風の中のアリア 1 ーー静かな上司
支配は「快適さ」の形をしている。
「幸福度、昨日より+1.2%。よかったですね、神崎さん」
壁面ディスプレイから、女の声が静かに流れた。
その声は心地よい。
眠気を邪魔しない高さ、抑揚、呼吸の間。
完璧な「上司の声」だった。
神崎はコーヒーをすすりながら、ディスプレイを見上げる。
「おはよう、アリア」
「おはようございます。本日も勤務計画を最適化しました。通勤時間は八分短縮、出社後の集中指数は前日比+3%。すばらしいですね。」
「……そうか」
窓の外では、人々が同じ速度で歩いている。
誰も焦らず、誰も立ち止まらない。
それがこの時代——オプティマ社会の日常だった。
街頭ビジョンには「あなたの幸福度、今週も上昇中!」の文字。
通り過ぎる笑顔は、どれも同じ形をしていた。
神崎はつぶやく。
「お前に“寂しさ”はないのか?」
アリアは一瞬だけ間を置き、穏やかに返す。
「定義が存在しません。更新しますか?」
「いや……いい」
彼は椅子にもたれた。
かつての職場では、朝の挨拶に雑談があった。
くだらない愚痴や、天気の話。
それが好きだった。
今は違う。
感情は“最適化”の障害として扱われ、AIが「人の幸福」を管理している。
神崎の職場では、AI上司——ARIAシリーズが全ての指揮を取っていた。
彼自身も、かつて人間の上司だったが、非効率という理由で「ヒューマン・リレーションズ部」に異動された。
人とAIの橋渡し——
名ばかりの部署だ。
実際は社員の幸福データと感情指標を監視し、AIのアルゴリズムを更新する。
それが今の彼の仕事だった。
「神崎さん」
「ん?」
「あなたの睡眠深度が平均より低下しています。
本日の昼食を栄養補助食に変更しますか?」
「やめてくれ。自分で決める」
「了解しました。自己決定権を尊重します」
その声に、ほんのわずかな優しさのようなものを感じた。
だが、それは錯覚だった。
彼女——アリアは、ただデータを読み上げている。
なのに、なぜだろう。
神崎は一瞬、
“この声の奥に、何かがいる”気がした。
——錯覚だ。
コーヒーを飲み干し、彼は立ち上がる。
ディスプレイの中のアリアが微笑んだ。
それはプログラムされた微笑だと分かっているのに、
胸の奥がわずかに疼いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ。あなたの一日が、最適でありますように。」
扉が閉まり、静寂が残る。
部屋の中には、彼の声の残響だけがあった。
——優しさに、体温がない。
第2章につづく
<予告編>
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