイである。ジョーカーはハーレイとほぼ一目惚れのような感じである。ハーレイを愛していたが、実は嘘を吐かれていた。そのことを問いただすも、上手く言いくるめられ、またハーレイのことを信じてみようとする。アーサーは、ハーレイだけは自分のことを分かってくれていて、自分を愛していると思っていた。でも結局は、ハーレイはジョーカーのことしか見ておらず、ジョーカーに恋をして、アーサーには興味なかったのだ。最後には、ジョークを聞いてと言われて聞いていると、刃物で腹を何回も刺され、死んでしまう。アーサーという人間は、常に愛を求めていたのだろう、常に本当の自分を分かってくれる存在を求めていたのだろう。でも、それは叶わなかった。誰からも愛されず、自分が信じた人間には嘘を吐かれて裏切られている。そんな人生であった。結局は道化には成りきれなかった男の、あまりにも不遇すぎる人生、それがこの映画で描かれているものだろう。二作目の最後、背景ではアーサーを殺した男がナイフで自分の口の両端を切り裂いている。歌では、自分の跡を継ぐ息子が欲しい、といったようなことを言っていた。恐らく、この男が後のジョーカーとなるだろうということを匂わせている。バッドマンに変身する男の名はブルース・ウェインであるが、一作目では彼はまだ子供であり、最後の方で両親をジョーカーの影響により殺されていた。この映画の後の世界での展開を想像させるものである。
最後に、映画の表現方法について触れようと思う。一作目冒頭のアーサーが少年達に路地裏で暴行を受けるシーンがある。あそこでは、アーサーは悲しんでいるような、辛そうなような表情をしていた。その時、彼の胸元に付けていた花飾りの中心から、まるで涙のように水が流れてきていた。また、二作目でアーサーが四人の看守に囲まれながら雨の中歩くシーンがある。その時、四人の看守は真っ黒な傘をさしていた。しかし、真上からの視点になった時、その四つの傘は四色のカラフルなものになっていた。このように、この映画では、現実ではない事象を取り入れ、心情表現などの補助としているのだろう。また、この映画は、一枚絵として切り取った時に色合いやアングルがカッコよく決まるようなカットが多くあるように思う。
DUNE/砂の惑星
デヴィッド・リンチ氏による方のDUNE/砂の惑星。何かよく分からないものが特に説明もされないままどんどん物語が進んでいき、気付けば終わっている、そんな感じ。恐らく、全てを語るには圧倒的に尺が足りないのだろう。でも、よく分からないなりに、何となくの雰囲気で世界観を楽しむことができる映画だ。だから、観てて普通に楽しむことが出来た、個人的に。イレイザーヘッドに共通するような映像表現や音、イレイザーヘッドやツインピークスに出てきた俳優が出てきたりなどで面白い。中々映画では見ないような、アート作品では見そうな感じの映像表現がいくつか用いられている。原作の小説を読んでいないから何とも言えないのだが、恐らくはあらすじを大まかに掴んでいるとは思われる。世間では酷評されているそうだが、全然観る価値ありだと思われ。
イングロリアス・バスターズ
シリアスな場面で始まったかと思えば、全然そんなことはない映画である。本当にみんな、間抜けばかり。あまりにも詰めが甘いというのだろうか。重要そうなキャラが出てきてすぐに死んで呆気に取られたりする。ほんと、主人公含め詰めが甘すぎるよ……。一番手強そうだった敵も結局は大間抜けであった。なんで?なんかもう、シリアスだと思わせてからの裏切り、キャラ全体の間抜けさが酷過ぎて、ほんと酷いストーリー、と言った感じ。でもなんか酷過ぎて逆に笑えるし、映像は中々にかっこいいしで、結局最後まで見入ってしまった。同監督の作品であるキル・ビルのような感じでしたね、これは。あれもかっこいいけど、そういう場面がある。こういう言葉があるのかは分からないが、シリアスチック・コメディと言った感じか、それともコメディチック・シリアスか?まぁ、どちらでもいいや。散々間抜けとは言ったが、キャラの表情からナチに対して本当に恨みがあるんだな、ってことは伝わってきたりで、そこはシリアス、演技力流石だぁ、と言った感じ。
インターステラー
地球上での食料問題が深刻なものとなり、秘密裏にNASAが移住先の新しい星を探しているという物語。壮大なSFであるが、主題として「愛」がある。最初から最後まで「愛」があり、危機も「愛」がなければ乗り越えられなかったと言っても過言ではない。また、死の危機や孤独に瀕した際の人間の身勝手さ、醜さも描かれていた。大体はSFでありながらも、感覚的に現実的な話で展開されていたが、ブラックホールに入ってからのSFはかなり非現実な話となり、あれれ?となってしまった。でも、高次元の話など、誰にとっても非現実であり、理解出来る人間などいないわけであるから、ひょっとしたらあのような展開があり得るのかもしれない。非現実的で肌感覚が合わないという話はともかくとして、ブラックホールからの展開は、とてつもない「愛」を感じさせられ、感動した。「愛」とは偉大である。
