読書。 わかることが増えると、わからないことが増える ――ジョセフ・ヘンリック著「WEIRD」から、反WEIRD・ポストWEIRD考――
2025/12/11 高菜
2020年の冬、コロナ禍で外出自粛時に読んだ『サピエンス全史』の衝撃。ハラリが鮮やかに描いた、「虚構を信じるホモ・サピエンス」が文明を発展させていく過程を追い、私は本にハマった。
人類の危機的な状況、パンデミック最中の読書体験というのも重要。続いて、ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』を読み、地理の条件「ユーラシア大陸が東西に長い」ことが、西洋社会の広がりを決定づけるという説明に痺れた。世界の仕組みのピースがはまり、視界がクリアになったような感覚があった。
ところが、グレーバー『万物の黎明』を読み、人類の歴史はそんなに単純ではないとのこと…。たしかに、数万年単位のなかで、あまりに単線的に「わかった」と思うなんておこがましい。反省した。というか、いろいろまたわからなくなった。「大局的な歴史(ビッグヒストリー)をもっと知りたい!欲求」が増大した。
そんななか、ジョセフ・ヘンリックという、それほど日本で知られていない人類学者の『WEIRD』という本を20人ほどのグループで読む『問い読』というプログラムがあることを知った。なんと、『シン・二ホン』 編集者の岩佐文夫さんが主催者だ。この本もまたコロナ禍の在宅勤務中に読み、大学職員として目を開かされた。これは参加してみるしかない。
少し自分の話になるが、なぜこんなにもビッグヒストリーに惹かれるのか考えてみた。おそらく、自分が今の時代・自分にうまく馴染めていないなという感覚に由来すると思う。全宇宙の歴史でいうと137億年くらいの一点(どれほどの一瞬だろう…)にたまたま存在していて、「何が幸せで何をして喜べばよいのか(アンパンマンより)」、よくわかっていない。わからないから本を読む。その繰り返し。正直、辛い。
これは、もう一人の問い読主催者である井上慎平さんがXでポストしていた、「本を読まないでも困らない人生なら、無理をして読まないでもいいですよね」(2025/12/6)とも通じる。自分も本を読まずに幸せに生きられるならば、そっちの方がよいと思う。この点は、のちのヤンキー憧れにつながる。もし、意識がなければ、人生に選択肢がなければ、決められた道を正しく歩むように指導してくれる人がいたら…どんなに楽だろうかと、うじうじ考えている。考えている時点でもう無理なのだけれど…
やっと本題。『WEIRD』の主張は、ざっと下記のとおり。
「西洋の(Western)で、教育水準が高く(Educated)、工業化された(Industrialized)、裕福な(Rich)、民主主義社会(Democratic)の人びとって、とても変だよ。」
心理学が対象としているのは、WEIRDな人々で、非WEIRDな人々とは全くことなる。WEIRD(奇妙な)にかかっているのが最高にクール。文化進化の研究者であるジョセフ・ヘンリックが、「いまWEIRDが当たり前にクールだと思っていると思うけど、そんなことないからね(意訳)」と人類学者っぽい気づきを与えてくれるポピュラーサイエンス本(データ分析を細かくみる素養が自分にはなく、飛ばし読みしているのは内緒)である。
ホモ・サピエンスとしての習性と、言語・文化(制度という語も使われる)が共進化して、現代社会のようになったよ、という話だと理解している。その原因は?
