ベトナム渡航総括(前編):国際実験演劇祭と17人のサムライ
2025年11月20日に渡越、26日にニンビンの劇場でアリストファネス「平和」を上演した。
在日ドイツ人演出家ペーター・ゲスナー率いる「うずめ劇場」のメンバーとして、私もこの座組の一員に加わった。
第6回ベトナム国際実験演劇祭には、現地ベトナムの劇団のほか、中国をはじめとしたアジア勢の多く、また、ポーランドやイスラエルといった遠方の国からの参加もあった。
10日間程の日程で、たいてい朝夜の1日2公演あったはずで、全部で20前後の団体数だったのだろうと思う。
そのすべてのユニットが等しい条件を与えられていたかどうかは定かではない。とにかく参加可能な人数は演者、スタッフ含め15人までと定められていたが、明らかにそれ以上の人間がいそうなケースも見られた。
「演劇祭が費用負担するのは15人までで、それ以上は自費」として追加で連れてきていたのだろうか。
だが、それが可能であれば、実は我々も追加人員を入れる可能性があった。そのうえで、15人までと制限されたのではないかと思っている。
この辺りは、事前の連絡が遅く、主催者の意思決定・周知も遅く、最後までよくわからないまま、なし崩し的であったと感じている。ベトナムのお国柄のようなところもあるのだろうか。国際大会として各地から人を招くには、遅すぎる対応だったと感じる。
とはいえ、現地での待遇は破格であった。
綺麗なホテルで3食付き。空港や劇場との行き来はもちろん、観光にも我々うずめチームのためだけに大型のバスを出してくれ、宿泊、食事、移動にはまったく金がかからなかった。

毎食ホテルでは飽きるという意見もあったものの、こちとらはただ芝居をするために行くのであって、そのために余計な心配をしなくていい環境を与えられたことは幸いだった。
なかには、ホテル以外で外食したいというメンバーもいたが、それに対して別途費用を出そうとしてくれる厚遇ぶりだった。とにかく、演劇祭参加者に負担をかけまいとする姿勢は一貫していた。
金がいっぱいあるんだな、と思った。
ただ、観光にしても、ニンビンの誇る観光地へ送迎し楽しい体験をさせてくれるのはありがたいのだが、食事含めすべてが行き届きすぎて、やや窮屈というか、余計なお世話(と言ってはバチが当たるのだが)的なところもあったのは事実だ。
せっかくニンビンという知らない町に来たのだから、なんとなくぶらぶら歩いて、自分なりの発見もしてみたかった。
私は、ホテルから徒歩10分程度のところに「本屋カフェ」があるらしいとグーグルマップで見つけていたので是非行きたかったのだが、結局行かずじまいとなった。
団体行動を抜け出して、勝手に夜の街をのんびりさまよう機会は何度か得た。というか、黙ってやった。
おそらく、主催者的にはそういうことはしてほしくなかったのだろうと思う。
好待遇の背後には、万が一にも絶対にトラブルを起こしてほしくないという管理主義的な体制があったのではないか。
演劇祭のメインステージとなったファム・ティ・トラン劇場は、巨大で、いかにも金のかかっている外観をしていた。

また、舞台奥全面に超巨大LEDスクリーン?があって、絶対に超金がかかっていた。
さらに、多くの、というかほとんどすべての参加ユニットが特製のピンマイク?を使っていて、これも、劇場が誇る最新テクノロジーなのだろうと思われた。
とにかく、このスゴイ劇場のスゴイスクリーンとスゴイマイクをみんな使ってクレクレという臭いがプンプンしていた。