ブレードランナー
近未来が舞台の映画である。今でこそ珍しくもない、サイバーパンク的表現、人間とアンドロイドをテーマとしたストーリー。だが、これが現代のそういったものの先駆けとなったという。是非、当時に生きて当時にこの映画を観て、感動を味わいたかったものだ。これは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が原作としてあるらしい。そちらは未読であるので、いつかは読んでみたい。映画に話を戻すが、人間により人間そっくりに作られたアンドロイド。人間が勝手に4年という寿命を与え、奴隷のように扱う。そんな中で、アンドロイドには感情が芽生え、恋をしたり、死に抗ったりする。彼らも別に、好き好んで人間を殺したいわけではないのだ。最後、ロイは主人公を殺せるはずなのに殺すわけでもなく、自分が如何に人間には信じられない目に遭い、光景を見てきたのかを話す。それはまさに人間然としていた。作中を通して特に語られることはなかったが、主人公も同じくアンドロイドなのでは?と思わせる箇所があったが、調べてみたところそれは公言されているらしい。主人公はアンドロイドだが、自分のことを人間だと思い、人間として生きていたのだ。人間とほぼ人間な存在との違いは一体なんなのか、それは難しい問題である。
千年女優
今敏氏の二作目の監督作品である。あらすじとしては、映像制作会社の社長である立花源也とカメラマンの井田恭二が女優である藤原千代子の半生を辿るドキュメンタリーを撮影する、といったものである。撮影が始まり、幼少期の千代子が映し出される。そこの映像の中では、その千代子を追いかけるように源也と恭二が立っている。千代子の回想と現実がまるで混ざってしまったようである。かと思えば、時代が遥か昔へと遡り、そこに源也が甲冑を着て登場する。そこで現実へと戻され、現実では千代子と兜を被った源也が熱く演技を打っており、実はそれは千代子のこれまでの出演作を辿っていたのだということが判明する。千代子の過去と彼女の出演作、そして源也と恭二が入り混じり、混沌としてくる中、恭二は常に服装が変わることなく、カメラを抱え、地に足を付けて撮影しているのだ。そして、更に彼は撮影しながらツッコミを入れてくる。この恭二の存在が、混沌としたストーリーで現実へと引き戻させてくれる重要な役割となっている。始めから最後まで凄くテンポ良く物語が進んでいき、終始爽快感と楽しさを覚える。これは全人類観るべきと言っても過言ではないような作品である。完成度が素晴らしい。
PERFECT BLUE
今敏氏の一作目の監督作品である。あらすじとしては、霧越未麻がアイドルを辞めて女優となるものの、中々上手く行かずに苦悩。そんな中、アイドルを辞めてしまった彼女にストーカー行為や脅迫行為が襲い掛かってくる、といったものである。この映画を観る時点で、僕は今敏氏の映画を3本観ていた。どれも素晴らしく、今敏氏の作品への期待値は計り知れなものとなっていたのだ。その期待値を抱えてこの映画を見始めたものだから、始め、「この映画、ひょっとして全然面白くないのでは?」となってしまった。それは何故か。この映画の冒頭は、特に何の面白みもなく、ただ霧越未麻がアイドルを卒業し女優になるといっただけのストーリーなのである。だから、僕は残念に思い、些か苦痛を感じながら映画の視聴を続けた。すると、何ということだろう。やっと今敏節と言えるような展開が始まったのである。そこからは、怒涛の展開でドキドキハラハラといった感じで最後まで映画を楽しむことが出来、やはり今敏氏は凄いな(小並感)となった。この映画では、霧越未麻が女優の道で苦悩し、そんな中ストーカー行為や脅迫行為を受けたからか「アイドル霧越未麻」の幻覚が見え始め、現実と虚構が入り混じって展開される。そして、実は黒幕が彼女のプロデューサーの日高ルミであり、その日高ルミも虚構が入り混じっていたのだ。その入り混じりを、鏡を上手く利用して表現している。
この作品の最後、霧越未麻は真相が分かったことにより、「アイドル霧越未麻」という幻覚から解放される。これでハッピーエンドかと思えば、霧越未麻が車のバックミラー越しに「私は本物だよ」と言って映画が終わるのだ。僕はこの一言が凄く引っかかってしまった。これさえなれば、全てが日高ルミの仕業、ということで納得出来たが、この一言があることにより、真相だと思っていたものに疑念を抱かざるを得なくなってしまった。この一言がバックミラー越しではなく、彼女を直接映して発せられたものならいいのだ。これが、バックミラーという、今まで虚構を映していた「鏡」という媒体越しに発せられてしまったことにより複雑化されてしまったのだ。今までは「鏡」に映っていたのは「アイドル霧越未麻」であった。しかし、事件が解決された今、「アイドル霧越未麻」は消滅し、そこにあるのは「女優霧越未麻」。現実と虚構が一致したということなのだろうか。黒幕が日高ルミであるという点を崩さずに解釈するのならそうなるのだろう。