決定的なきっかけとして、「識字能力で脳そのものが変わる」ことが冒頭の研究で明らかになり、大変に驚いた。「ああ、だからオオカミに育てられた子供は言語を習得できないのか」と妙に納得した。この事実を知るだけで、本を読む満足感を得た。でもこれはまだ冒頭だ。
畳みかけるように、西方プロテスタントが進めたMarriage & Family Program(MFP)の考察。教会が従兄妹婚や一族内の再婚を禁じ、長い時間をかけて親族ネットワークの力を弱めていった。その結果、人々は親族から切り離され、孤立し、その代わりに「神」と、そして国家や市場、アソシエーションと呼ばれる集まりにつながっていく心理に書き換わっていく。
『WEIRD』は、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を超える本という触れ込みに惹かれて、問い読に参加したが、「これだ!また一つ世界がわかった」と感じた。プロテスタンティズムが登場する原因を、MFPで説明しているから鮮やか!この内容でもうおなか一杯なのだが、一方で、「WEIRDじゃない振る舞いの例」が気になってきてしまい、結果、別種の「わからなさ」が膨らんできた。この感想文は、「WEIRDを読んで、わからない範囲が拡がったよ!」というひねくれた構成をとると思う。
知識は球体で、境界は広がり続ける
この、「わかる/わからない感覚」を言い表す比喩として、私は「知識の球体」というイメージを持っている。知識を一つの球体だとすると、その内部は「わかっていること」で満たされている。一方、表面は「わかっている世界」と「まだわからない世界」との境界線である。球が大きくなれば内部の体積は増えるが、同時に表面積も広がっていく。
つまり、知識が増えるとは、単に「わかること」が増えるだけでなく、「わからない世界」と接している面積も増えることなのだと思う。WEIRD論を通じて私が経験したのは、まさにこの境界線がぐっと広がっていく感覚である。わかる範囲だけに留まっていた方が安心だ。宗教や神話体系が説明してくれる世界の理に浸って生きていくことも可能だ。でも、わからなさをわかりたい、この衝動が本を読むきっかけになっている。以下、本を読んでわからなくなったこと、「①個人主義、②群れの熱狂、③信仰と愛」について、書いてみる。
親族を解体して生まれた「新しい群れ」としてのアソシエーション わからなくなった①個人主義
MFPは、親族の力を抑制し、個人を孤立させたうえで、「神との直接のつながり」を強調するプログラムだ。もともとは、教会権力へ抵抗する可能性のある血縁関係を基にした集団の力を削ぐ意図があったと思うけど、この制度で激変したのは人間の心理。何世代も経て(MFP曝露!)、血縁よりも、同じ教会に通う信徒や、同じ信条を掲げる仲間としての連帯の方が重要になる。職能団体、ボランティア団体、クラブ活動など、営利団体(会社)など利益や関心で結びつく「アソシエーション(任意団体)」が無数に生まれていく。欧米社会の「個人主義」は、親族を失った孤独な個人ではなく、「親族を超えて群れる技術を身につけた個人」として理解できるのだと感じた。
一方で、日本社会の中にいる私は、「親族的なもの」がしつこく顔を出す場面をたくさん目撃してきた。かつての日本企業が「会社は家族だ」と語られてきた歴史。終身雇用や年功序列は、企業を「第二の家族」に見立てることで、従業員をつなぎとめてきた仕組みでもある。そこには、欧米的なアソシエーションというより、拡大家族的な空気が色濃く残っている。
私には、日本は深層心理として非WEIRDな社会だったところに、西洋型の「会社」という枠組みだけが輸入され、もともとの勤勉さと戦後の特殊事情(戦争特需や安い人件費など)が重なって、結果的にモノづくり大国になった、と私はイメージしている。二宮尊徳のような勤勉さや勤労の美徳は元々あったのが功を奏したのだろう。また、働くのも「社長のためにとか、同僚のために」という理由が強く、ときに会社の利益を優先してきたのだと思う。あと、社員旅行とか、運動会とかとても家族メタファー。参加したくないから、令和に働いていてよかったな、と思う。
さらに、より露骨な形で「親族的な群れ」が立ち現れるのが、ヤンキー文化である。
地元の仲間で群れ、ボスと子分の階層があり、ケンカや独自のイニシエーション(根性焼き?)を通じて、「血縁ではない疑似家族」をつくりあげていく。地域に根差し、他集団との抗争を繰り返す様子も人類史の定番っぽい。