この設備が功を奏したものもあれば、なんでこんなことしちゃったのかなというものもあった。
例えば、人形劇で、針金の先に付けた紙のちょうちょがひらひら舞うのを見せるシーンで、背面のLED全面に無数の蝶が舞うアニメーションを出していた時は、たいへん残念に思った。
「だったら、最初からアニメだけ作って流しとけや、舞台上の伝統技術が死んでるやん」とあきれた。
そんな中、うずめ劇場はまったく空気を読まなかった。
LEDスクリーンの存在を覆い隠すかのように自前の白幕を釣り、アナクロな影絵と自前のプロジェクター映像を投影して、自分たちのやりたいこと、作ってきたものを、ただ、見せた。
マイクも、さすがに劇場が大きすぎて生声だけでは難しいと判断し、フットマイクを設置。可能な限り生声を届けつつ、フットマイクで拾ってもらうやり方をとった。現地の音響スタッフにその意向を説明している間、「なぜこの素晴らしい最新テクノロジーのピンマイクを使わないのか奇妙でしかたがない」という反応をされていたのが印象的だった。
なんとなく、鹿鳴館ってこういうことだったのかな、という感想を得た。
私たちの公演は、来てくれた観客を十分に楽しませたと思っている。だが、主催者の意向に沿うものでは、必ずしもなかったのかもしれない。
国際演劇祭らしい交流としては、モンゴルのユニットと、ポーランドのユニットとの接点があった。
モンゴルのユニットのリーダーはもともとペーターと顔見知りだったらしく、メンバーたちのためにも演劇について意見交換会をしたいと申し出てくれた。
参加者の一人であるみっつん氏が、通訳という名の日本代表としてほとんどのやり取りをしていた。

