ラスト・ダンス➂ 紅楼夢の殺人読書会『探偵小説』という名の物語は現実を超えられるか?
綾辻行人さんの館シリーズでは常に、館と外部の空間が併置されますし、有栖川さんの作品には、大学のミステリ研究会や推理作家が登場する。二階堂氏の場合には、過去に舞台を求める。これらは、作中でミステリ的な出来事が起こっても不思議ではない異空間を作るための作業であると解釈しています。僕の『殺人喜劇の13人』の場合、館の連続殺人を描きたいと思ったとき、そういう館が現存しているとしたら何だろうというところから発想したわけですね。(略)つまり、館や探偵というものと現実の空間のすり合わせをした結果、ああいう設定になった。
ところが、最近の新本格では、そうした作品と現実とのすり合わせ作業がどんどん要らなくなってきているように思えて、その点に強い違和感を感じるわけです。
(ネタバレあります)
紅楼夢の殺人においてはいくつもの不可能犯罪が描かれた一見したところではハウダニットの物語に見えるかもしれない。しかしながら、トリック解明にて見えてくるのは、非常に大時代的なトリックである。本格ミステリ大賞の好評にも、そのあたりのことは指摘されていた。
この点に関しては全く異存はない。不可能犯罪を作り上げたトリックはさすがに非常に大味であると評価せざるを得ない。
またフーダニットに関しては少し事情が異なる。正直に言えばこの「犯人」を当てること自体は全く難しくないだろう。というよりも作者自身がこの解答に関しては隠していない。
ただ、それより先の解答をすることはほぼ不可能だろう。その時代ならいざ知らず、大観園そして古代中国という二重の覆いで隠された真相を見通すのは、現代の、そして探偵小説の論理が支配する我々読者には無理だ。
その最大の謎とは「なぜ紅楼夢という世界で不可能犯罪が起きるのか?」である。
探偵小説という形式は不可思議なものである。犯人は苦労してトリックを作り上げ、被害者を殺すという事件があり、そこに探偵が現れ、聴取をし、謎解きに入る。昔ならいざ知らずこのパターンに疑問のある読者はほぼいないだろう。
ただし、ここにはある種の幻想がある。犯人が罪を逃れるためにトリックを行い、それに対して探偵の推理に場が支配されるという幻想が。
この幻想を打ち破るためにある者は奇抜な館を作り上げ、ある者は過去に舞台を求めていた。かつては。
ミステリというものがある種の市民権を得た結果、無造作に探偵というものが配置され、意味もなく推理が行われる結果となった。
また、後期クイーン問題などに関して議論が広まっていったが、そもそもの問題として、後期クイーン問題は探偵が最上位とは断言できなくとも、上位層に存在して初めて意味を持つ。
つまり、探偵という存在を無意識的に上位位置においている。探偵を意識的に上位に描いていないにも関わらず。
これは探偵小説という形式を文字通り形式としか見ておらず、その形式を用いるための空間づくりを怠ったために起きた。ミステリという形式に依存したがために、ミステリという世界を構築するのを怠った。
この本が書かれた20年前でさえそうなのだから、現代では言うまでもないだろう。ミステリはさらに一般化し、ある種ラノベ化した。これは一般化というものを代償に、リアリティーというものをなくしたといえる。社会派が批判した現実性という意味でのリアリティーではなく世界構築という意味でのリアリティーを。
しかし、この紅楼夢の世界ではその理屈は通用しない。
紅楼夢の世界は探偵小説ではない。紅楼夢という世界には一応殺人や自殺もある。しかし、そこに推理の付け入る余地は普通はない。なぜなら無意味であるからである。そこにどんな推理をしようと権力で押しつぶされる。犯人の名を告げようが決して捕まることはない。逆に告げたものが捕らわれる。この点は秦可卿の死に関しての紅楼夢の原典での扱いを観ればわかるだろう。
ではなぜそんな世界において不可能犯罪は出現したのか?罰に怯えることも、罪が顕れることもないこの世界は、探偵小説の世界ではない。そんな世界で不可能犯罪など起きようがない。
答えは単純である。
不可能犯罪が起きたのは、この世界が探偵小説の世界となったためである。ただの強き者が弱き者をいたずらにひたすらに蹂躙する強姦事件という名の無辜の死を、不可能犯罪の被害者という特権的な死に変更することによって。
「探偵」であり「犯人」であり、ある意味では「被害者」でもある者たちの手によって。
笠井潔が提唱した大量死理論は、戦争における大量の無辜の死と、探偵小説における特権的な死を対比した。しかし、これはどうであれ作者の意識であって、探偵・犯人の意識とは程遠い。
しかし紅楼夢の殺人においては、この原理が「探偵」そして「犯人」に適用されるのは間違いないだろう。
この物語における不可能犯罪が起きていない状態の彼女たちの死はこの無辜の死に他ならない。大観園という理想郷はあくまでも彼女たちを守る弱き盾でしかない。大人たちに簡単にその命さえ弄ばれる少女たちというのは戦争の犠牲者と同じ無辜の死である。
それを宝玉は作り変えた。
不可能犯罪という虚飾をまとわせ、探偵小説化することによって、無辜の死を特権的な死に作り替えた。
罪を恐れず、法を無視し、罰さえも恐れない真犯人たちに裁きを与えるために。彼らが唯一恐れ得る怪異に身をまとわせて。
探偵という行為は、謎という名の物語を、現実に解体していく行為である。その行為を行ったのは紅楼夢の殺人においては頼尚栄である。この行為は近代的な探偵行為に他ならない。
ある意味では彼という存在によって、この物語は近代的な探偵小説であると錯覚されていた。
あるいは公案小説という名のかつての探偵小説もその錯覚に利用されたといえる。
この物語は近世中国を舞台とした近代的探偵小説であると。
しかし、紅楼夢の世界では今現在の探偵小説という行為は何の意味も持たない。近代の探偵小説という図式は、公権力という名の絶対性がなければ無意味である。
そこで見出した答えは、この無秩序たる現実を不可能犯罪という虚飾を通して物語化するということである。
つまり真実を見出すために現実を物語化、否探偵小説化したのだ。
探偵小説という行為を通して無秩序なる現実を乗り越えることに挑戦した作家といえば個人的には谺健二を挙げたい。彼は阪神・淡路大震災・酒鬼薔薇事件といった現実を通して探偵小説を描いていた。現実の凶悪さを物語の凶悪さで覆い隠そうとして。
それがうまくいったのかは分からない。現実に物語が飲み込まれたともいえるし、物語に現実が飲み込まれたともいえる。
そんな谺健二とは違って、芦辺拓は紅楼夢という世界、殺人や犯罪がありながらもそれが罰されない世界という探偵小説ではない世界に、探偵小説という形式を持ち込んだ。ただの探偵小説世界ではない。探偵小説が存在し得ない世界で探偵小説を語る意味を見出して。
「われわれ<探偵>たるものが普通そうするように謎を解くかわりに、自ら謎を創り出したわけですね。あくまで<探偵>として、真犯人を断罪するために」
先ほども述べたように今現在のミステリというものはもう一つのジャンルとして定着してしまっている。かつてはその世界構築という名のリアリティーに筆が裂かれた時代はとうに過ぎ、ミステリという形は形式化否形骸化した。
これを一方的に悪とは言わないが、そのミステリという形式に依存したがために、ミステリという世界を構築することを怠っているというのは間違いないだろう。
このミステリが跋扈する世界に再度、探偵小説という形式が何を造ったのかという点を次回は議論したい。主に虚無への供物とミステリ・オペラと対峙させて。
では。
森林木木