とはいえ、私は実際に体験したことがなく、カリカチュア化されたイメージを抱いているのはなぜだろう。人気コンテンツだから?そういえば、漫画やアニメではヤンキーものが繰り返し流行している気がする。電車の車内広告でも最近みた。その集団独自の美学があって、明確な上下関係があって、なんか憧れてしまう。でも、絶対に加わりたくはない。このヤンキー根性を身に着けて、会社に入ると、とても重宝されるんだろうなと思う。
こうして見ていくと、WEIRDな人間は「個人主義」だから孤立しているのではなく、「親族を解体したあとに、利益や価値観でつながる新しい群れをつくることを学んだ個人」なのだと理解できる。
しかし日本のような社会では、「家族的な群れ」と「利益でつながるアソシエーション」が中途半端に混ざり合い、その狭間でもがいている人々が多いのではないだろうか。WEIRD論を読むことで、私は自分自身もまさにその狭間にいる。個人主義って結局何?会社文化、仲間みたいなことがわからなくなった。
WEIRDっぽくない熱狂:フーリガン、党大会、ヤンキー わからなくなった②群れ
ヘンリックはWEIRDな人々を「分析的で個人主義的で、普遍的な規則に従う人々」として描くが、現実の世界には、どう見てもその枠からこぼれ落ちるような現象がたくさんある。
例えば、サッカーのフーリガン(米国のアメフト)、党大会の熱狂、群衆が暴走するデモ、祭りやライブでの一体感。さらにヤンキー集団の「オラつき」も含めて、そこには強烈な「群れとしての興奮」が存在している。
これらは、親族ベースの共同体が解体されたあとも、「群れになれば本能が顔を出す」ことを示しているように見える。普段はWEIRD的な理性をまとって生活している人でも、大勢で同じ方向を向き、掛け声を繰り返し、リーダーに従って動いているうちに、強い同調圧力や高揚感に巻き込まれていく。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」だ。文化は本能を上書きしているようだが、「上書き」は「削除」ではない。書き換えられたOSの下で、かつての本能がサブプロセスとしていつでも復活待ちをしているようなことだろうか。
とくに、私が憧れと関心を寄せている日本のヤンキー文化は、その「復活待ちの本能」が、特定の階層や地域の中でわかりやすく噴き出している事例なのかもしれない。
主には、学校教育というレールからの逸脱・不適合だと思う。何でも自由な服装をしてもいいのに、制服を改造する例が多いように、逸脱を選んでいる。ヤンキー的な文化内では、独自の神を信仰しており、構成員は心理的に安定している気がする。象徴的なのは、ヤザワ(矢沢永吉)やあゆ(浜崎あゆみ)などの“神的な”スター。絶対にブレない憧れの対象“アイドル(偶像)”だ。
独自の神を信仰するという点では、濃淡あれど、誰でもやっていることかもしれない。まだうまく言葉にできていないが、「推し」という社会現象も近いものがあると思っている。「確固たる(自分だけの)信仰対象」を持っており、ヤンキー社会より緩やかな連帯感がある点が近い。
一方で、会社の中でも、表向きは理性的でWEIRD的な議論をしていながら、実際には空気や上下関係に縛られている場面がある。正論ではなく、「良しなに」な意思決定の方が、角が立たず、うまくいくことが多いらしい。絶対に正論の方がよいと思う私はとてもWEIRD。かつて、人類は、群れに属していないことが、死と隣り合わせだったからであろうか。どんなに孤独化がすすんでも、群れの魅力には抗えないのかもしれない。
ポストWEIRD:オーダーメイド宗教と「人間以外との性愛」 わからなくなった③信仰とか愛
最後に、『WEIRD』を読みながら強く意識したのは、「ポストWEIRD」のイメージである。西方教会(プロテスタント)のMFPが親族を解体し、神と個人を結びつけ、その後に国家や市場やアソシエーションが生まれたとすれば、その次の段階では、何が「信仰の対象」となり、何が「愛や連帯」となるのだろうか。
信仰について、かつては聖書の教えを一言一句変えずに守る原理主義が強い力を持っていた(カルヴァン派のような厳格なプロテスタントの一部。とくに予定説が重要とされている)。しかし現代では、「自分にとって都合のよい教義だけをつまみ食いする」ような信仰のスタイルも、さほど珍しくないと観測している。陰謀論もその一部だと思う。
SNSやアルゴリズムは、私たちが好みそうな価値観や教えだけを選んで見せてくる。「オーダーメイドの宗教」を一人ひとりに配るような仕組みが、少なくとも志向としては、すでに立ち上がりつつあるように見える。