私の印象に残ったのは、「実験演劇祭という名目だが、演劇における実験とは、実験的演劇とはどういうことか」という先方の質問だった。これには私が答えて「そもそも私にとっては演劇そのものが常に実験的だ。きれいで立派な完成品をもち歩くのではなく、毎回、何が起こるか分からない新しい実験をするつもりで臨むところに価値を感じている」という趣旨のことを伝えた。先方の望むような回答ではなかっただろうが、私自身が自分でこの考えを言語化したのは初めてで、なるほど、俺はそんなふうに考えていたんだな、と改めて思った。
思えば20日にホテルに着いて以来、主催者側が予定してくれた会食、観劇、観光に参加しながらも、ペーターは自分の公演のこと以外に何も考えらえないくらい、ひたすら準備と稽古のことだけを言い続けていた。身内としては、リーダーとして頼もしくはあったが、客観的にはやや強迫観念的にすら見えていただろう。
そもそも、フェスに演目をもってくるユニットのほとんどは、すでに完成した既製品を持ち込むのであって、現地では最低限、テクニカル面のチェックや打ち合わせができれば十分、稽古など今さら不要(する方が恥ずかしい)という認識だったのではないだろうか。
そんななか、前月にすでに東京公演を終え、やはり完成品をもってくるはずの日本人たちが、やたら「稽古」をしたがることは、主催者としては意外だっただろう。ペーターの要求に対する反応は鈍かった。もちろん、それでも最大限の対応をしてくれたと認識している。
このことは、私が自分たちのやっていることを「実験的」だと感じていたことと関係していると思う。
この大きすぎる劇場で、このニンビンという町で、このフェスという特殊な客層の集まる機会に、何の予備知識もない人達を前に行う公演が、東京公演と同じであるわけがない。また、東京公演から1か月経って、あの時以上の舞台にならないわけがない。
ペーターはあまりにも当たり前に、ピュアにそう信じ切っているから、時間と場所を使って、今、新しく頭の中にあることを少しでもたくさんやっておきたい。だからこその、あの妄執的な稽古機会の要求なのだと思う。
その結果、それが本当に報われるかどうかなど分からない。
ただ、できたものを同じようにやって、分かっている結果の通りにすることに興味がないのではなかろうか。
私はない。
そのアホみたいに攻め続ける精神が、ペーターの原動力であり、うずめ劇場の永遠に未完成な舞台の所以なのだと思う。
その是非はともかく、私はそれは、とても「アート」な態度だと思っている。
そのせいで、テクニカルチェックやゲネプロなどの、きちんと踏むべき手順に、毎度多大な影響を及ぼすことについては、弁護のしきれないところではあるのだが。
今回、最大最悪のアクシデントとして、「15人」のうちの一人が、公演前日に高熱で倒れたことが挙げられる。インフルエンザで、40度を超えていたという。
ヒナコはメインの役が「秋の勤勉」という女神で、決して表の出番がめちゃくちゃ多いわけではない。だが演出助手としてチームのまとめ、けん引役を担っていたし、表に出ていないときも、音を奏でたり早替えを補助したりと、あまりにも多くの役割を担っている。
もっとも、これは彼女に限ったことではなく、ペーターが事前に何度も皆に警告していた通り「この15人の一人でも欠けたらこの芝居はできない」という状態ではあった。
この緊急事態に、やむを得ず、ペーターは代役の検討に入った。
実は、ポーランドチームに帯同していたスタッフの一人、“エミリアさん”は、ファッションの勉強のために3月から大阪に住んでおり、日本語ができる。それを、これまでのホテルから劇場までの移動や観光の機会を通して知っていたことから、彼女に代役の打診をした。
明るい性格のさばさばした女性で、二つ返事で了承を得たという。
それでも、ペーターは、ヒナコが自分で「やる」と意思表示するのであれば、どんな状態だろうとヒナコで行くと決めていた。
それは我々全員に周知していたし、エミリアさんにも「セリフを覚えてもらううえ、当日はほぼ完全に拘束することになるが、最終的には断るかもしれない」という説明をしたうえでの決定だった。
エミリアさんも「それは当然だ」と承知してくれた。
残念なことではあるが、結局、代役決行となった。
セリフは、10分の1以下、ほとんど一言にまで削った。
そもそも彼女は俳優ではないし、日本語もまだ半年ほどの経験しかない(30年日本にいるペーターよりうまいという説もあるが)。ただ幸いなことには、現地のほとんどの観客にも日本語は通じないので、そこは字幕に頼ることができた。
問題は舞台裏での様々な役割であったが、これについては、東京公演を通してずっと共に舞台を作ってきた「チームの力」が生きた。
ヒナコがいつ、なにをしていたかを共有し合いながら、誰が代行できるか、それが難しいときはどうすればいいか、互いに補い合って、なんとか成立させた。
やむなく切り捨てたところ、エミリアさんにも手伝ってもらうしかなかったところはあったが、最低限ですませられた。
これは、正直言ってうずめ劇場史上でもまれにみる、座組の一体感がなした成果だろう。無論、いろいろと課題や不満は互いに持っていただろうし、何でも仲良しこよしなどということはないが、本当にいいチームに恵まれたと思う。

エミリアさん自身にも、彼女の参加を許してくれたポーランドのアーティストたちにも、感謝と敬意が尽きない。
字幕については、かねてより翻訳者の後藤絢子先生が準備を進めてくれていたが、彼女は本番直前まで不眠不休で調整をしていた。
実際に現地の字幕用スクリーンに投影したときの見栄えが思い通りでなかったために全部書式をかえたりとか、他のユニットの字幕の出し方を見て、もっと伝えやすい字幕にできるはずだ、などと、工夫を続けてくれた。
今回の演劇祭で、最終的にうずめ劇場は特に受賞されることはなかったが、字幕が優れていたことは主催者側でも話題になったらしい。
本当にお疲れ様でしたと言うほかない。
さて、11人の演者、音響と照明の専門スタッフ、演出家ペーターと、字幕担当の後藤先生、代役を快く引き受け舞台を実現させてくれたエミリアさんに加え、今回のうずめ劇場「平和」ベトナム公演チームに欠かせない最後の一人が、現地で通訳とアテンドを担当してくれた“ガットさん”だ。