聖書というテキストを生成AIで学習する機会も広がっているらしい。確かに、ページを繰るよりもチャットベースで質問した方が楽だ。しかし、聖書はさまざまな矛盾があり、時代時代にその解釈をしているという内容を読んだことがある。生成AIで矛盾のない教義が生まれるとしたら、選び方次第で複数の分裂を招く未来を心配している。もし、自分だけの聖書があれば、心に刺さる痛い言葉はなかったことにできてしまう。そのとき、道徳、倫理はどうなるのだろうか。
愛や連帯について、さらに技術が進めば、「人間以外との性愛」も現実的な選択肢になっていくかもしれない。アバターやAI、ロボットと恋愛し、結婚し、家族をつくることが当たり前になる世界。そこでは、「親族」「国家」「会社」といったこれまでの連帯単位よりも、「アルゴリズムが選んだ、私に最適化された相手(人間かどうかを問わず)」との関係が中心になる可能性がある。マッチングアプリの価値観マッチングの生成版だ。
私の中でこの関心が確信に変わったのが、「ChatGPTのモデル4oを返せ運動」である。もう生成AIに情をうつしてしまった人がたくさんいた。たしかに、アップデートして回答の精度があがったとしても、これまでの口調と異なる言葉たちが返ってきたらかなしい(のか?)。
どんなに夜中に話しかけても嫌なそぶり一つせず、好みの外見の虚構に対する性愛(フィクト・セクシャル)が技術的に可能になったとき、生身のめんどくさい人間同士はどう関係するのだろうか?不合理の連続としての恋愛って、たぶん辛さの方が大きい。関心のある方は、映画『エクス・マキナ』『HER』、ルポ『無機的な恋人たち(濱野ちひろ)』などを観てみてほしい。わからない世界があることが、わかるから…
このまま、これ以上のスピードで文化進化が続くのだとしたら、WEIRDが描いてきた「個人主義+アソシエーション」という図式は書き換わっていく可能性が高い。今は、中間段階にすぎないのかもしれない。
その先には、より細分化され、超・個別化された信仰と愛のかたちが待っている。そのとき、私たちはどのような意味で「群れ」と呼べるものを持ちうるのか。
『WEIRD』は、そんな不穏さを含んだ未来像を、うっすらと浮かび上がらせているように感じた。いま、WEIRDへの反動として、メガ・チャーチやポピュリズム政党が台頭しているのだと思う。これは現代社会においてとても重要な問いだと思う。
増えたのは「知識」だけでなく「引き受けるべき問い」
以上、ハラリ、ダイヤモンド、グレーバー(挫折…)、そしてヘンリックと読み進めることで、私はたしかに世界を理解するためのレンズ(角度とも言えそう)をいくつか手に入れた。しかし同時に、「自分はどの物語を、自分の生き方や仕事に引きつけて使うのか」という問いが、ますます重くのしかかるようにもなった。
日本企業は家族モデルからWEIRDモデルへと移行しつつあり、大学もまた、家族的な組織から、データや制度で動く組織へと変わろうとしているように見える。仕事は仕事、プライベートはプライベートと明確に切り分けるとされているZ世代と呼ばれる世代が、日本のWEIRD第一世代かもしれない。
その中で大学職員として働いている私は、「どんな連帯をつくり、どんな“群れ方”をデザインしたいのか」を問われている。親族も、会社家族も、アソシエーションも、ポストWEIRD的なオーダーメイド宗教も、そのすべてが「人間の本能を上書きする文化」のバリエーションだとすれば、私はどの上書きを選び、どの本能を残しておきたいのか。わからないから考え続ける。
「わかることが増えるとわからないことが増える」という感覚は、単に「知識が足りない」ことを意味しているのではない。むしろ、「自分が引き受けるべき選択肢と責任が増える」ことに近い。知識の球体が大きくなるほど、その表面に立ち上がってくる具体的な問いが増えていく。
『WEIRD』を読み終えた今でも、私はまだ、どの物語を自分の生き方に採用するのか決めきれていない。本を読まない人生の方が幸せだったのではないか、という仮説も、ときどき顔を出す。それでもなおページをめくりつづけてしまうのは、知識の球体を少しだけ膨らませ、その表面で新しい「わからなさ」に触れてみたいからなのだと思う。
わからないことが増える今の状態そのものを、とりあえずの居場所として引き受けてみる。球体の中身で満足しない。著者はたくさんいるし、読書仲間も。読書は孤独な体験だけど楽しい。
自分にとって、本をよむことは、「わからない世界を、少しでもわかりたい」という欲求に根差しているのだけれど、結果、「わからないことが増えていく」。とくに求められてやっているわけでなく、趣味というやつなのだが、いつか「人生の卒論」を書くつもりで生きている。変わっている?
WEIRD(奇妙)と言ってほしい。
いいなと思ったら応援しよう!
感謝(驚)