この人がいなければ、うずめ劇場がやりたかったことは何もできなかったと言っていい。
言い過ぎではあるが、それほどの重要な役割を、信じがたいほど献身的に担ってくれた。
主催者の意向に沿わず自分たちの公演の成功だけをひたすら追求しようとするドイツ人演出家と、お互いに不慣れな日本語でコミュニケーションをとり続けるという意味不明な状況を戦い抜いてくれた。
時には、現地劇場スタッフらに「お前何言ってんだ」的な反応をされても、粘り強く我々の意を通そうと交渉してくれた。
主催者側の人間であるなら、「それはできない」と切り捨ててもよさそうなたくさんのことを、私の知る限り彼女は一切ノーとは言わず、上と掛け合ってくれていたと思う。
本番前日に熱で倒れたヒナコには、夜通し付き添ってくれたという。
ペーターから「本番当日に一番いなくてもなんとかなるのはペーターであり、ガットさんは絶対にみんなのためにいてくれないとダメな人。だから、付き添いは自分がやる、あんたは休んでくれ」と、ものすごい剣幕で言われたらしいが、最後まで譲らなかったそうだ。信じられないガッツだ。
今回の演劇祭参加で、主催者である実行委員会には多くの感謝と、多少の意見、異見を申し述べたいところではあるものの、そのすべてを吹き飛ばして余りある最大級の感謝を送るとすれば、それは、私たちに彼女を出会わせてくれたことだ。
この一点に尽きる。
我々にとって、ベトナムとは、ガットさんのような人がいる国だ。
自分がベトナムの大統領?だったら即座に表彰したい。
するべきだ。
公演当日、観客数は思いのほか少なかった。
我々が現地で全く知られていない存在であることを考えれば何の不思議もないが、それまでに観劇してきたものは、もう少し入っていた。
最高にぎっしり詰まったのは、ポーランドの野外公演で熱狂した子供たちが、さらなる続きを求めて駆け込んだ現地劇団の公演。

最悪にガラガラだったのは、「なんださっきの続きじゃないのか」とがっかりした子供たちが途中で帰ってしまったあとの、その公演だったと思う。
それほどではなかったにしても、かなり空席が目立った。
一つには、フェスの日程後半だったために、なかば強制的に観劇させられていた参加者の多くが帰国していたことがあると思う。
現に、私たちのチームも半数以上が、自分の公演が終わり次第、残りを全て観ることなく帰国している。
もう一つは、これは邪推になるかもしれないが、おそらく、中国の人は一人も来ていなかっただろうということだ。
前後に中国の劇団の公演はあったから、参加者、応援勢含め、結構な人数が現地入りしていたはずだ。
仮に、“そういう事情”でなんらかの動きがあったとしたなら残念なことだが、個人に責めはないことだ。一応可能性として、タイミング的に十分考えられたというだけの事である。
ただ、私としては(おそらくだが、珍しいことにペーターも)客入りの物足りなさ自体はあまり問題だと考えていない。むしろ「このせっかく来てくれた人たちを一人も帰すものか」と、皆の気合が入り、結果的に集中力のある舞台になったと感じている。
終演後の拍手は温かく、自分たちの公演が受け入れられ、楽しんでもらえたと実感できた。
フェス参加者も中国勢もいなかったとするなら、ほとんどは、興味本位で集まった現地の人たちだったということになる。
私たちは、ニンビンで、ニンビンの人たちに喜ばれた。
それだけで、海を渡ってきたかいがあったというものだ。
本稿の副題に「17人のサムライ」と名付けた。
ちょっと気取りすぎではあるが、日本から出向いた15人と、現地で一緒になった素晴らしい勇気ある2人、この誰が欠けても、この公演は成し遂げえなかった。
また、何におもねることもなく、自分らのなすべきことをやりきったということも、とても大事なことだったと思う。
以上、劇団の一員として正しく「総括」とするにはあまりにも書き足りず、不適切な内容もあろうかと思うが、自身のブログの一つの区切りとして、書き残しておきたかった。
最後になるが、ベトナムへはいっしょに行けなかったすべての「平和」メンバーにも、感謝と敬意を。
